トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

かかしの案内人・・・興除お米フェスティバル

2011年11月16日 | 日記

岡山市の南西部の道路沿い、収穫を終えた田んぼの中に、
遼くんと真央ちゃんの姿を見つけました。
どうやら、興除お米フェスティバルの案内人として、
ここに立っているようです。
 
体形からすぐそれとわかる傑作でした。

「みんなで来られい」は、
一見、武士の言葉のようないかめしい感じに受け取られるかも知れませんが、
「どうぞ、おいでください」という感覚で使われているようです。

ここは、岡山市南区の興除地区。
昭和46(1971)年に岡山市に合併する以前は、児島郡興除村でした。

西畦 曽根 中畦 内尾 東畦の5つの地域に分かれています。
2人のかかしがあったのは、興除地区の西部の曽根でした。

私の少年時代の地理の教科書には、女性が耕耘機を運転している写真が載っていて、
その下に「機械化農村」だと、興除村が紹介されていたのを思い出しました。

他にもかかしがあるだろうと、興除地区を車で走ってみました。
これは中畦で見つけたかかしです。
背景が黄色で目立つので、すぐに見つけることができました。
もんぺをはいた女性と女の子のかかしでした。

”KOJO”の上に描かれたマークは、「興除地区」のシンボルマークです。
「5つの地域の人たちが仲のいいことを笑顔で表している」とのことで、
中学生のアイデアだったと聞いています。

興除地区は、江戸時代から明治時代にかけて、児島湾の干拓によって成立した地域です。
文政2(1819)年、幕府の命を受けた倉敷代官、大草太郎右馬が、
同3(1820)年干拓に着手、同6(1823)年に完成させ、840町歩(5096石)が造成されました。
岡山藩士、小原大之介が「興利除害」(中国の古典「管子」のことば)から、
「興除」と名付けたといわれています。

これも中畦にあるかかしです。
県道岡山・児島線の北側、児島方面に面して立っています。
 
どっしりとした、たくましい大きな姿です。
左の女性は、つなぎをはいています。

これは、東畦にあったかかしです。
 
近くで見ると、ネクタイとポケットチーフをつけスーツを身につけた紳士と
ふくよかな女性の姿でした。 農家のご夫婦なのでしょうか?

干拓が始まってから新しい村ができて、当初は、西村 中村 東村に区分されていました。
文政5(1822)年、西村から曽根が、東村から内尾が分割されて5つの村になりました。
しかし、新開地に「村」を使うのは、幕府に対してはばかりがあるというので、
「美田」を表す「疇」を使い、西疇、中疇、東疇と名付けられたそうです。
これが、現在の興除の5地域にひきつがれているのです。

これは、岡山市藤田地区に向かう道路脇に立っているかかしです。
 
毛糸の帽子をかぶった女性と、袴をはいた男性が案内人をつとめています。

11月20日は、お米フェスティバルです。
メインは、「お米コンテスト」。
重い俵や麻袋を運ぶ「力比べ」だそうですが、
私はかかしコンテストを楽しみにしています。

その案内に立っていたのは、かつて、コンテストで優秀な成績をおさめたかかしたちだったようです。

米どころの興除。
収穫が終わった後のお米フェスティバル、
多くの人が楽しみにしているイベントです。