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ガラスの夏 1

 田口雄作は軽く深呼吸して波打ち際に足を踏み入れた。今日こそ前からやろうと思っていたことを実行する。そう決心して海に入った。黄色く塗られた目印のブイは手が届きそうなほど近くに見える。しかしそれは雄作にとっては非常に遠い目標だ。今まで何度も挑戦してきた。四十を過ぎて水泳をおぼえた。今年五十三になる彼にとっては、遙か沖に有るのと同じ。
 今日は体調気力とも最高。この地球での休暇もあとわずか。沖のブイまで泳いで往復するのが、この休暇の一番の目標だ。
 航行中の宇宙船内で生まれ、宇宙船の二等航海士という職業に就いた雄作は故郷を持たない。持たないがゆえに求める気持ちは非常に強い。地球での休暇が過ごせるからこそ、この航路の船に乗った。
 船は地球に着くと、積み込み作業などで一ヶ月以上この地に留まる。その間、雄作は別段仕事はなく休暇となる。
 ゆっくりと平泳ぎで泳ぐ。黄色いブイは波間に見えかくれする。水面が真夏の太陽の光を反射してキラキラ輝く。暖かい海水がやさしく身体を抱いてくれる。至福の時を過ごしていることを実感する。
 ブイまでは思ったよりも簡単にたどり着けた。今まで何度も挑戦して挫折してきたのが不思議だ。海岸の方を見ると甲羅干しをしている人たちが小さな点に見える。太陽が強い夏の光を降り注いでいる。そろそろ戻らなくては。ゆっくりと岸に向かって泳ぎ出す。
 泳いでも泳いでも岸は近くならない。行きは簡単に行けた。しかし帰りがこんなに大変だとは思わなかった。体力を急速に消耗していく。海面に浮かんで、しばらく休むが体力は簡単に回復しない。とにかく泳がなくては。早く足の立つ所にたどり着かなくては。
 必死で水をかき、岸をたぐり寄せるように泳ぐ。少しずつ岸は近づいてきた。立ってみる。足はまだ立たない。もう少しだ。水をかく。立ってみる。足の親指の先がかすかに海底の砂に触れた。大きな安堵感が全身を包んだ。ツンツンと足の先で海底をつつきながら進む。足の裏全体で歩けるようになった。足がもつれ何度か転びそうになりながら波打ち際までたどり着いた。
 四つんばいになって肩で息をする。しばらくハーハーやっていると、目の前に女物のサンダルが見えた。見上げると中年の女性が心配そうに見下ろしている。
「あのだいじょうぶですか」
 淡いブルー水着の上品な女性だ。四十代前半と見受けられるが、少女っぽさがごくわずかに残っている。
 声をかけられても返事ができない。
「人を呼びましょうか」
 雄作はやっと四つんばいから砂の上に座れるまで回復した。
「大丈夫です。どうもありがとう」
 なんとか言葉をしぼり出す。
 顔を上げると目が合った。一瞬、視線がからみ合った。女性は自然に視線を外す。雄作は胸がときめくのを感じる。
 雄作の知っている女性といえば港近くで買う娼婦ぐらい。目の前の女性は彼の知っている女性たちとは全く人種の違う女性だ。
 母性が持つ優しさを奥に秘め、なおかつ強さも併せ持つ。同時に命に限りが有ることを実感させるような、はかなさを実感させる。 雄作は女性がはずした視線を再びとらえた。ごく短い時間お互いを見つめ合った。彼女が再度視線をはずした。
「お水でも持ってきましょうか」
「お願いします」
「はい」
 売店の方に歩いていく後ろ姿は少々やせ気味だが若いころのラインをとどめている。
 コップを持って帰ってきた。よく冷えたその水は、この上なくうまく感じた。元気を取り戻した。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえ」
「五十をすぎると無理ができませんね」
「お元気になられてよかったですね」
 女性が軽く頭を下げて立ち去ろうとする。雄作は一瞬ためらったが、思い切って問いかけた。
「よろしければお名前を教えてください。私は田所雄作といいます」
「高見沢です」
 女性は苗字だけをいって立ち去った。雄作はフルネームを知りたかったが、彼女は初対面の男性にプライベートネームまで教えるような女性ではなさそうだ。もしこのスマに滞在しているのならば、また合う機会もあるだろう。その時こそフルネームで教えてもらおう。休暇の後半になって大きな楽しみができた。


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ガラスの夏 2

 そのクエは今日も大水槽の左の端にいた。少し大きな岩の横。そこが彼の定位置だ。悠然とホンソメワケベラに歯の掃除をさせている。静香の知る限りでは、彼はこの水族館の最古参だ。
 静香は時間を見つけてはこの水族館にやって来る。館内に入ってまず目につくのがこの大水槽だ。サメ・エイ・カツオ・カンパチなどの外洋性の魚が多数泳ぎ回っている。この大水槽の主のような存在がこのクエだ。分厚い唇をゆっくりと開閉して、水槽の底でどっしりと構えている様は牢名主の貫禄だ。
 静香はここへ来るとまずこのクエにあいさつをする。といっても、別に特別はことをするわけではない。ただ視線を送るだけ。相手もジロリとこちらを見る時がある。視線が合うがなにせ相手は魚、何を考えているのか分からないが、静香にとって地球での数少ない知り合いの一人(?)だ。
 大水槽の前を通り過ぎると熱帯性海水魚の水槽がある。カラフルな珊瑚礁の魚が群泳している。
 見物客はあまり多くない。オープン当初は物珍しさも手伝ってかなりの入場者があったが今は閑散としている。
 もともと地球の海洋生物の一時保管用として建設された施設で本来は観光用ではない。地球上の各エリアに一カ所ずつ設置されていたが、今はこのスマにあるだけ。ここも近く閉鎖されて、魚たちも新地球に移送される。
 生物学者として地球上の生物の総引っ越しという、巨大プロジェクトに関わってきた静香も担当の仕事も終了し、いずれ新地球に帰還する。今は完全にフリーで、こうして水族館で魚をながめたり海で泳いだりして時を過ごしている。
 先日海で出会った男性を思い出した。自分より五つは年上かと思われる五十過ぎの中年男で、無理して泳いでへばっていた。その男性がなぜか気になる。思い出してみれば船の中で見かけたこともあるし、この水族館でも時々見かける男性だ。しかし、それだけの理由で気になっているわけではない。それは静香自身がよく分かっている。この種の感情を持ったのは久しぶりだ。四十を超した中年の女性として、こんな小娘のような感情を持つ自分にとまどいを覚える。亡くなった夫と初めて合った時以来だ。
 今日は来ていないかなと思って館内を歩く。入館者は多くないので、来ていればすぐわかるはず。期待をこめて各セクションを見て回る。いつの間にか小走りになって、立ち止まって少し背伸びしてキョロキョロと見回す。いやだわわたし。これじゃ恋人と待ち合わせている娘っこじゃないの。別にあの人はわたしの恋人じゃない。そう自分にいい聞かせる。
 その人は無脊椎動物の水槽の前にいた。自然と目が合う。
「先日は助かりました」
 雄作が先に口を開いた。
「いえ。あれからお元気になられましたか」
「はい。おかげさまで」
「高見沢さんは海がお好きなんですね」
 名前を覚えていてくれた。静香はその意味を理解した。この人はわたしがこの人に対して抱いている感情と同じ感情を、わたしに抱いている。

 あと二週間で地球を離れる。静香は独り身だから身体だけを船に乗せれば良いと考えていたが、判断が間違っていた。三年間地球で暮らしていて、そこを離れるとなるとまとめなくてはならない荷物も結構な量になる。
 午後四時。車を降りて荷物を両手でかかえてロッジの前に立つ。荷物を足元に置いて鍵を探す。上着のポケットの中にあった。ドアを開ける。外開きのドアは何かで固定しておかなければ自然に閉じてしまう。両手に荷物を持って中にはいるのは困難だ。
 静香がドアと格闘していると、後から声がかかった。中年の男の声だ。
 男はドアを押さえてくれた。両手の荷物のため顔は見えない。静香は礼をいって荷物を室内に運び入れた。
「次の船でご帰還ですか」
 雄作だった。
「車にまだ荷物が残っているでしょう。手伝います」
 これが他の男なら遠慮しただろう。静香はなぜか素直にハイといった。
 雄作が手伝ったお陰で荷物は手早く運び込めた。帰還準備で少々疲れ気味な静香にとって正直、助かった。
 用がすんだので立ち去ろうとする雄作を静香は引き止めた。
「あの、お茶でも」
「いえ」
「ご遠慮なさらずにどうぞ」
「ぼくなんかがここにいてご主人が帰ってこられたら」
「わたし独りです」
 静香はさみしそうにいった。静香本人は自分が独身であることを、雄作に告げたことを内心驚いている。わたしはこういう女ではないはずなのだが、どうしたのだろう。
 静香に続いて雄作もロッジに入った。部屋の中は新地球に帰るための荷物が積み上げてある。物は多いが整理整頓されている。合理的で清潔な室内だ。彼女の人柄がよく判る部屋だ。
「散らかってますけど、どうぞごゆっくり」
 彼女は冷蔵庫からガラス瓶を取り出した。
「コーヒーをいれますわ」
「コーヒーですか。久しぶりです」
「ここを発つ最後の日に飲もうと思っていたのですが、いっしょに飲んで頂ける人ができてうれしいわ」
 静香がミルに豆を入れて挽き始めた。周囲にコーヒーの香りが漂う。
 小振りのコーヒーカップで二人はコーヒーを飲む。
「ぼくのフルネームは先日いいましたけど、高見沢さんのフルネームをぼくは知りません」
「高見沢静香です」
 外が薄暗くなってきた。
「そろそろおいとまします」
「ゆっくりしていかれたら。このあとご予定でも」
「船に戻って寝るだけです」
「船といいますと?」
「タカラ丸です。ぼくはあの船の二等航海士です」
「その船わたしが乗る船です」

 
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ガラスの夏 3

 地球は生き物がいない星。生命を持つものは全て新地球をはじめ、人類が移住している他の星に移送された。地球廃棄計画が立ち上げと同時にスタートした、地球産生物の全面移転も終焉を迎えた。このプロジェクトに生物学者として関わった静香の仕事も終わった。あと十日で地球を引き払って新地球に戻る。
「わたし地球を離れられるとは思っていませんでした」
「どういうことですか」
「七年前わたしはある星系の小さな惑星の調査に行きました。どうということもない惑星で、資源もないし植民には不適当な星です。調査は純粋に学術目的で短期間で終わりました。わたしの夫も調査隊のメンバーでした。調査から帰ってわたし以外、夫もふくめて全員が五年以内に亡くなりました。その惑星の未知の病原体に感染したらしいのです」
「帰還時の防疫検査で判らなかったのですか」
「はい。検査では全員なんの異常もありませんでした。新地球に帰ってからもしばらくは全員健康に暮らしておりました。ところがポツポツとメンバーが発病し始め、夫も四年前に発病してわずか三ヶ月の闘病で亡くなりました。この病気の初期症状は、発熱、出血と白血病によく似ているんです。白血病と誤診されることが多く、発病すれば死亡率は百パーセント。治療法はありません」
「あなたは隔離されなかったのですか」
「わたしは徹底的な精密検査をされ、二年にわたって隔離され厳重な監視下におかれました。結局、感染している可能性はないとの結論が出ました。ただちに地球廃棄計画の業務に就くため、この地球に赴任しました」

 スマのマリーナを出向して一時間たった。陸は全く見えなくなった。気温が少し下がってきた。このあたりのまで来ると”レンズ”がもたらす”夏”も周辺部となる。
 静香はエンジンを止めた。波が船体に当たる音と風の音以外は聞こえない。海と空以外はなにも見えない。
 静香が知人からこの船を借りた。
「船の操縦をどこで習ったの」
「この船のオーナーから」
「で、その人なぜ船なんか持っていたの」
「さあ。最初は海に出るだけで喜んでいたの。でも、鳥も飛んでいない魚も泳いでいない海に出ても寂しいだけといって、最近はマリーナに繋げたまま」
「その人の気持ちわかる」
 水平線がかすかに丸く見える。四方どちらを向いても水平線が見える。風がない。波もない。全くの凪。空には雲さえもない。地球。なにもない地球の上に二人はいる。
「その人はこんな海に出るのは寂しいといっていたけれど、わたしは違うの」
「こんな何もない海がいいの」
「わたしはたった一人で大海原にポツンといると、この地球と一対一でお話ししているように感じるの。この地球という星がとても愛おしく思えるわ。もうすぐこの世から亡くなるこの星が」
「君は地球の生まれだったね」
 地球はあと一ヶ月ほどで消滅する。
 地球は何度目かの氷河期を向かえようとしている。誕生以来何度かの氷河期を経験したが、こんどの氷河期は最も長く寒いものになることは確実。人類は地球を暖めるためあらゆる方法を考えたが、無駄だった。
 氷の塊となり、人類にとって利用価値がなくなった地球をどうするか。保存するか廃棄するか、ここ数年議論が続いた。なんといっても人類発祥の星だから記念碑として保存しておこう。いつまでも地球にとらわれていてはいけない。人類は新たな星で新たな歴史を創って行かなくてはだめだ。
 結局、地球は廃棄爆破されることになった。氷河期到来が確実となったころから人類は精力的に他の星系に植民を実行した。外に出た人口のほうが太陽系に残った人口より多くなるのに要した時間はごくわずかだった。そして人類は完全に太陽系から撤退することになった。地球はその撤退計画の邪魔になった。太陽系内の資産を搬出するため、多数の恒星間宇宙船が太陽系内でワープから実体化する。地球の軌道がその実体化ポイントと交差する。その宙域に地球が存在すれば一度に一少数の宇宙船しか実体化できない。
 風が吹いてきた。強い風ではない。小さく船体がゆれる。
「そろそろ引きあげようか」
「暗くなるまでここにいたいわ。海の上から星が見たいの」
「ぼくはいいけど君は帰還準備はいいのか」
「準備はほとんど終わったわ」
 太陽が西の地平線に近づく。気温が下がる。空一面が真っ赤になった。青一色だった世界が赤一色に変わった。急速に気温が下がってきた。
「寒いな」
「キャビンから上着を取ってきましょう」
「ぼくが取ってくるよ」
 雄作はそういってラッタルを降りてキャビンへ行った。しばらく探したが見つからない。静香に声をかける。
「ベッドのまわりにあるはずよ」
「ないよ」
「ちょっと待ってね」
 静香もキャビンに降りた。雄作といっしょにベッドの周囲をさがす。あった。雄作が見つけた。静香は雄作に背を向けてまださがしている。その静香の背に雄作はそっと上着をかけた。
「ありがとう」
 静香はうしろを向いたまま少し顔を下げた。薄暗いキャビンの中で静香のうなじが白くひかる。
 雄作は静香の肩に両手をかけて自分の方に向かせた。お互いのくちびるが間近にある。二人はくちびるを重ねた。キスしたままベッドに倒れ込む。静香が下になった。静香の耳の横に雄作が両手をつく。ブラウスのボタンが外された。


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ガラスの夏 4

 突然ドアが開いた。銃を持った三人の男が飛び込んできた。
 雄作と静香はロッジで食事中だった。二人は思わず立ち上がった。三人の男とテーブルをはさんで対峙する形となった。
「食事中驚かせて申し訳ない。追われている。かくまってほしい。協力してくれれば決して危害は加えない」
 口を開いたのは三人のうちで最も年長の男。四十代後半で顔の下半分はヒゲで覆われている。そのヒゲの所々に白いものが混ざっている。柔和な目をしていて、話し方は落ち着いている。凶悪な感じは全くしない。しかし、独特の威圧感を感じさせる男である。
 若い二人のうちの一人がすばやくドアを閉めて戸外をうかがう。もう一人は雄作と静香の横を通って二階へ駆け上がった。二人とも動きにムダがない。よく訓練されているらしい。
「私たちは人質というわけか」
「申し訳ないがそうだ」
 ロッジの外に多くの車が停車する音がする。
「取り囲まれたぞ」
「わかっている」
「わたしたちは災難に巻き込まれたのね」
 静香が初めて口を開いた。
「あなたがたご夫婦にはご迷惑をおかけする。長くここにお邪魔するつもりはありません」
「わたしたちは夫婦じゃないわ」
 静香がそういうと雄作は少しさみしそうな表情をした。
「包囲したぞ武器を捨てて人質を解放して出てこい」
 外でラウドスピーカーがどなった。
「外の人数と装備を見てくれ」
 年長の男がドアの所にいる若い男に指示を出した。
「約八十人。携帯している武器は小火器。装甲車両が二十台」
「予想より大きな規模だな」
「君たちは何者だ」雄作が聞いた。
「地球回帰運動をしている者です」

 静香は目が覚めた。少し開いた窓から風が吹き込んでカーテンがゆるやかに揺れている。朝の光で部屋の中が満たされる。窓の外には武装した兵士と装甲車、その後方に指揮所らしいテントが見える。
 若い男の一人がテーブルに皿を並べている。朝食の準備をしているのだ。
「朝食の用意ができました」
 テーブルに全員がそろった。食卓に沈黙が漂った。テロリストと人質の食事が楽しいはずがない。雄作と静香はあくまで人質だ。この場を支配しているのは一味のリーダーだ。この場で彼らは初めて名乗った。ヒゲのリーダーは上条俊樹。朝食の用意をしていた若い男は清家修二、もう一人は岡山真といった。
 上条がサラダをほおばった。マヨネーズがたっぷりかかったレタスだ。うまそうにパリパリと食べる。
「うまい。こんな新鮮な野菜は久しぶりだ。どうしたらこんな野菜が手に入れられるですか」 
 上条の問いに雄作が答えた。
「私の知人にホテルのレストランのシェフがいる。彼から余り物をもらった。ホテルも閉鎖されるのでな」
「それは結構なお友だちをお持ちですな」
 上条のヒゲにマヨネーズがべっとりと付いている。白髪混じりの黒いヒゲに黄色いマヨネーズが奇妙なアクセントとなっている。本人は気づいた様子もなく旺盛な食欲で食事を続ける。
「清家くんはどこで料理をおぼえたの。このオムレツの焼き方なんて完璧だわ」
「上条さんと知り合うまで定期客船のコック見習いをしてました」
「上条さん、ヒゲが汚れていますよ」
 清家に注意されて上条があわてて口のまわりをナプキンでふいた。それを見た静香がクスッと笑う。
「上条さんと食事をするといつもこうです」
 その時、上条の視線が一瞬外に向いた。
「あぶない!ふせろ」
 シャーと耳障りな音がした。窓ガラスが砕け散り部屋全体に飛び散った。五人は全員テーブルの下にもぐり込んだ。空中に散乱したガラス片はキラキラと輝きながら料理の上にも降りかかった。
「人質を解放して出てこい」
 外からラウドスピーカーを通じて大声が響いた。
「朝から騒々しい連中だ。せっかくの朝食をだいなしにしおって」
 上条がいった。セリフとは逆にあまり腹が立っているようには見えない。雄作と静香は青い顔をして固まっている。
「本気で撃ってきたぞ」
 雄作が上条にいった。
「ほんの朝のあいさつです。岡山、ご返事申し上げろ」
 岡山は匍匐前進で窓際まで行った。スーと見えない糸で引っ張られているような移動だ。続いて何かを窓の外にほうり投げる。閃光がひらめき爆発音がする。爆風が一瞬吹きすぎる。シャーと音がする。岡山が銃口だけを出して連射している。
「よし。岡山、もういいぞ」
 上条が声をかけると岡山は射撃をやめた。
「朝のあいさつはこれで終わりだ」
「君たちは何をした。なぜ追われている」
 雄作が上条に聞いた。
「何もしていません」
 上条はそれだけいうと沈黙した。岡山は彫像のように動かず窓の外に視線を送っている。外を取り巻いている部隊も静かになった。
「君たちの要求はなんだ」
 雄作が沈黙をやぶった。
「われわれの望みはここに置いてもらうことだけです」
「こんなことをしているだけでなんの解決にもならないぞ」
「ここでこうしているだけで私たちの目的は達せられるのです」
「なにか要求があるから、わたしたちを人質にしてここに立てこもっているのでしょう」
 静香が上条に聞いた。
「何度でもいいます。私たちの目的はここにいることです。私たちだけではここにいることができません。あなたたちが必要です。外の連中は私たちを抹殺したがっています」
 雄作はソファに腰かけた。静香が上条の方に歩み寄った。
「危ない。窓から死角になる所にいてください」
 静香は一歩移動してなおも問いかけた。
「あなたちがここにこうしていれば何がどうなるの」
「今はいえません。時が来れば説明しましょう」
 スッと上条の目が細くなった。静香に向けられていた柔和な目が一変した。銃を構えた。シャという音がした。静香が瞬きする間のできごとである。窓のすぐ外で兵士が一人倒れた。彼が倒れる一瞬前、彼が持った筒から何かが発射された。それはゆっくり放物線を描いて窓の近くに落ちた。
 上条は素早く顔面にマスクをつけながら怒鳴った。
「マスクをつけろ」
 上条は静香の背後に回って手早くマスクをつけてやった。雄作には岡山がマスクをつけた。
 煙がもうもうと室内にただよう。催涙ガスだ。風向きが幸いしてあまり濃くならない。「すみません」
 静香が上条にあやまった。
「なぜあやまります」
「わたしが余計なおしゃべりをしたから」
「いいんです。シーツを二、三枚貸してください」
「持ってきます」
 しばらくして二階から静香がシーツを手にして降りてきた。
「岡山、シーツで窓をふさぐんだ。田口さんすみませんが手を貸してください」
 上条は見張りを続ける。岡山と雄作の二人は窓をシーツでふさぐ。不規則に風が吹くため作業は難航する。シーツがバタバタ風ではためいてなかなか窓枠に固定できない。見かねて静香も作業に加わった。
 ガラスがなくなった窓をなんとかシーツでふさいだ。部屋の中が少し暗くなった。上条はシーツを水で濡らすように岡山に指示した。岡山はバケツの水をひしゃくでシーツにかける。
「シーツを絶えず濡らしておくように。催涙ガスが部屋の中に入るのをある程度防げるはずだ」
 二度目の朝が来た。今朝は静香が朝食の用意をした。外の見張りは上条がしている。岡山は食卓に着いて皆を待っている。
 二階で大きな物音がした。二階は清家が見張りについているはず。雄作がいない。上条が外に意識を向けながら岡山にあごをしゃくった。
 岡山が階段を上がろうとした時、二人が降りてきた。清家が先に歩き、雄作がその背後に密着している。雄作が持つ銃は清家の後頭部に突きつけられている。
「上条さん、私は二等航海士だ。船は今日出航する。私は船に戻らなくてはならない。清家君には悪いが人質になってもらう。私と静香さんを解放しろ」
「岡山、外を見張ってろ」
 そういうと上条は雄作と向かい合った。
「船はあなた一人で出航させるわけではあるまい」
「清家君を傷つけたくない。私と静香さんを解放しろ」
 清家は無表情でされるがままになっている。それまで柔和な表情をしていた上条の目が細くなった。ゆらりと一歩雄作の方に近寄った。
「田口さん、あなたと清家のどちらを取るかと聞かれれば清家と答えなくてはならない。清家は私の仲間であり、私たちの目的を達成するために必要な人間だ」
 上条の目がさらに鋭くなった。指先がピクピク動いている。非常に剣呑な雰囲気だ。場の空気がガラスのような硬質な物に変化した。ほんの少しの衝撃でひびが走って砕け散る。砕けた破片は鋭い縁で深い傷をつけるだろう。
「やめて」
 静香が叫んだ。彼女は、このまま行けば雄作が死ぬことになることを察知した。
「人質が必要ならわたし一人で充分でしょう。雄作さんを船に行かせて。わたしが残るから」 上条の指先が静止した。
「当方としてはそれでもかまいませんが」
「きみを一人残すわけにはいかない」 
 銃を握る雄作の手が小刻みに震えている。
「やめて雄作さん」
 突然、岡山が叫んだ。
「敵襲」
 

                              5へ続く


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ガラスの夏 5

 窓をふさいであるシーツが一瞬で切り裂かれた。まるでテレポートしてきたかのように五人の兵士が部屋の中に出現した。雄作にわずかなスキができた。清家の肘が雄作のみぞおちを強打。次の瞬間には雄作の手の銃は清家の手に。清家は崩れ落ちる雄作の身体をテーブルの下に蹴りこむ。
 上条の左手が閃いた。ナイフが手品のように出現した出現した。
 敵の一人が喉にナイフを突き立てて倒れた。狭い室内での接近戦では銃よりナイフの方が扱いやすい。上条は一瞬でそう判断した。 清家は静香に飛びついた。同時に彼女に足払いをかける。丸太のように倒れた静香をテーブルの下に蹴りこんだ。次の瞬間、床に伏せた。背後の壁面にミシン目が走った。シャーという音がした。音の発生源は二カ所。敵の銃と清家の銃だ。敵の銃弾が壁をなめた。清家の弾は敵の胴を切断した。
 窓際にいた岡山は窓から銃口を出して可能な限りの弾丸を散布する。次々とマガジンを交換する。室内に侵入してきた敵には背中をさらすことになるが、この窓を確保して第二陣の敵の侵入を阻止する必要がある。室内の敵の処理と人質二人の保護は上条と仕事だ。岡山は瞬時で役割分担を判断して自分の仕事に専念した。
 上条は倒した敵の喉からナイフを抜き取り次の敵に取りかかった。向けられた銃口を蹴って横を向かせ多。その勢いで敵の背後にまわって喉を斬る。
 声が出ない。雄作はテーブルの下でうめいていた。清家にみぞおちを強打された痛みがまだ治らない。胃から酸っぱい液がこみ上げてくる。静香も先ほど清家に足払いをかけれれて後頭部を強打して頭がフラフラする。二人はテーブルの下から這いだそうとした。  清家は敵の一人を射殺した。その時、視界の端で雄作と静香がテーブルの下から這い出てくるのを見た。二人が危ない。
「出るな」
 二人に声をかけてテーブルのそばに移動した。雄作と静香は腹這いになってなおも前進しようとする。二人の目の前に突然、人の足が出現した。そのため前進が止まった。その足の先の床に小さな穴が無数に開いた。木片が煙のように舞い上がる。ドサッという音がした。黒い影で視界がふさがった。赤い液体が腹這いの二人のアゴをぬらした。床の上に横たわった男の後頭部が見えた。顔が見えた。清家だ。うつろに見開かれた視線のない目でこちらを見ている。
 ほんの数分のできごとであった。後には死体が六体残った。五体は敵の物。もう一体は清家だ。
 見開いたままの清家の眼を上条が閉じる。
「おふたりにけがはありませんか」
 ぼう然と突っ立ている雄作と静香に上条が声をかけた。二人の上半身は清家の血で赤く彩られている。静香が清家の遺体の上に崩れ落ちて泣き出した。
「わたしがいけないんです。わたしが清家君を殺したようなもんだわ」
「静香さんだけではない。ぼくもだ」
 雄作が静香の肩に手を置いた。みぞおちがまだ痛そう。
「気に病まないでください。私も清家も岡山も覚悟はできています」
 上条はそういうと一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐ表情を変えた。
「すみませんが死体をかたづけるのを手伝ってください」
 見張りの岡山を除く三人で、敵の死体五体と清家の死体を別室に安置した。
 上条は窓際まで行って見張りをしている岡山と何事か相談し始めた。かなり重要な相談らしく二人とも真剣な表情だ。相談が終わり上条が雄作に向き直った。
「田口さん、私と服を交換してください」
「なぜ」
「あなたと私は体格背格好が似ている。服を着替えて遠くから見たら見分けがつかない」
「私になりすまして逃げようというのか」
「そんなバカなことはしません。そんなことをしても岡山は逃げられません。それにいくら似ているといっても外に出たらすぐばれますよ」
「ではどうする」
「あなたの服を着た私を岡山が射殺する」
 雄作と静香は、最初は上条が何をいっているのかよく意味がわからなかった。理解の外にある上条の言葉だった。お前らを撃ち殺すといわれたほうが驚かなかっただろう。
「自分が何をいっているのかわかっているのか」
「わかっています。私は死にます」
「いやだ。これ以上人が死ぬのは見たくない」
「お願いします。服を交換してくれないと、田口さん、あなたを撃たなくてはなりません。私たちはあなたたちを殺したくない」
「岡山くん、なんとかいえ」雄作がいった。「ぼくは田口さんを撃たなくてはなりません。田口さん本人か上条さんが化けたニセ者かはどっちでもいいんです」
 岡山はそれだけいうと外の見張りを続けた。静謐な緊張感が場に流れた。
 リーダーの上条の人柄にもよるのだろう。たてこもり犯と人質という関係ながら、短時間で雄作、静香の二人と、上条、岡山、清家の三人は奇妙な友情を形成してきた。それがここへきて一気に緊張した。犯人と人質という本来の関係に戻ったというべきだろう。
「人質がいるのに攻撃があった。二度と攻撃させないため、見せしめに人質を殺害する必要がある。私たちは目的を達成させたい。しかしあなたたちを殺したくない。そこで出た結論が今私がいった方法だ。私たちの目的は岡山一人で達成する」
 ものすごく強固な意志だ。上条の発言を聞いて雄作はそう思った。もちろん静香を殺させるわけにはいかない。自分が死ぬのももちろんいやだ。上条も死なせたくない。昨日知り合ったばかりの男だ。非常に短い時間ではあるが上条という男がどういう男か雄作にはよく判った。実のある男だ。ただの犯罪者ではない。最も友人にしたいタイプの男だ。こんな男絶対に死なせたくない。つまり雄作は誰も死なせたくないのだ。
「あなたたちの最終目的は地球を残すことですか」
 静香が口を開いた。強い決意を秘めたような目の輝きをしている。上条が静香に向き合った。彼の目の輝きも静香に劣らず強い決意を持っている。
 静香の質問を上条は真っ正面から受け止めた。二人はしばらく見つめ合った。視線と視線がからみ合う。精神力と精神力の勝負。たおやかではかなげに見える静香のどこにこんな強い力が隠されていたのだろう。張りつめた時間が流れた。負けた方が先に口を開くだろう。
「はい」
 上条が返答した。
「それではわたしを殺してください」
 静香がいった。
「それでいいのですね」
「はい。そのかわり地球は必ず残してください」
「約束します」
 上条が静香の心臓に照準をあわせた。引き金に指がかかる。上条の指がほんの少し動いただけで静香の命は絶える。
 雄作は強烈な嫉妬感を覚えた。静香はなぜこのように上条を信ずることができるのだろう。二人の、特に静香の精神力の強さは何なんだろう。やはりあれか。病気か。静香の頭の中には常に自分の病気のことが入っているのだろう。いつ発病するかわからない。発病すれば必ず死ぬ。静香はいつでも死ぬ覚悟ができているのだ。これが静香の強さの源か。雄作に嫉妬以上の感情がわいてきた。保護欲だ。静香を死なせるわけにはいかない。彼女を守らねば。
「やめてくれ。この人を殺すな」
 雄作は上条と静香の間に割って入った。銃身を握って銃口を静香の胸からそらす。そして自分の胸に銃口をつけた。
「撃つなら私を撃て」
「待って、これを見て」
 静香が叫んで胸をはだけた。白いブラの周囲の皮膚に紫色の斑点が出ている。
「昨日から少し熱っぽいの。今朝起きて斑点が出ているのに気がついたわ。歯茎から出血もしているし関節も痛いわ。わたし発病したみたい。一ヶ月以内にわたしは死ぬ。どうせ死ぬなら地球のために死にたいわ」
 雄作は凍り付いた。病気のことは以前から静香に聞いている。しかし潜伏期間を過ぎた静香は、絶対に発病しないものと思っていた。雄作は医学の専門家ではない。だからなんの科学的な根拠はない。それは雄作の確信というより願望だった。


                              6へ続く

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ガラスの夏 6

「お前たちに重大な話がある」
 突然外からラウドスピーカーが怒鳴った。
「こいつを見ろ」
 上条と岡山が外を見る。マイクを握っている指揮官が後方に向かって手招きした。一人の男が引き出されてきた。若い。岡山と同い年ぐらい。手錠に腰縄。後頭部の頭髪をひっぱられて顔を上げさせられた。上条と岡山の顔色が変わった。
「黒木」
「ニセ者ですよ、上条さん。そうに決まってる」
「双眼鏡を貸せ」
 上条はかなり時間をかけて手錠の男を観察した。双眼鏡から眼を離した。
「黒木だ。まちがいない」
「アジトが見つかったのでしょうか」
「そうだ。われわれは失敗した」
「これからどうします」
「脱出する。ここでこうしていてもムダだ」
 上条は雄作と静香に向かって深々と頭を下げた。
「お聞きのとおりです。私たちの計画は失敗しました。お二方には大変ご迷惑をおかけしました。心よりおわびします」
 上条はそういうと岡山を連れて出口に向かった。ドアのノブに手をかける。
「待ってくれ」
 雄作が呼び止めた。
「君たちが何をしようとしていたのか説明してくれ」
 雄作の呼び止めに上条と岡山は立ち止まった。しばらく考えてから上条は岡山の目を見て黙ってうなずいた。二人の考えは一致しているようだ。
「私たちは囮だった」
 上条が話し始めた。
「私たち三人が騒ぎを起こして官憲の眼を引きつけて、黒木たちがこの地球に永住する声明を発表する計画でした」
「君たちの最終目的は地球を永久保存することだろう。そんなことで行政府の地球爆破計画を阻止できるのか」
「できます」
「地球は爆破されるのだろう。最初から疑問だったのだが、こんな状況で人質なんか無意味じゃないのか。奴らは私たち二人も君たちもまとめて消して、あとは地球を爆破して一件落着。そうだろう」 
 雄作の問いには答えず、上条はリュックサックから小さな金属のカプセルを取り出した。
「この中には地球の全生物が入っています」
「どういうことだ」
「地球の全ての生物のDNA情報がデジタル化されてここに収納されています。これさえあれば地球のどんな生き物でも、いつでもどこでも再生可能です」
「すごい切り札だな」
「黒木が逮捕されたということは、こいつと同じ物を奴らに確保されたということです」
「どちらかが本物でどちらかがニセ物ということか」
「そうです」
「どっちが本物なんだ」
「わかりません」
「わからない?」
「これを入手した時、同じ容器を作りました。キーワードを入力しないで蓋を開けると中身が破損するように本物、ニセ物両方とも細工がしてあります。クジに当たったメンバーの一人が誰も見ていない所でどっちが本物かわからないようにシャッフルしたのです」
「なぜそんな面倒なことをした」
「誰が捕まって自白させられてもいいようにしたのです」
「本物、ニセ物、キーワード、シャッルフした男、この四つが揃わないとお宝は手に入らないわけか」
「そうです」
「キーワードは誰が知っている」
「私です」
「シャッフルした男は誰だ」
「死んだ清家です。奴らは自分たちが手に入れた物が本物だと思っています。切り札は自分たちの手にある。今すぐ攻撃してきます」
「死ぬつもりか」
「そのつもりは全くありません。血路を開いて脱出します」
「無理だ。たった二人で」
「こいつを切り札として使いますよ」
 上条はそういうと容器を雄作に見せてバッグにしまった。岡山の顔を見て軽く顎を下げる。岡山もそれにうなずく。二人は玄関に立ってドアを半分開けた。上条が大声で外に呼びかけた。
「今から出て行く。撃つな。人質二人の保護を頼む」
「了解した。武器を捨てて出てこい」
「待ってください」
 静香が引き止めた。
「どこへ行くのです」
「もし生きて脱出できれば地球に腰を落ち着けます。私たちの死に場所は地球です」
 上条はそういうと静香に小さな紙片を手わたした。
「ではお別れです。どうもご迷惑をおかけしました」
 上条と岡山は出て行った。銃声は聞こえてこなかった。

 午前十一時。一日のうちで最も明るい時間のはずだ。しかし、薄暗くまるで薄暮のような午前十一時だ。太陽は昼であるための最低条件を満たすので精一杯だ。
 地球は冬を迎えていた。かって繁栄を誇った生き物たちは全て地球上から姿を消した。今、この星に存在する生命は微生物と、この星を弔うために残っているごくわずかの人間だけ。その人間たちもまもなく地球を去る。そのあとすぐ地球は爆破される。
 数日前スマ上空のレンズ衛星「日輪5」が機能を停止した。これで地球上から「夏」は永久になくなった。
 そしてここに人生の「夏」を過ぎて初秋を迎える男女がいる。そのうち女は人生そのものを終えようとしていた。
 カチャカチャという食器を用意する音で雄作は眼をさました。静香がコーヒーカップをテーブルに並べている。
「寝てなくていいのか」
「今日は気分がいいの」
 ずっと四十度を超える高熱が続いていた静香だがここ数日は熱が下がっている。
「そろそろ船に戻らなくていいの。準備もあるんでしょう」
「準備なんてないよ。ぼくは身体だけ船に乗
っければいいんだから。それに─── 」
「なあに」
「それに、やっぱり君を一人おいて行けない」「わたしずっといっしょにいたい」
 そういうと静香は雄作に抱きついた。二人は抱き合ったまま彫像のように動かない。窓から差し込む朝の光が二人を包む。力のない光だ。さんさんと輝く初夏の朝の光は永久に戻ってこない。
 静香の頭の何本かの白髪に弱い日光が反射する。静香をだく雄作の後頭部はかなり薄くなっている。
「でもわたしは船に乗れない」
 静香がいった。それに対して雄作は何もいえない。ただ黙って静香を抱き続けることしかできなかった。
 地球で死ぬ。それが静香が自分に下した結論だ。
 静香が地球を離れるなら静香は“乗客”ではなく“荷物”として最終便に乗ることになる。厳重に密閉された容器に入れられて“運搬”され、新地球に着いても隔離された箱の中で死ぬまでの短い時間を過ごさなくてはいけない。狭い箱の中で死ぬ。生まれ故郷の地球の大地の上で死ぬ。どちらが良い死に方か、静香の出した結論はきわめて自然なものといえるだろう。
 朝食をすませた。僕がやろうという雄作の申し出を断って静香が食器の後かたづけをしている。こうして立ち働いている静香を見るのは久しぶりだ。シンクの前で洗い物をしている静香の後ろ姿は、少し痩せたが余命いくばくもない病人には見えない。
「きょうは久しぶりに気分がいいから散歩に行きたいわ」
「どこへ行こう」
「海。あなたと初めてあったあの海」
 静香は発病してから一歩も外出していない。発熱が続き、とても外出できる状態ではなく、ベッドから起きあがるのさえ困難だった。雄作がつきっきりで看病していた。
 薄暮のような道を歩く。静香の歩みはゆっくりしたもの。一歩一歩大地の存在を確かめるように歩く。ゆっくりゆっくりと。それは体力のおとろえもあるだろうが、母なる星との最後の触れ合いを確かめるような歩みだ。
「だいじょうぶか、帰ろうか」
「いやよ」
 キッとして静香がいった。雄作がハッとするほどの鋭い言葉だ。
「わたし、絶対海に行く」
 こんな強い調子の言葉をはく静香は初めてだ。静香は優しそうな外見とは想像できないほど強靱な内面を秘めた女性だ。発病してからその内面の強さが表に出ることが多くなった。  低い丘を越えるとかすかに潮の香りがしてきた。もうすぐ海が見えてくるはず。「夏」があったころなら、太陽に照らされたキラキラと輝く海面が見えた。しかし、今は薄墨を流したような空の下、ぼんやりとした地面とも海面ともわからない平面が視線の先にあるだけ。
 静香が先に歩く。ゆっくりとした歩調は変わらない。少し遅れて雄作が歩く。二人とも無言だ。
 海に着いた。防波堤の上まで登る。砂浜が広がっていて渚には白い波が打ち寄せている。二人が初めて逢ったあの夏の日と同じ風景がそこにあった。しかし、あの日と大きく違っているところがある。あの日にはふんだんにあった、太陽の光、青い空、青い海、熱を含んだ風、そんな物は今日は一切ない。
 波打ち際まで来た。白い波が足元を洗う。泡を残して波が引く。波が来る。引く。泡が残る。
「冷たいわ」
 静香が素足を海水につけた。白い静香のくるぶしを小さな白い泡が包む。
「冷えると身体に悪いよ」
「いいの。わたしの身体はこれ以上悪くなり要がないから」
 そういわれると雄作は何もいえない。静香の好きなようにさせてやろうと思った。砂の上に腰を降ろす。少し沖の方に歩いて行って静香が振り返る。
「泳ぐわ」
「バカな。病人が何をいう。こんな海で泳いだら凍え死ぬぞ。それに水着を持ってきていないじゃないか」
「いいの。今、泳がないと地球の海で永久に泳げなくなるわ。水着なんかいらないわ。わたしたち以外だれもいないんだから」
 静香は全裸になった。かなり痩せた。白い肌に赤い斑点が浮き上がって見える。
 沖に向かって泳ぎ始める。うす暗い海面に白い裸身が、今は存在するはずのない地球の海の生き物のように見える。止まって雄作を手招きする。そのあたりの水深は彼女の胸の深さだ。
「雄作さんもいらっしゃい」
「寒いな」
「風は寒いわ。水は冷たいわ。これが今の地球なの」
 雄作も裸になった。風が肌に突き刺さる。海に入る。完全に身体を水没させると案外冷たさは感じない。泳いで静香に近づく。静香が手を差し出す。手を握り雄作を引き寄せる。
「相変わらず水泳は君の方が上手だな」
「そうよ。わたしは地球の生まれ。わたしは地球の生き物よ」
 静香はその日は夜まで元気だった。しかし、夜、ベッドに入ってから熱が出た。
「あんな寒い海に入るなんてやっぱり無茶だったんだ」
「だってもうすぐ地球の海には永久に入れなくなるのよ」
「君は病人だよ」
「病人だからこそ海に入ったのよ。わたしはあと一週間もたないと思う。かろうじて地球の最後を見届けられるわ」
「そんなことあるもんか。君はぼくと二人で永遠に生きるんだ」
「永遠の命なんてないのよ」
「永遠の命はないかもしれないが、永遠の魂はあるんだ。物質は永遠に存在するのよ。静香の肉体はなくなっても、静香だった素粒子はいつまでもこの宇宙に残る。静香は死なない。形が変わるだけだ」
 雄作はそういうと静香をそっと抱いた。熱い。四〇度を超す高熱だ。当然、雄作もこの病気について調べた。重篤な状態になる前に、一日か二日熱が下がり元気になる。そして、再び四〇度を超す高熱になり五日から八日後に死亡する。


        7へ続く
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ガラスの夏 7

「船長からだった」
 総合端末の通信機能スイッチを切った雄作はイスごとベッドの方を向いた。
「船に帰りなさいという連絡でしょう」
「いや、ほんの事務的な問い合わせだ」
「ウソ」
 それだけいうと静香は横を向いた。肩で息をしている。
 雄作はパン、オムレツ、サラダ、牛乳をトレイの上に置いて、ベッドの横まで行こうとした。
「ごめんね。いらないわ」
 三日前から食べたり食べなかったりの状態になった。食事の用意をしてくれる雄作に申し訳ないから食べる。そういう食べかただった。昨日から液体しか口にしなくなった。あと数日の命だ。 
 最終便出航まであと三日。もちろん雄作は静香を看取るつもり。三日以上静香がもてば船には戻らず、最後の瞬間を静香といっしょに迎えるつもりだった。そうなることが雄作にとって、今、一番強い願いだ。
 雄作は二等航海士だ。静香には内緒で辞表を提出した。ところが、もう一人の二等航海士が事故で大ケガをした。どうしても雄作が船に戻らなければ最終便が出せない。いつも鷹揚に構えてめったなことでは動揺しない船長が必死に雄作に復帰を懇願してきた。
「わたしは大丈夫だから船にもどって」
 静香が何度となく口にしてきたセリフだ。もちろん大丈夫なことは全くない。静香はあと数日で死ぬ。そのような患者に対して大丈夫という言葉が使えないことは雄作も本人もわかっている。ここで静香が大丈夫といったのは「大丈夫わたしは良くなるわ」ではなく「大丈夫わたしは一人で死ねるわ」という意味だ。雄作は最初は前者の意味に解釈して、そのように静香に接してきた。しかし、ここまで静香の病状が進行すると、そういう自分の態度がたまらなくなった。その上船に絶対に戻らなくてはならなくなった。今、雄作は初めて静香の言葉を後者の意味に解釈した。それ以外に選択肢はない。
 静香の目から涙があふれた。発病後初めて彼女が見せた涙だ。長い時間二人は見つめ合い手を握りあった。静香は眠った。
 雄作は静香の寝顔を見る。この人と知り合って半年ほどの時間しか流れていない。もっと以前から知り合っていたような気がする。航行中の宇宙船の中で生まれて、宇宙船乗りになり、宇宙しか知らない自分が人生の後半になってやっと巡り会った、生涯をかけて愛すべき女性がこの人なのだ。
 明日の午後三時には船に戻らなくてはならない。今の雄作のただ一つの望みは、静香の最後の瞬間に自分が立ち会う。それだけ。
 静香の目が開いた。
「こわい。死ぬのはいや」
 静香が初めて弱音をはいた。今まで雄作に負担をかけまいとして決して口にしなかった言葉だ。雄作にとってはそれが不満だった。なにもかも全部自分にぶちまけてもらいたかった。静香は雄作の全てだ。静香の全てを受け止める覚悟はできている。事実こうして静香の死という現実を受け入れつつある。死ぬのは怖いと自分にいってくれた。雄作は非常に大きな悦びを感じた。愛を全うした悦びだ。抱擁して激しくキスした。長い時間唇を重ねていた。
「お願いがあるの」
「なに」
「わたしを殺して」
 雄作はうなずいて部屋の隅にある銃を取ってきた。上条が置いていった銃だ。引き金に指をかけて照準を静香の心臓に合わせる。右手の人差し指にほんの少し力を入れるだけで問題は解決する。静香は雄作に看取られながら死ねる。雄作は静香の最後に立ち会える。
 何もためらうことはない。引き金を引く。難しい作業ではない。静香はゆっくり目を閉じた。雄作は銃を構えたまま動かない/動けない。時間が凍りついた。フッと何かが抜けた。雄作の手から銃が離れた。
「許してくれ。撃てない」
「ごめんね」
 雄作は決心した。静香を一人で死なせたくない。自分は船に戻らなくてはならない。これらの条件を考えると選択肢は一つしかない。あの男に頼もう。今、地球上にいる人間でただ一人信頼できる人物。彼も地球とともに死ぬ気だ。

 静香を乗せた担架の前を岡山が、後を雄作が持つ。ゆっくりと運ぶ。上条がテントの入り口を開けた。
「静香さんはこのテントで休んでもらおう」
 上条は手を差し出した。雄作は握手に応じて上条の目を見た。最終確認である。一緒にいた時間は短かった。それも、テロリストと人質という極めて異常な関係だった。監禁されている間は、雄作にとって上条は自分と静香の生命を脅かす存在であったはず。ところがいくら努力しても上条を憎めなかった。それは上条という男の本質が、人間として非常に優れたものであることが雄作にはわかっていたからだ。上条はそのことを示す具体的な行動をしたわけではない。雄作と静香は本能的に上条の本当の姿を見抜いていた。
 雄作は確信した。自分は静香の最期を看取ることはできない。自分の代わりに静香の最期を託せるのはこの男以外にはいない。
 上条が雄作の肩を軽くたたいてテントから出て行った。二人だけになった。
 永遠の時間が流れたのか、一瞬の時間が流れたのかわからない。自然に手を握り合った。雄作がいった。
「もう行くよ。さようなら」
「さようなら」
 雄作がテントから出て行った。外では上条が待っていた。
「時間はまだあるぞ」
「もういい。彼女を頼む」

 船は地球周回軌道を脱した。食事を終えた雄作は展望室に来た。「その瞬間」まであと一時間ほど時間がある。窓から地球が見える。雄作の勤務は二時間後から。それまでは非番で自由時間だ。展望室にだんだん人が増えてきた。青く輝く地球はあと少しで永遠に見られなくなる。人生の後半にさしかかって巡り会った、雄作の最愛の人が今あの星にいる。そこでその人は命を終えようとしている。いや、すでに終えたかもしれない。
 時間が流れていく。雄作は今ほど時間というものを意識したことはない。そして、こんなに時間を止めたいと思ったことはない。叶うならばこの瞬間が永遠に続いてほしい。この世界を静香と永遠に共有し続けたい。この願いが叶うなら悪魔に魂を売り渡してもよいと思う。しかし、それは叶わぬ願い。あとほんの少し時間が流れるだけで雄作と静香の世界は終わる。雄作はこの世界。静香は彼岸。二人はもう決して逢うことはできない。
 時間だ。ポッと地球が強い光に包まれた。それだけだった。あとには何も残らなかった。かって地球があった空間は元から何も無い虚空の空間であったかのようだ。
 夏が終わった。

              (終)

                              星群83号掲載
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