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とつぜんコラム№83 大食いは醜く汚い。テレビに映すな

 事故があったりして、一時テレビから姿を消していた大食い番組が、最近また復活している。小生はあの手の、電波のムダ使い的民放のバラエティ馬鹿番組は観ないが、チャンネルを切り替えている途中にたまたま映ったのを目にすることがある。
 まず、そのような番組を観てしまった第一印象は、なんとまあ汚く醜いものを観てしまった、といういうもの。よい歳した大人が食べ物を意地汚く口に押し込んでいる様は、ものすごく汚い図に見える。
 小生は、飲み放題食い放題という店は嫌いだ。以前の会社にいた時、夏になれば、よくその手のビアガーデンに同じ職場の連中と行った。連中、同じ金払っとるなら、食わにゃ損とばかり、食いきれんほどの食べ物を取ってきて、テーブルの上にてんこ盛りにする。あちこちの皿を食い散らかして、大量の食べ物を残す。その様子を見て、小生、ものすごく汚く嫌な気分になった。大食い番組の汚さは、飲み放題食い放題の宴の後の汚さと同じだ。
 小生は料理が好きだ。趣味で週末料理人をやっているし、食べることも好きだ。食べ物を大切に思うし、大切にしてきたと自分では思っている。出されたものは全部食べる。絶対に残さない。だから食べられる分量以上は注文しないし作らない。残すのは嫌だ。
 料理には二つの側面がある。生命を維持するための食物。味を楽しみ、食べることの快楽を得るためのもの。前者なら木に成っている実を、海の魚を、そのまま食べればいい。それでも美味しいが、それ以上の多様な美味しさを得るべく、人類は料理というものを、工夫し、試行錯誤を繰り返しながら、発展させ進歩させてきて、今も進歩させつづけている。これは料理が、美術、音楽、文学と同様の芸術といっていい側面だろう。
 絵をいくら見ても、音楽をいくら聴いても、小説をいくら読んでも、横で観ている人は不愉快に感じない。ところが料理は、大食いをしている様を見ると、かようなテレビ番組の視聴者のごとき喜ぶムキもおられるだろうが、小生のように不愉快に感じる人もいる。
 なぜか。絵画、音楽、文学などは精神で消費する芸術だからだ。このような芸術は生きていくのに必要な量はない。摂取量ゼロでも生きていける。また、逆にいくら摂取してもいい。これだけが生存に必要というものでもない。いくらでも摂取できる。
 ところが食物は違う。生存に絶対に必要な量は摂取しなくてはならない。逆に必要な摂取量は決まっている。生命維持に必要な量以上は、本来は不要である。生命維持に必要分だけ摂取して、あと、料理の快楽を味わうために、少し余分に摂取する。これならばいい。芸術作品を鑑賞するのと同じ文脈だからだ。
 生命維持の量を通り越し、料理の美味しさを味わう分量を通り越し、あとはただたんに消費の量とスピードを競うためだけに食べ物を食べる。これはもう、命の糧としての食物と、ある種芸術としての側面を持つ料理に対する冒涜だ。
 つつしみ。これは人間として美点の一つ。必要以上の食べ物を食べる様は、「つつしみ」から大きくはずれた、実に醜い姿だ。そのようなものをテレビに映してもらいたくない。



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