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とつぜんSFノート 第15回

 創作研究会の集まりがもう1つできた。始まりは確か1972年だったか3年だったか記憶が定かではない。そのころ眉村さんのご自宅は阪南団地だった。このご自宅とは別に仕事場としてマンションを借りておられた。地下鉄御堂筋線の昭和町駅のほど近く。この眉村さんの仕事場のマンションに集まって勉強会を始めた。このマンションの名が銀座が丘ハイツというので、銀座が丘集会といっていた。
 メンバーはいつもの人たち。ある日柊たんぽぽ氏が友人を連れてきた。柊氏は大阪工大SF研究会で、友人氏は工大SF研のお仲間とのこと。実は、それ以前に柊氏から、友だちが作ったというので、「旅」「冬」という、極めて愛想がないタイトルのファンジンを売りつけられたことがあった。作者名を見ると「甲州」とだけある。その日連れて来た友人が、その「甲州」だった。実は甲州氏はチャチャヤングの常連でもあった。そのころのペンネームは谷垣甲州といった。甲州は日本にいなくて、たまたまその時は帰国していて、柊氏に銀座が丘集会のことを聞いて、ついてきたのだ。甲州本人は海外が職場だったから、「旅」「冬」といった甲州作のファンジンは友人の柊氏が、日本で配布していたというわけ。その後、甲州はネパールで「137機動旅団」を書いて第2回奇想天外賞に応募、佳作に入っている。この時のペンネームも甲州だった。ちなみに同時の佳作は牧野ねこ=後の牧野修。第1回には新井素子、山本弘が佳作。第3回は児島冬樹、中原涼が佳作。結局、奇想天外賞は佳作だけで、入選者は1人も出せなかった。甲州は作家デビュー後、谷甲州となった。
 この時の銀座が丘集会で会ったのが、小生と谷甲州の初対面であった。第2回奇想天外賞発表が1979年だから、それより5年か6年前に小生は谷甲州と会っていた事になる。
 柊氏が「旅」「冬」を小生に売りつける時、「この甲州ちゅうヤツはすごいヤツやねんで」といった。なんでも、常になんか書きモノをしている。工大SF研の飲み会があって、どっかに甲州、柊氏らが泊まった。柊氏が夜中に目を覚ますと、甲州が1人机に向かって原稿を書いている。アマチュアの時代の話である。プロになってから締め切りに追われているのではない。アマチュアで別に締め切りなどないファンジン用の原稿である。やはりプロになる人は違うのだ。
 この谷甲州、1986年のマルコス追放、コラソン・アキノ大統領就任のフィリピン革命に立ち会っている。
 実は、甲州、フィリピンに旅発つ前日、小生の下宿に泊った。そのころ小生は四畳半と六畳の文化住宅で1人暮らしをしていた。この小生の下宿、近郷近在のSFファンの貯まり場だった。しょっちゅう誰かが泊っていた。夜おそくまで麻雀をやっていて、よく、うるさいと叱られた。
 その日も甲州と、あと何人かいた。甲州があすフィリピンに出発するから、送別会ということで、どっかに飲みに行こうとなったが、甲州がビデオを見たいといいだした。「風の谷のナウシカ」が観たい、雫石よ持ってるか、と聞く。小生は、このアニメは1984年劇場公開時に映画館で観ている。感激した。「ええで風の谷のナウシカ」と、そのことを甲州に話した事があったのだろう。彼も観たいと思っていたらしいが、なにせ海外をウロウロする仕事。なかなか観る機会がなかったと思われる。
 静岡のSF友だちが電器店の経営者だ。彼に送ってもらってビデオを持っていた。「あるで」「飲みにいかんと観よ観よ」
 観た。甲州もえらく感激したようだった。満足して喜んで翌日フィリピンに旅立った。で、あの騒動である。
 帰国してから話を聞いた。
「どんなんやった」
「何がおこっとんのか全く判らんかった」
「なんでや」
「情報がいっこも入ってきやへんねや」
「マニラにおっても判らんか」
「日本から送ってくる新聞や雑誌が情報源やった」
「そやったら情報が遅れるやろ」
「そや、だからアメリカ大使館に行ってた。知り合いがおるもんで」
「日本大使館は」
「いっこも頼りにならへん」
 結局、日本にいた方が何が起こっているのかよく判ったみたいだ。

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