雫石鉄也の
とつぜんブログ
ながれ星の女
「あら。いらっしゃい。来てくださったのね。うれしいわ」
「うん。この近くにぼくの仕事場があってね」
「お飲み物は」
「そうだな。もう秋だしビールより日本酒だな」
「燗ですか」
「いや冷でいい」
「天狗舞の山廃大吟醸があります。それでいいですか」
「うん」
この店の女将とは一か月ほど前に初めてあった。その時はジーンズにTシャツで、真っ赤なBMWに乗っていた。
その時メモをもらって彼女が、神戸の三宮で小さな店を出していることを知った。ぼくは新神戸駅近くに仕事場を持っていて、売れないミステリーなどを書いている。三宮とはすぐ近く。一度は行こうと思っているうちに一ヶ月が過ぎた。
「あの時のお礼がまだでしたね」
「いいよそんなこと。大したことしてないんだから」
和服を着てカウンターの向こうに立つ彼女は、あの時とはまったく別人のようだ。歳は四〇代前半。しっとりと落ち着いていて少しさみしそうな瞳をしている。今日で二度目の出会いだが、ずっと以前から知り合いだったような気がする。かといって水商売の女性特有の変ななれなれしさがない。
「とりあえず今日のお勘定はわたしのおごり。なんでも好きなものをいってください」
「いいのかい」
「いいの。肴はなんにする」
「なんでもいいよ」
「ちょっと待ってください」
出してくれたのは松茸の土瓶蒸しだ。松茸特有の胸のすくような芳香がただよう。具は松茸と三つ葉だけという極めてシンプルなもの。汁を飲む。鼻腔と口腔が松茸の香りでいっぱいになる。だしは鰹節と昆布。それも特上のものだ。鰹節は枕崎産の血合いの少ないもの。昆布は羅臼か利尻。味付けは塩と薄口醤油のみ。絶妙の味付けだ。具の松茸を食べる。シャクッとした歯ごたえ。香りと味がふんだんに残っている。松茸の土瓶蒸しは蒸し時間が難しい。蒸しすぎると松茸の味と香りが全部汁に出て具の松茸は出がらしになる。蒸しが少ないと肝心の汁に香りが移らない。この土瓶蒸しの蒸し時間は最高だ。彼女の料理の腕は尋常ではない。
「ものすごくうまい土瓶蒸しやな。こんな土瓶蒸しを食べたのは生まれて初めてや」
「うれしいわ。お口にあって」
ぼくがこの店に入って三〇分は時間が過ぎた。客はまだ一人も入ってこない。店の雰囲気もいいし女将も感じがいい女。料理はさきほどの土瓶蒸しで分かるとおりのおいしさ。不思議な話だ。
「今日は松茸づくしといきましょう。松茸お好きでしょう。山木さん」
少し酔いがまわってきた。酔いのまわった頭でも引っかかった。女将はなぜぼくの名前を知っている。
「ぼく名前をゆうたかな」
「あの時教えてくださったでしょう」
確かあの時名前を教えた記憶はない。しかしあの時のことはよく覚えていない。記憶に残っているのは彼女が教えてくれた店の名前と場所だけ。ほかのことは霞がかかったようで記憶がぼんやりとしている。ぼくは記憶力はいいほうだが。
飛騨コンロに炭火を入れて松茸を焼いてくれた。陶然とする香りとはこのことだ。徳利が空くペースが速くなった。それにしても客が入ってこない。
「この店はいつもこんなんかね」
「こんなんて」
「客だよ。これだけの美人女将の店に客はなんでぼく一人なんや」
「今晩は山木さんの貸し切りよ。今日来てくださるとおしゃってたでしょう」
そんなことをいった記憶もない。料理は松茸の天ぷらとなった。卵を使わない衣はカラッとしていて完璧な揚げ具合だ。衣の中は熱せられた松茸の芳香が凝縮して詰まっていた。
「今日の松茸は素晴らしいな。もちろん国産やろ。どこのんや」
「わたしの実家から送ってもらってるんです」
「うらやましいな。こんな松茸が採れるところが実家だなんて」
「来週のウィークデーで空いている日ありますか」
「なんや」
「実家の松茸狩りにご招待しますわ」
「ほんま。行く行く絶対行く。ぼく自由業やから平日でもOKやで」
「それでは来週の水曜午後三時にあの場所でお待ちしています」
「あの場所って」
「山木さんと初めてお会いした場所よ」
かなり酔っている。ろくに手帳も見ずに約束してしまった。最後に松茸ご飯が出た。最高だった。
ぼくの趣味は天体観測だ。この道の先にある山の頂上がぼくのお気に入りの観測スポット。彼女と初めて会ったあの時は、何年ぶりかの大流星雨を観測しての帰りだった。深夜、この道をパジェロで走っていた。久しぶりの大きな流星雨。特に大きな流星が頭上真上を飛んだ。まるでごく至近距離に隕石が落ちたようだった。しかしなんの衝撃もなかった。ぼくも天体マニアだから隕石が近くに落ちたか落ちなかったかは分かる。
すれ違う車も、前を行く車も、後ろから来る車もない。真っ暗な道をぼくは走っていた。その時前方の道路沿いに赤い物がチラッと見えた。近づくと赤い車だ。後ろにパジェロを止める。ジャッキアップされた真っ赤なBMW。車の脇で女がしゃがみこんでいた。道路脇の溝に何かを落としたらしく点灯していない懐中電灯を持って途方にくれている。
「どうしました」
「パンクしてスペアタイヤを付けようとしたらネジを一個落としちゃって。探してたら懐中電灯の電池が切れて」
「ちょっと待って」
ぼくはパジェロから懐中電灯を持ってきて彼女といっしょに探した。ネジはジャッキの後ろにあった。タイヤを取り付け、ジャッキをはずしトランクに収納するといった後の作業はぼくがした。彼女はたいそう感謝して何度もお礼をいった。別れる前にメモを一枚くれた。
「わたしここでお店をやっています。このお礼をします。ぜひおいでください」
「偶然やな、三宮か。ぼくの仕事場の近くや。いっぺんいかせてもらうで」
確かこれだけの会話だった。ぼくの名前も店に行く具体的な日付まで約束した憶えはない。
水曜日の昼下がり。もう少しだ。約束の時間には余裕で間に合う。次の次のカーブを曲がったところで彼女は例の赤いBMWを止めて待っているはず。そこから車で一〇分も走ると彼女の実家がある村落だということだ。このあたりは何度か来たことがある。確かこの近くに人家はないはず。本当に彼女の実家があるのだろうか。
赤いBMWのフェンダーにもたれて彼女は待っていた。
「今日はパンクしてへんのか。タイヤのネジはちゃんとあるんか」
「わたしのBMWはめったにパンクしません。あの日は流れ星がタイヤに当たったの」
「UFOみたいなBMWやな」
「あの日は流れ星がたくさん流れたわね」
「願い事したか。ぎょうさん願い事できたやろ」
「わたしの願い事は一つだけ」
「それは叶ったか」
「はい」
うなずいた彼女の顔は大変明るかった。
「行きましょうか。わたしの後をついてきてください」
「ぼくのパジェロは四駆だからええけど、そんなBMWでこんな山道を走れるのか」
「だいじょうぶです。わたしはいつも走ってます」
獣道に毛が生えたような道をBMWは走り出した。道の両方から木の枝が張りだしてフロントグラスにばんばん当たる。路面も倒木があったり岩があったりで車はガクガクゆれる。ゴリゴリと腹をこする。ぼくのパジェロは大丈夫だが彼女のBMWは大丈夫だろうか。岩の角でオイルパンを傷つけてエンジンオイルが漏れだしたら走れなくなるぞ。
真っ赤なBMWはぼくの心配は無用とばかり何のストレスもなくスイスイと道なき道を走っていく。あのBMWは本当に車だろうか。 突然視界が開けた。前方が盆地になっていて道は下り坂になった。盆地には二〇軒ばかりの農家がある。全戸が茅葺き屋根だ。こんなにたくさんの茅葺きの民家がまとまって有れば有名になってぼくも知っているはずだが、こんな場所は聞いたことがない。村落の向うがわの山の斜面は棚田で、それが山の頂上まで続いている。
BMWは一番手前の家の庭先で止まった。パジェロをその横に止めた。彼女が先に降りて家の縁側まで案内してくれた。老人が二人立っていた。大変上品なおじいさんとおばあさんだ。おじいさんは顎に白いひげを生やし、おばあさんは腰が丸く顔も丸くまん丸なおばあさんだ。縁起物の人形に「高砂」というのがある。あの翁と媼の人形そのままのおじいさんとおばあさんだ。
「両親です」
彼女が紹介してくれた。
「山木さんじゃな。このたびは娘がお世話になりました」
翁があいさつした。
「これ、加代、早うお客さんを座敷にご案内して」
彼女の名は加代というのか。初めて知った。床の間のある八畳ほどの部屋に案内された。加代がお茶と菓子を持ってくる。
「少し休憩したら早速松茸狩りに行きましょう」
しばらくしたら加代が呼びに来た。ぼく、加代、父親の三人で行くらしい。
「さあ、行きましょう。なあにほんの少しです」
そういうと父親はスタスタと先頭を歩き出した。道は村を外れ山へと入っていく。老人とは思えない健脚ぶりを発揮してどんどん山中へと進んでいく。都会で文筆業を営んでいる者としては難行苦行だ。
「おとっぁん。歩くの速すぎ。お客さんがお疲れよ」
「おお、それはすまんかった。ほんじゃ少し休憩すっか」
父親はそういうと倒木に腰掛けた。腰にぶら下げたキセルを取り出し刻みたばこをつめた。今時刻みたばこなんてどうして手に入れたのだろう。ぼくもマイルドセブンを取り出した。
「すまんが、火を貸してくださらんか」
ライターでキセルの火口に火をつけてやって自分のマイルドセブンにも火をつけた。ぼくが吸い終わるのを待って父親が腰を上げた。
「さ、行きましょう。もうすぐじゃ」
本当にすぐそこだった。
「ここじゃ。ほれそこ」
父親が指さす木の根本に枯葉がこんもりと盛り上がったところがある。枯葉をどけると松茸があった。取ってにおいをかぐと素晴らしい香り。まがうことなき松茸だ。
「松茸は円形に生えるの。その松茸の円周をたどって行けばもっと沢山あるわ」
加代がいいながら手招きした。そこにも有った。
「これ、本当に自然の松茸か」加代に聞く。
「あたりまえです。外国産の松茸を植えている観光用の松茸じゃないわ。この山に自然に生えているのよ」
こんな山が現代にあるとは信じられない。
その夜は松茸が山ほど入ったすき焼きで、したたか飲んだ。いつ寝たのか覚えてない。起きたのは昼近かった。
「起きなすったか。娘は店があるんで先に出ました。あんさんはゆっくりしてください。なんならもうひと晩お泊まりになったらどうじゃ」
母親があいさつに来た。仕事がありますので、と帰ろうとすると、昼も食べて行けとのこと。結局昼もごちそうになって神戸に帰ったのは深夜になっていた。
その後何度か彼女の店に顔を出そうと思ったが、雑用に追われて行けなかった。
秋も深まりもうすぐ師走という時期になって彼女の店に行った。そこに店はなかった。生田神社の少し南、東急ハンズの近くの雑居ビルに彼女の店は有るはずだが、そこは空きスペースになっている。隣はラーメン屋だ。ラーメン屋のオヤジに聞いたら、確かに女性が一人で切り盛りしている小料理屋があったが一日だけ開店してすぐ閉店したとのこと。彼女はぼく一人のために店を一軒開業してくれたのだろうか。
パジェロをとばす。彼女と出会ったあの場所はすぐわかった。今日は赤いBMWは止まってない。ここから山道に入るはず。道はおぼえている。天体観測は人里離れた場所で行う。だからぼくはこのような道を走るのは慣れている。
ところがわからない。いくら探しても彼女の村は見あたらない。確か盆地にあったはずだが。山仕事をしているおじいさんに聞いた。「ワシは八〇年ここに住んどるが、このへんにゃ村はない」
夜まで探した。村はなかった。あきらめて帰る。山道を抜け例のカーブに戻ってきた。少し期待したが赤いBMWはなかった。
夜の山のスカイラインにひとすじ流れ星が流れた。
星群83号掲載
「うん。この近くにぼくの仕事場があってね」
「お飲み物は」
「そうだな。もう秋だしビールより日本酒だな」
「燗ですか」
「いや冷でいい」
「天狗舞の山廃大吟醸があります。それでいいですか」
「うん」
この店の女将とは一か月ほど前に初めてあった。その時はジーンズにTシャツで、真っ赤なBMWに乗っていた。
その時メモをもらって彼女が、神戸の三宮で小さな店を出していることを知った。ぼくは新神戸駅近くに仕事場を持っていて、売れないミステリーなどを書いている。三宮とはすぐ近く。一度は行こうと思っているうちに一ヶ月が過ぎた。
「あの時のお礼がまだでしたね」
「いいよそんなこと。大したことしてないんだから」
和服を着てカウンターの向こうに立つ彼女は、あの時とはまったく別人のようだ。歳は四〇代前半。しっとりと落ち着いていて少しさみしそうな瞳をしている。今日で二度目の出会いだが、ずっと以前から知り合いだったような気がする。かといって水商売の女性特有の変ななれなれしさがない。
「とりあえず今日のお勘定はわたしのおごり。なんでも好きなものをいってください」
「いいのかい」
「いいの。肴はなんにする」
「なんでもいいよ」
「ちょっと待ってください」
出してくれたのは松茸の土瓶蒸しだ。松茸特有の胸のすくような芳香がただよう。具は松茸と三つ葉だけという極めてシンプルなもの。汁を飲む。鼻腔と口腔が松茸の香りでいっぱいになる。だしは鰹節と昆布。それも特上のものだ。鰹節は枕崎産の血合いの少ないもの。昆布は羅臼か利尻。味付けは塩と薄口醤油のみ。絶妙の味付けだ。具の松茸を食べる。シャクッとした歯ごたえ。香りと味がふんだんに残っている。松茸の土瓶蒸しは蒸し時間が難しい。蒸しすぎると松茸の味と香りが全部汁に出て具の松茸は出がらしになる。蒸しが少ないと肝心の汁に香りが移らない。この土瓶蒸しの蒸し時間は最高だ。彼女の料理の腕は尋常ではない。
「ものすごくうまい土瓶蒸しやな。こんな土瓶蒸しを食べたのは生まれて初めてや」
「うれしいわ。お口にあって」
ぼくがこの店に入って三〇分は時間が過ぎた。客はまだ一人も入ってこない。店の雰囲気もいいし女将も感じがいい女。料理はさきほどの土瓶蒸しで分かるとおりのおいしさ。不思議な話だ。
「今日は松茸づくしといきましょう。松茸お好きでしょう。山木さん」
少し酔いがまわってきた。酔いのまわった頭でも引っかかった。女将はなぜぼくの名前を知っている。
「ぼく名前をゆうたかな」
「あの時教えてくださったでしょう」
確かあの時名前を教えた記憶はない。しかしあの時のことはよく覚えていない。記憶に残っているのは彼女が教えてくれた店の名前と場所だけ。ほかのことは霞がかかったようで記憶がぼんやりとしている。ぼくは記憶力はいいほうだが。
飛騨コンロに炭火を入れて松茸を焼いてくれた。陶然とする香りとはこのことだ。徳利が空くペースが速くなった。それにしても客が入ってこない。
「この店はいつもこんなんかね」
「こんなんて」
「客だよ。これだけの美人女将の店に客はなんでぼく一人なんや」
「今晩は山木さんの貸し切りよ。今日来てくださるとおしゃってたでしょう」
そんなことをいった記憶もない。料理は松茸の天ぷらとなった。卵を使わない衣はカラッとしていて完璧な揚げ具合だ。衣の中は熱せられた松茸の芳香が凝縮して詰まっていた。
「今日の松茸は素晴らしいな。もちろん国産やろ。どこのんや」
「わたしの実家から送ってもらってるんです」
「うらやましいな。こんな松茸が採れるところが実家だなんて」
「来週のウィークデーで空いている日ありますか」
「なんや」
「実家の松茸狩りにご招待しますわ」
「ほんま。行く行く絶対行く。ぼく自由業やから平日でもOKやで」
「それでは来週の水曜午後三時にあの場所でお待ちしています」
「あの場所って」
「山木さんと初めてお会いした場所よ」
かなり酔っている。ろくに手帳も見ずに約束してしまった。最後に松茸ご飯が出た。最高だった。
ぼくの趣味は天体観測だ。この道の先にある山の頂上がぼくのお気に入りの観測スポット。彼女と初めて会ったあの時は、何年ぶりかの大流星雨を観測しての帰りだった。深夜、この道をパジェロで走っていた。久しぶりの大きな流星雨。特に大きな流星が頭上真上を飛んだ。まるでごく至近距離に隕石が落ちたようだった。しかしなんの衝撃もなかった。ぼくも天体マニアだから隕石が近くに落ちたか落ちなかったかは分かる。
すれ違う車も、前を行く車も、後ろから来る車もない。真っ暗な道をぼくは走っていた。その時前方の道路沿いに赤い物がチラッと見えた。近づくと赤い車だ。後ろにパジェロを止める。ジャッキアップされた真っ赤なBMW。車の脇で女がしゃがみこんでいた。道路脇の溝に何かを落としたらしく点灯していない懐中電灯を持って途方にくれている。
「どうしました」
「パンクしてスペアタイヤを付けようとしたらネジを一個落としちゃって。探してたら懐中電灯の電池が切れて」
「ちょっと待って」
ぼくはパジェロから懐中電灯を持ってきて彼女といっしょに探した。ネジはジャッキの後ろにあった。タイヤを取り付け、ジャッキをはずしトランクに収納するといった後の作業はぼくがした。彼女はたいそう感謝して何度もお礼をいった。別れる前にメモを一枚くれた。
「わたしここでお店をやっています。このお礼をします。ぜひおいでください」
「偶然やな、三宮か。ぼくの仕事場の近くや。いっぺんいかせてもらうで」
確かこれだけの会話だった。ぼくの名前も店に行く具体的な日付まで約束した憶えはない。
水曜日の昼下がり。もう少しだ。約束の時間には余裕で間に合う。次の次のカーブを曲がったところで彼女は例の赤いBMWを止めて待っているはず。そこから車で一〇分も走ると彼女の実家がある村落だということだ。このあたりは何度か来たことがある。確かこの近くに人家はないはず。本当に彼女の実家があるのだろうか。
赤いBMWのフェンダーにもたれて彼女は待っていた。
「今日はパンクしてへんのか。タイヤのネジはちゃんとあるんか」
「わたしのBMWはめったにパンクしません。あの日は流れ星がタイヤに当たったの」
「UFOみたいなBMWやな」
「あの日は流れ星がたくさん流れたわね」
「願い事したか。ぎょうさん願い事できたやろ」
「わたしの願い事は一つだけ」
「それは叶ったか」
「はい」
うなずいた彼女の顔は大変明るかった。
「行きましょうか。わたしの後をついてきてください」
「ぼくのパジェロは四駆だからええけど、そんなBMWでこんな山道を走れるのか」
「だいじょうぶです。わたしはいつも走ってます」
獣道に毛が生えたような道をBMWは走り出した。道の両方から木の枝が張りだしてフロントグラスにばんばん当たる。路面も倒木があったり岩があったりで車はガクガクゆれる。ゴリゴリと腹をこする。ぼくのパジェロは大丈夫だが彼女のBMWは大丈夫だろうか。岩の角でオイルパンを傷つけてエンジンオイルが漏れだしたら走れなくなるぞ。
真っ赤なBMWはぼくの心配は無用とばかり何のストレスもなくスイスイと道なき道を走っていく。あのBMWは本当に車だろうか。 突然視界が開けた。前方が盆地になっていて道は下り坂になった。盆地には二〇軒ばかりの農家がある。全戸が茅葺き屋根だ。こんなにたくさんの茅葺きの民家がまとまって有れば有名になってぼくも知っているはずだが、こんな場所は聞いたことがない。村落の向うがわの山の斜面は棚田で、それが山の頂上まで続いている。
BMWは一番手前の家の庭先で止まった。パジェロをその横に止めた。彼女が先に降りて家の縁側まで案内してくれた。老人が二人立っていた。大変上品なおじいさんとおばあさんだ。おじいさんは顎に白いひげを生やし、おばあさんは腰が丸く顔も丸くまん丸なおばあさんだ。縁起物の人形に「高砂」というのがある。あの翁と媼の人形そのままのおじいさんとおばあさんだ。
「両親です」
彼女が紹介してくれた。
「山木さんじゃな。このたびは娘がお世話になりました」
翁があいさつした。
「これ、加代、早うお客さんを座敷にご案内して」
彼女の名は加代というのか。初めて知った。床の間のある八畳ほどの部屋に案内された。加代がお茶と菓子を持ってくる。
「少し休憩したら早速松茸狩りに行きましょう」
しばらくしたら加代が呼びに来た。ぼく、加代、父親の三人で行くらしい。
「さあ、行きましょう。なあにほんの少しです」
そういうと父親はスタスタと先頭を歩き出した。道は村を外れ山へと入っていく。老人とは思えない健脚ぶりを発揮してどんどん山中へと進んでいく。都会で文筆業を営んでいる者としては難行苦行だ。
「おとっぁん。歩くの速すぎ。お客さんがお疲れよ」
「おお、それはすまんかった。ほんじゃ少し休憩すっか」
父親はそういうと倒木に腰掛けた。腰にぶら下げたキセルを取り出し刻みたばこをつめた。今時刻みたばこなんてどうして手に入れたのだろう。ぼくもマイルドセブンを取り出した。
「すまんが、火を貸してくださらんか」
ライターでキセルの火口に火をつけてやって自分のマイルドセブンにも火をつけた。ぼくが吸い終わるのを待って父親が腰を上げた。
「さ、行きましょう。もうすぐじゃ」
本当にすぐそこだった。
「ここじゃ。ほれそこ」
父親が指さす木の根本に枯葉がこんもりと盛り上がったところがある。枯葉をどけると松茸があった。取ってにおいをかぐと素晴らしい香り。まがうことなき松茸だ。
「松茸は円形に生えるの。その松茸の円周をたどって行けばもっと沢山あるわ」
加代がいいながら手招きした。そこにも有った。
「これ、本当に自然の松茸か」加代に聞く。
「あたりまえです。外国産の松茸を植えている観光用の松茸じゃないわ。この山に自然に生えているのよ」
こんな山が現代にあるとは信じられない。
その夜は松茸が山ほど入ったすき焼きで、したたか飲んだ。いつ寝たのか覚えてない。起きたのは昼近かった。
「起きなすったか。娘は店があるんで先に出ました。あんさんはゆっくりしてください。なんならもうひと晩お泊まりになったらどうじゃ」
母親があいさつに来た。仕事がありますので、と帰ろうとすると、昼も食べて行けとのこと。結局昼もごちそうになって神戸に帰ったのは深夜になっていた。
その後何度か彼女の店に顔を出そうと思ったが、雑用に追われて行けなかった。
秋も深まりもうすぐ師走という時期になって彼女の店に行った。そこに店はなかった。生田神社の少し南、東急ハンズの近くの雑居ビルに彼女の店は有るはずだが、そこは空きスペースになっている。隣はラーメン屋だ。ラーメン屋のオヤジに聞いたら、確かに女性が一人で切り盛りしている小料理屋があったが一日だけ開店してすぐ閉店したとのこと。彼女はぼく一人のために店を一軒開業してくれたのだろうか。
パジェロをとばす。彼女と出会ったあの場所はすぐわかった。今日は赤いBMWは止まってない。ここから山道に入るはず。道はおぼえている。天体観測は人里離れた場所で行う。だからぼくはこのような道を走るのは慣れている。
ところがわからない。いくら探しても彼女の村は見あたらない。確か盆地にあったはずだが。山仕事をしているおじいさんに聞いた。「ワシは八〇年ここに住んどるが、このへんにゃ村はない」
夜まで探した。村はなかった。あきらめて帰る。山道を抜け例のカーブに戻ってきた。少し期待したが赤いBMWはなかった。
夜の山のスカイラインにひとすじ流れ星が流れた。
星群83号掲載
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