風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

おお寒い

2011年01月18日 | スピリチュアル
寒い日が続いています。
先日城下町の長府に行きましたら、地面の水たまりは凍っていて、功山寺の湧き水からはつららが垂れていました。
このあたりでつららを見るのは初めてかもしれません。

仏教では、五感が感得し、意識が「在る」と識得するこの世界を実在のものとはしません。
すべての因縁が複雑に織りなす幻想の集積であるということでしょう。
「つららが垂れ下がって、おお寒い」という通常の感覚は、その感覚に閉じ込められればそれはその通りです。
そういう物理的法則からも、因果因縁からも、自由自在に抜け出す境地があるというのが、仏教の立場です。
自由自在に抜け出してどうするのかといえば、「つららが垂れ下がって、おお寒い」なんですが(笑)

前者と後者に違いがあるとすれば、前者は寒さに条件づけられてしまいますが、後者は寒さを楽しみます。
寒さをどうしようもなく避けられない不快な現象としてではなく、あえてその寒いという状況を味わう境地です。

なんだか訳の分からない屁理屈にしか聞こえないかもしれませんね。
要するに、仏教ではこの世を苦に満ちたものとするわけですが、そこをの苦しさ一辺倒から抜け出し、
苦そのものを味わう、さらには楽しんでしまう、という境地でしょうか。

飢え・渇きの苦しみ、失う苦しみ、別れる苦しみ、執着する苦しみ、まぁこの世は苦しみに事欠きません。
苦しければ不満や怒りや苛立ちが蓄積し、それがさらなる苦しみを生み出す連鎖となっていきます。
その連鎖を断ち切ることのできる境涯にたどり着くことを、仏教では「悟る」というのでしょう。

幻想ではないものとはなにか?
そんなものはあるのか?
思うとはなにか?
考えるとはなにか?
自由とはなにか?
人とはなにか?

そういうキリのない問いに、スパリと答えを出せる境涯というのはあるのでしょうか。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 道元禅師