トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

もう一つのJR東海道線天井川トンネル跡

2016年06月03日 | 日記

写真は阪神電鉄芦屋駅です。以前、鉄橋の上にある駅を巡っていたとき(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日の日記)に、駅の下を流れる芦屋川の河川敷から撮影しました。この日は、この駅の上流部にある天井川トンネル跡を訪ねました。

これがその跨線橋です。JR神戸(東海道)線の芦屋駅の西にあります。前回は、JR神戸(東海道)線の住吉跨線橋の上を流れる住吉川を見て来ました。源流の六甲山系から南に下り大阪湾に注ぐ住吉川は、急流のため勾配が緩やかになると、上流から運んで来た多くの土砂を、川床に堆積してきました。多くの年月、こうした営みを繰り返した結果、周囲の住宅地よりも高くなった川床をもつ川ができました。このような川は天井川と呼ばれてきました。現在のJR神戸(東海道)線は、複々線になるまで、天井川の川底につくられたトンネルで住吉川を越えていました。

JR芦屋駅南口です。ここから、大正8(1919)年につくられた複々線の線路に沿って歩いていきます。この先にある跨線橋の上を、芦屋川が流れているはずです。

JR芦屋駅南口から5分ぐらいのところの光景です。右前方に、線路を渡る跨線橋が見えました。

白く塗られた跨線橋を越えてさらに進むと、前方左側に芦屋市民会館の建物が見えてきました。道はかなりの傾斜で上って行きます。自動車が走る跨線橋の芦屋橋が見えました。

その先にあったふれあい橋の跨線橋です。これがめざす跨線橋で、この線路部分に、天井川トンネルである芦屋川トンネルがありました。線路の上を芦屋川が流れているはずです。かつての芦屋川トンネルは、アーチ式のトンネルだったそうです。跨線橋の橋桁の奥に、かすかにアーチの名残のようなものが見えていますが・・・。どうなのでしょう?

この跨線橋はふれあい橋と呼ばれていました。跨線橋の中央を、芦屋川が右から左に向かって流れています。芦屋川の向こう側(芦屋川右岸)に芦屋仏教会館の建物が見えました。昭和2(1927)年に、丸紅の初代社長、伊藤長兵衛の出資で完成したそうです。片岡安(やすし)の設計でつくられた洋館ですが、阪神淡路大震災のとき、周辺の洋風建築が倒壊するなか、軽微な被害にとどまったといわれています。震災後、建物を西に2.5m曳いて移動させたそうです。

これは、芦屋川右岸(西側)から見た芦屋仏教会館の正面です。道路から入口まで少し距離があります。もとは道路に面して建てられていたのでしょう。

ふれあい橋の左岸(東側)から、芦屋川の下流方面を撮影しました。中央に、国道2号に架かる業平(なりひら)橋が小さく見えています。

これは、国道2号から見た大阪方面の写真です。業平橋の西詰から東に向かって撮影しました。業平橋は、あの在原業平(ありはらのなりひら)から名付けられたものです。百人一首の「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」で知られる歌人で、業平橋の東側(芦屋川の左岸)の業平町(なりひらちょう)に、かつて、彼の別荘があったといわれています。

業平橋から見た芦屋川の上流方面です。正面に六甲山系の山々が見えます。芦屋川が、手前に向かってかなりの段差で下っています。跨線橋の天井部分が川底になっています。

再度、芦屋川を上流に向けて歩き、ふれあい橋に戻りました。跨線橋の下を走る、神戸、三ノ宮方面からやって来た列車です。

大正橋です。線路の北側で、芦屋川に架かっている橋です。

大正橋から見た芦屋川の上流(北側)です。両岸に遊歩道がつくられている、広々とした川です。

ふれあい橋の北詰にあった松ノ内緑地。正面の石碑には「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし  在原業平朝臣」と刻まれていました。

芦屋川の天井川につくられた芦屋川トンネルが撤去されたのは、大正8(1919)年のことでした。それから、もう97年の月日が経過しています。当時の面影を残すものを見つけるのは困難でした。しかし、跨線橋の上を流れる川に出会うのは、鉄橋の上にある駅を見るよりも、はるかにエキサイティングなことでした。明治初期、天井川をくぐるトンネルをつくりあげた人たちのご苦労に、思いをはせながら歩いた旅でした。