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鷹匠谷は一人?

 その女性は初めての客だ。この店「海神」に女性の一見さんは珍しい。
 二〇代半ば。独身と思われる。色白で物静かな女性だ。酒場に一人で来るような娘さんには見えない。先客はいない。
「いらっしゃい」
 いごごちが悪そうに、カウンターの端っこに座る娘に、鏑木はやさしく声をかけた。
「だれかとお待ち合わせですか」
「いえ、あ、はい」
 事情がありそうだ。たぶん男性を待っているのだろう。
「なにか飲みます。カクテルでもつくりましょうか」
 鏑木のレシピにも、若い女性好みのものはいくつかある。
「はい。フォアローゼスを」
 バーボンとは意外だ。棚から新しいボトルを出して封を開けようとした。
「あ、あのう。たかしょうだにのボトルありますか」
 そのボトルの持ち主、鷹匠谷はこの町の私立高校で教師をしている男だ。ちょうどこの娘ぐらいの子供がいる歳かっこうだ。若いころは他県の公立高校の教師だったそうだ。
 たかしょうだに。珍しい苗字だ。鷹匠谷は同じ名前の奴にあったことがない。グーグルにもひっかからない。日本で一人だと自慢していた。
 鷹匠谷のボトルを娘の前に置く。娘の顔が明るくなった。
「三軒目だわ」 
 鏑木は鷹匠谷のボトルからフォアローゼスをグラスに入れた。
「愛里さん、ですか」
「はい。鷹匠谷愛里です」
 鷹匠谷は離婚した妻とのあいだに娘があった。離婚した時は娘は一歳だった。
 酔うと「愛里にあいたい。愛里はどんな娘になったのか」と、つぶやきながら海神のカウンターで寝てしまう。
「電話、お嬢さんがします?」
「マスターお願い」
 鷹匠谷の携帯の番号は知っている。
「鏑木です。鷹匠谷さんにお会いしたい方が店でお待ちです」
 ドアが開いた。客は愛里一人。二人の視線があった。
「愛里か」
「おとうさん」
「私、奥で用事がありますので」
 鏑木が席を外す。店には父と娘が残った。 
 しばらくして店に戻る。鷹匠谷一人が残っていた。
「お嬢さんは」
「帰った。時々会う約束をした。母親にはないしょだそうだ」
 愛里は風の噂で、父親がこのS市にいることを知った。その噂を伝えてくれた父の飲み友だちの話では、父は行きつけの飲み屋ではフォアローゼスをキープしていることを聞いた。
 鷹匠谷という珍しい苗字は父しかいない。それにこのS市の駅前商店街にはバーやスナックは三軒しかない。
「この名前に感謝してるよ」
 鷹匠谷はグラスを開けて、カウンターに置いた。そこにはルージュの紅が付いたグラスがまだ置いてある。
「鷹匠谷さんが二人ですね」
「いや。俺一人だ。娘は山本愛里という」
「奥さんの旧姓ですか」
「元奥さんだ。山本?知らない男の名だ」
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