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12月24日。バー海神にて

 12月24日。その老人は毎年この日にバー海神にやってくる。歳は70は超しているだろう。この年代の男としては背が高いほうで、小太り、大柄な老人である。
 見事な光頭で、それを補うかのようにきれいで豊かな白いひげを生やしている。赤ら顔で、日本人離れのした顔はいつも優しい笑顔だ。
 どんな仕事をしているのだろう。もちろんマスターの鏑木はそんなことは詮索しない。ただ、この街に住んでいないと思われる。一度も出合ったことがない。
「鏑木さん、お元気でしたか」
「はい。ありがとうございます。三田さん」
 鏑木が老人について知っているのは名前だけだ。12月24日の9時ごろやってきて、ノンアルコール飲料を飲んで、午後10時には、仕事だといって海神を出る。
「ココアをください」
「はい。今夜は冷えますね」
「ここはアーケードがあるから判りませんが、外は雪が降ってますよ」
「冷えるはずでね。今夜もお仕事ですか」
「はい。まだ配達しなくてならない荷物があります」
「寒いのにご苦労さま」
 鏑木は三田の前に、熱いココアを置いた。バーである海神に、三田は一年に一度やってくる。どうも、仕事の途中の休憩に使っているようだ。この街で、こんな時間に開いている喫茶店はない。だから海神に来るのだろう。
 二人連れの客が入ってきた。若い男女だ。 
「こんばんは鏑木さん」
 男が鏑木にあいさつした。
「こんばんは彦田さん。お二人で冬に来るのは初めてですね」
「はい。今年も夏に逢えなかったので」
 女が答えた。
「そうですね織部さん。7月7日には、あれを用意してお待ちしてましたが」
 この二人、毎年7月7日に海神にやって来る。二人は遠距離恋愛で、仕事の都合で7月の初旬にしか逢えない。彦田は関東、織部は九州で仕事をしている。7月7日の七夕の日に、二人の故郷である、このS市に来て、海神で逢うことにしていた。ところが、ここ数年は、お互いの都合がつかず逢えなかった。
「なんとか、クリスマス・イブには二人のスケジュールが開きました」
「そうですか」
 鏑木は二人がキープしているボトルを出した。ボトルには「ヒコ&オリ」と書いてある。
「いつもはあれを出すんですが、今は冬ですので」
 鏑木は柿の種の小皿を二人の前に置いた。
「あれって何ですか」
 三田が聞いた。
「川津エビです」
 鏑木が答えた。
「おいしいんですか」
「ものすごく美味しいんです。海神の名物なんです」
 彦田がいった。
「小さなエビを揚げたものです。サクサクとしてて、とっても美味しいんです」
「いっぺん星子(せいこ)に揚げてもらったのですが、もひとつで」
「マスターでなくちゃムリよ。伸一」
「コツを教えてもらえよ」
「難しくはありません。油の量と温度です」
「ここは海がない土地なのにエビはどうしてるのですか」
「川津エビは梅雨頃からが旬で、このころになると明石の友人が活けのまま送って来ます。三田さんもそのころに来られたらごちそうしますよ」
「ぜひ、そうしたいのですが、私は暑いのは苦手で」
「ぼくたちもしばらく鏑木さんの川津エビは食べられそうにありません」
「来年の7月も来れないのですか」
「はい。ぼくフィンランドに転勤になりました」
「わたしもついて行くんです」
「ぼくたち結婚します」
「わたしは会社を辞めます。フィンランドで新居を持ちます」
「それは、おめでとうございます」
 鏑木がシャンパンを出した。
「三田さんもごいっしょしてください」
「おめでとうございます。彦田さん織部さん。私は仕事ですからアルコールは遠慮します。ちょっと待っててください」
 そういうと三田は出て行った。15分ほどして戻ってきた。冬なのに汗をかいている。
「これですか」
 三田はザルにいっぱい小さなエビを持っている。ピチピチとまだ生きている。
「どうしたんですか。三田さん」
「私は人が心から欲しがれば、たいていのものは調達できます。長年そんな仕事してきましたから。鏑木さん、調理お願いします」
 川津エビの素揚げがカウンターに置かれた。軽く塩を振ってある。
「これはうまいですね。ビールが飲みたくなります。今度は仕事がないときに来ますよ」
「これで、思い残すことなくフィンランドに行けます」
「今から新居を下見に行きますか。仕事を終わったら私もそこに行きますから」
「え、フィンランドですか?」
「いいからいいから。私について来なさい。それじゃマスター、良いお年を」
 三田はそういうと二人を連れて出て行った。外で鈴の音がした。鏑木が外に出てみると、星空を飛ぶソリが見えた。ソリの後部には二人の人影が見える。

「博士、びっくりしました」
「なんだ」
「こと座のベガがわし座のアルタイルの伴星になりました」
  
 
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