トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR芸備線井原市駅を訪ねる

2020年03月24日 | 日記
第三セクターの井原鉄道の井原駅です。 岡山県の西部、井原市にある駅です。 1999(平成11)年に、井原鉄道の開業と同時に設けられました。内部は、駅とともに、デニムなど井原市の特産品の展示場や売店、飲食店などが並ぶ井原市のコミュニティホールとしても使用されています。

駅舎のデザインは、源平の戦いで知られる那須与一に因み、弓と矢を模しているそうです。 那須与一は、元暦2(1185)年、屋島の戦いで、扇の的を一矢で射落とした軍功により、井原市のエリア内にあった備中国荏原荘など5ヶ所の領地を得たことで、よく知られています。
井原駅に対し、「井原市駅」という駅があります。 JR広島駅と岡山県の備中神代駅を結ぶJR芸備線の井原市(いばらいち)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市駅を訪ねてきました。 JR広島駅の9番乗り場から出発する、三次(みよし)駅行きの列車に乗車しました。 キハ40形とキハ47形の3両編成の列車でした。

広島駅から太田川、そして三篠(みささ)川に沿って北に進み、1時間ぐらいで、井原市駅に着きました。 進行方向の右側にある1面1線のホームに、3人ほどの方とともに降り立ちました。 この駅の1日平均乗車人員は、2017年には90人だったそうです。 井原市駅は、一つ前の志和口駅から4.0km、次の向原駅まで5.9kmのところ、広島市安佐北区白木町大字井原にあります。広島市内の最北端の駅といわれています。 井原市駅という駅名は、江戸時代から市場町として栄えていたところということで、名づけられたそうですが、かつてはいばら(茨)の生えていた野原が広がっていたところだったのでしょう。

ホームの左側の光景です。 周囲の山の麓にある集落まで広々とした農地が続いています。

ホームを広島駅方面の端まで歩いて来ました。 長いホームは、かつては貨物を取り扱っていた頃の名残だそうです。 線路の先に志路(しじ)踏切が見えます。

志路踏切から見た井原市駅方面です。 井原市駅は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道が開業したときに、当時の高田郡井原村に設置されました。 そして、昭和12(1937)年に国有化されました。 その後、昭和55(1980)年、広島市が政令指定都市に昇格したのに伴い、現在の所在地に変わっています。無人駅になったのは、昭和61(1986)年のことでした。

三次駅方面に向かって引き返します。 現在は撤去されていますが、かつて、線路が敷設されていたと思われる跡が残っており、以前は、島式ホームの1面2線で運用されていたそうです。 また、右側の駐車場になっているところでは、かつては貨物の取扱いが行われていたようです。
下車したあたりまで戻ってきました。駅舎は撤去され、その跡に小さな待合室が設置されています。

三次駅方面にさらに歩くと、駅名標が設置されていました。 長い年月、風雪に耐えて来たことがうかがえる駅名標でした。 「広」のマークは、「広島市内駅」であることを表しているそうですが、その北限の駅になっています。
ホームの三次駅方面です。ホームの先にあるのは日詰第2踏切。線路はその先で右にカーブして、次の向原駅に向かって敷設されています。このことからも、かつて1面2線のホームだったことがうかがえます。踏切の手前は民家がホームに接して並んでいます。

ホームの真ん中あたりにホームから降りる階段が設置されています。その先が、待合室になっています。 平成31(2019)年2月25日に、それまであった木造駅舎の撤去が始まりました。 「平成29(2017)年1月18日(水)の午前9時40分頃、改札口前の屋根(庇)が落下した」とのことで、老朽化による撤去ということになったそうです。

駅舎が撤去された後につくられた待合室です。間口1間半に、奥行き1間ぐらいの広さで、右側に設置されている3脚のベンチが見えました。

ベンチの上にあった地元の白木中学校区の中学生が作った「ふれあい標語」です。 平成31年度の優秀作品を紹介する掲示でした。


待合室の内部です。ベンチの向かいにあった自動券売機、運賃表と時刻表です。

待合室から見たホームです。

駅前広場にあった案内板です。神ノ倉山(かんのくらやま)を中心にした山歩きのコースを紹介しています。 井原市駅の周辺を歩いてみることにしました。
駅への取り付け道路です。家並みの向こうに標高561.5mの神ノ倉山が見えます。 旧街道との三差路を右折して進みます。
取り付け道路から見た駅方面です。 待合室がずいぶん小さく見えます。

古くから市場町の中心地として栄えた旧街道を進みます。やがて、右側に「高田鶴特約店」と書かれた看板が見えて来ました。 江戸時代に広島藩領だったこの地は、明治11(1878)年の郡区町村編成法の施行時に、高田郡が発足し、続いて、明治22(1889)年の町村制の施行時に、高田郡井原村となりました。 高田郡の地酒として多くの人に親しまれて来たブランドなのでしょう。
このお宅のすぐ先にある「井原老人集会所」の前で左折して進みます。

この町を流れる三篠川に架かる井原大橋の西詰めに出ます。 三篠川の堤防上を走る広島県道37号を渡ります。 神ノ倉山が見えます。

井原大橋の上からの三篠川です。向こう岸に、桜並木がありました。

井原大橋の東詰です。桜の木が植えられた堤防に石碑がありました。 「西暦2000年記念櫻」、 「白木町井原 原爆被爆者の会」と刻まれていました。

旧街道に戻ってきました。 さらに、その先に進んで行きます。 栄堂(えいどう)川に架かる旭橋を渡って、右に進んでいきます。

7メートルぐらいの長さの芸備線の橋梁がありました。橋桁に書かれた「塗装管理標」には、「橋梁名 旭川B 6M66」と書かれていました。 橋梁の先には、志路踏切があります。

岡山県の西部の井原市と、伯備線の清音(きよね)駅、西は広島県の福塩線の神辺(かんなべ)駅を結ぶ第三セクター鉄道の井原鉄道。 その中心駅は井原(いばら)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねてきました。 井原市(いばらいち)駅の存在は前から知っていたのですが、訪ねるのが遅れ、木造駅舎はすでに撤去されていました。もっと早く訪ねていればと悔やまれました。
以前、訪ねたJR呉線の須波(すなみ)駅(「レトロな駅舎が撤去されていた JR須波駅」 2019年1月25日の日記)と、同じ体験をすることになりました。