トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大阪府の最南端にある駅、南海本線孝子駅

2019年01月04日 | 日記

大阪府道752号(和歌山阪南線)から見た、南海本線孝子(きょうし)駅です。大阪府泉南郡岬町大字孝子にあります。大阪府の最南端にある駅として知られており、この先にある孝子峠を越えると和歌山県に入ります。

この日は、孝子駅を訪ねることにしていました。特急停車駅であるみさき公園駅から、和歌山市駅行きの普通車(南海電鉄では各駅停車の電車をこう呼んでいます)に乗車しました。孝子駅までは4.4km。南海本線における最長区間になっています。

やがて、現在は廃駅となっている深日(ふけ)駅跡を通過します。線路の両側にホームが残っていました。深日駅跡は以前訪ねたことがありました(「南海電鉄深日駅跡を訪ねる」2018年9月9日の日記)。昭和19(1944)年に多奈川線が開業し深日港駅や深日町駅が開業したため、この年に旅客営業が、翌年に貨物営業が廃止されました。そして、昭和33(1958)に正式に廃止となっています。

みさき公園駅で乗車してから5分後、普通車の先頭車両から孝子駅の2面2線のホームが見えてきました。孝子駅に入ります。

進行方向左側の1番ホームに到着しました。乗降客はごくわずか、電車は、すぐに出発していきました。

1番ホームの端から見た和歌山市駅方面です。1067ミリの複線の線路も見えます。孝子駅を出た電車は、この先で右カーブして、県境の第1孝子トンネル(下り側:全長694メートル)を越えて和歌山県に入ります。また、ホームの左側に見えているのは、国道26号(第2阪和国道)の高架です。

ホームに「駅中心点」の表示がありました。南海電鉄本線は、明治18(1885)年、阪堺電鉄によって難波駅・大和川駅(後に廃止)間が開業したことに始まります。その後、明治31(1898)年に阪堺電鉄が、事業を、南海電鉄(明治28年設立)に譲渡したことにより南海電鉄の路線になりました。難波駅・和歌山市駅間が開業したのは、明治36(1903)年のことでした。

セピア色の写真のようなレトロな雰囲気を感じる駅名表示です。対面するホームにも設置されていました。孝子駅が開業したのは、難波駅・和歌山市駅までが開業してから7年後の明治43(1910)年のことで、臨時駅としての開業でした。常設駅になったのは、大正4(1915)年4月11日のことでした。

1番ホームから見た、みさき公園方面のようすです。1番ホームの待合スペース、向かいに2番ホームの待合スペース。その左側に駅舎があります。

2番ホームの駅名表示の向こうの山麓に、孝子の集落が見えます。明治22(1889)年の町村制の施行により日根郡孝子村となり、7年後に郡名の変更により泉南郡孝子村となりました。そして、昭和30(1955)年、同じ泉南郡内の2町2村が合併し岬町になったとき、現在の岬町大字孝子になりました。平成23(2011)年の人口は430人でした。

到着した1番ホームの待合スペースです。こちらの駅名表示は、真新しいもので、ホームのものとは異なっていました。

1番ホームの向かいに駅からの出口があります。その右側にトイレ、左側に2番ホームの待合スペースがありました。こちらの駅名表示も、ホームのものとは異なっていました。

向かいの2番ホームと駅からの出口へは、構内踏切で移動することになっています。

1番ホームから下り、構内踏切に出ます。人の気配はまったくありません。孝子駅は、南海本線の中で最も乗降客の少ない駅で、1日平均乗降人員は、133人(平成28年)なのだそうです。

駅舎から自動改札機にきっぷを通して外に出ました。駅舎内には自動券売機が設置されています。

駅舎内にあった時刻表です。日中は、1時間に普通車のみ4本程度が停車しています。乗降客だけでなく、停車本数も、南海本線の中で最も少ない駅となっています。

孝子駅の「孝子」はどのような意味があるのでしょうか? まず、考えられるのは「親孝行な子ども」という意味のように思います。孝子駅のある地域には、親を大事に思う「親孝行の子ども」にかかわる伝説が二つ残されています。一つは、平安時代、嵯峨天皇・空海と並び「三筆」と称えられた書の名人、橘逸勢(たちばなのはやなり)にまつわる言い伝え。もう一つは、飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)にまつわる言い伝えです。まず、「橘逸勢」にかかわる地を訪ねてみることにしました。孝子駅前を走る大阪府道752号を大阪方面に向かって引き返すことにしました。

駅から出発してすぐのところ、構内といってもいいところに、みさき公園13号踏切がありました。府道から踏切を渡ってさらに大阪方面に延びる通りがありました。

踏切を渡って進みます。通りがゆるく右カーブするところに石柱が残っていました。

「孝子越街道」と刻まれています。孝子駅の前を通って孝子峠を越えて和歌山県に入る府道752号は、現代の孝子越街道です。かつての孝子越街道は、ここを通っていたようです。孝子峠を越えて進む旅人のために築かれた道標のようです。

府道752号に戻り、さらにみさき公園方面に向かって歩きます。すぐ、左に孝子駐在所がありました。ここを左に向かえば、集落に入っていくことができます。

駐在所を過ぎると、左側に「岬の歴史館」になっている、旧岬町立孝子小学校の校舎が見えました。明治41(1908)年の建築で昭和16(1941)年に改修された校舎です。学校が児童の減少により、廃校にせざるを得なくなったとき、地元の人々の強い要望によって「休校」の扱いのまま、平成23(2011)年から、地域の歴史館として活用されています。孝子小学校は、岬町立淡輪(たんのわ)小学校に「一時的に」統合されています。

駐在所の前の道を入ってJAの事務所のところで右に折れて進むと、「岬の歴史館」の前に着きます。この日は休館日で門扉は閉まっていましたが、脇には「岬の歴史館」と「岬町立孝子小学校」の二つの看板が並んでいました。再度、府道752号に戻ります。

橘逸勢にまつわる伝説にかかわる地に向かって歩きます。天皇の座をめぐる権力争いに巻き込まれ「謀反を企てた」と無罪の罪を着せられて、伊豆へ流罪になった逸勢は、伊豆に向かう途中、現在の静岡県浜松市で亡くなりました。府道を20分ぐらい歩くと、国道26号の「孝子ランプ」の案内標識が見えました。

さらに5分ぐらい歩くと、白いホテルの建物の手前に右側に斜めに入っていく通りがありました。さて、橘逸勢に関する伝説ですが、護送の役人に追い払われながらも、流罪地へ送られる父の後を追って来た、当時十二歳だった逸勢の娘あやめは、出家して父の遺骸を引き取り、阿波国(徳島県)に行く途中のこの地で、父の菩提を弔ったといいます。「孝子」の地名は、そんなエピソードに由来するといわれています(岬町観光協会資料から)。

<追記>
平成31(2019)年1月5日に訪ねた時には府道752号からの分岐点に、赤で書かれた、新しい案内標識がつくられていました。それには「平安時代の三筆  橘逸勢と孝女あやめの墓」と書かれていました。前回訪ねたのは、平成30(2018)年12月30日でしたので、その間に設置されたものだと思われます。

分岐点にあった案内には、逸勢と娘あやめの墓所の所在地が示されていました。

まず、橘逸勢の墓にお詣りすることにしました。案内板の説明にしたがって、通りのすぐ先を右折します。そこにも新しい案内標識が設置されていました。プレハブの建物の手前に、橘逸勢の墓がありました。

あやめの墓に向かいます。細い道を引き返し、さらに先に進みます。みさき公園7号踏切で南海本線を渡ります。

踏切を渡ると右前方に「あやめの墓」がありました。

次は、もう一つの「親孝行」に因む伝説の地を訪ねるため、府道752号を孝子駅まで戻ってきました。ここからさらに孝子峠に向かって歩きます。

府道が孝子峠に向けて右カーブする手前にあった孝子2号踏切です。ここを左折します。

踏切を渡ってすぐ右側に石碑がありました。「くハんおむみち」(観音道)と書かれています。”孝子の観音さん”と呼ばれている高仙寺への道を知らせる石碑です。親孝行に因むもう一つの伝説の地は、この高仙寺にありました。ここから、高仙寺をめざして、正面の山に向かって歩きます。

飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)は呪術で知られていました。その能力を妬んだ弟子の1人が、「妖術で人心を惑わす悪しき人物」だと、訴えを起こしました。役人たちは小角を捕らえようとしましたが、小角は姿を消してしまいます。役人たちは策を練って、小角の母親を人質にして、名乗り出るよう促しました。 山が近くなったところにあった「孝子観音」という看板のついた橋を渡ります。橋を渡ると右折して、かなりの勾配の坂道を上っていきます。

坂を上がりきると、左側にさらに石段がありました。石段の先に、仁王像が守る山門がありました。急な石段をひたすら上っていきます。 母親を人質にされた役小角は、母の身の辛さを思い、自ら名乗り出てこの地で捕らえられました。その後もこの地に止まっていた小角の母は亡くなり、遺骸はこの地に葬られた(岬町観光協会の資料による)といわれています。

山門からさらに上った先に本堂がありました。本堂の左側を進みます。

道が下り坂になったところに、石積みが見えました「役行者(えんのぎょうじゃ)母公之墓」と刻まれた石標がありました。役の小角の母の墓でした。「墓」というのなら墓の形があるはずだと思っていたので、どれが墓なのかよくわかりませんでした。途中で出会った地元の方にお聞きしますと「私たちは、墓石が並ぶ一帯が母公様のお墓だと思って守ってきました」というご返事でした。そのとおりだと納得しました。

孝子2号踏切まで戻ってきました。最後にもう一つ見ておきたいところがありました。府道を孝子峠に向かって上っていきます。

見ておきたかった第1孝子トンネル(正式には「第1孝子越隧道」)です。和歌山県境にあります。第1孝子トンネルは上りと下りのトンネルがそれぞれ設けられていました。2つのトンネルを一緒に撮影しようと思ったのですが、府道の下に生えていた雑木と光線の関係で、下りトンネルを一つ撮影するのがやっとでした。

後に、和歌山市駅行きの普通車の先頭車両から撮影した第1孝子トンネルです。左が下り線(全長 694メートル)右側が上り線(全長 651メートル)のトンネルです。

孝子駅の1番ホームにあった勾配標です。孝子峠に向けて20パーミル(1000メートル進むと20メートル上がる)の勾配を電車は上っていきます。第1孝子トンネル付近が、南海本線の最高地点(標高70メートル)になっているそうです。

和歌山県境にある大阪府最南端の駅を見ようと孝子駅にやってきました。県境の駅らしく、停車する電車も乗降客も少ない、静かで落ち着いた雰囲気の駅という印象でした。この地に残る、親を大事に思う「親孝行な子」にまつわる伝説に惹かれて、駅の北部の「橘逸勢とあやめの墓」と、駅の南東部にある高仙寺の「役子角の母公の墓」も訪ねて来ました。古くからの言い伝えを大事に守って来られた地元の人々の心にも触れる旅になりました。