今日もぶあつい雲が終日空を覆っていました。
世の中に生きている限り、いろいろな人と交わっていかざるをえません。
敏感な心の持ち主ならば見知らぬだれそれと交じり合うことは苦痛でしょうが、その交じり合いから恋愛も生まれ、
仕事も生まれます。
心の持ちようによっては、人との交じり合いにこそ宝の山が隠されているともいえないこともないでしょう。
ぼくにとって、交じり合うことが困難な種類の人というのは確かにいます。
ひとつは無神論者です。
無神論に立つということは、己の論理、理性のみを支柱にして生きるという選択をすることです。
ぼくは己の論理やら、理性というものに全く信を寄せることが出来ません。
自分の都合によってそれらはころころと態度を変えるものだということを嫌というほど知っています。
そんなものを信じようとすれば、自分勝手な幻想でしかないかもしれない己の論理性、理性というものに、
自分の人生をコントロールさせることになります。
うまくコントロールしおせればそれでもいいのでしょうが、その論理、理性から逸脱した出来事に遭遇したときに、
避けがたい破綻がきます。
論理、理性というのはその性質上、破綻というのがもっとも避けたい出来事です。
もうひとつの種類の人は、神あるいは救世主を外部に求める人です。
ほとんどの新興宗教というのは、現実に生きている教祖を崇拝します。
他人によって救われる人生というのは、ぼくにはうまく想像がつきません。
それではその救世主に出会わない人は救われないのか?
すべての人間の心に神の王国があるとしたキリスト教、衆生本来仏なりとした仏教とは真逆の教えです。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、その教えはあくまでも一人一人の心の中にある神聖で犯さざるべき尊い光に対する語りかけでした。
自分についてくれば幸せになるなどという悪魔的なことは一言も言っていません。
主人公はどこまでいっても一人ひとりなのだとしつこいくらいに言っています。
無神論者とカルト信者というのは共通項があるのかもしれません。
「正しさ」といういことに対する執着です。
この世はこの世のままで浄土になりうるという心境を決して認めないでしょう。
自分以外の人間は誤謬や迷信に犯されたかわいそうな人間としてみるのでしょう。
ぼくは誰からもかわいそうな人間としてみてもらいたくはありません。
ぼくはぼくを信じます。
それがぼくの信仰の原点です。
世の中に生きている限り、いろいろな人と交わっていかざるをえません。
敏感な心の持ち主ならば見知らぬだれそれと交じり合うことは苦痛でしょうが、その交じり合いから恋愛も生まれ、
仕事も生まれます。
心の持ちようによっては、人との交じり合いにこそ宝の山が隠されているともいえないこともないでしょう。
ぼくにとって、交じり合うことが困難な種類の人というのは確かにいます。
ひとつは無神論者です。
無神論に立つということは、己の論理、理性のみを支柱にして生きるという選択をすることです。
ぼくは己の論理やら、理性というものに全く信を寄せることが出来ません。
自分の都合によってそれらはころころと態度を変えるものだということを嫌というほど知っています。
そんなものを信じようとすれば、自分勝手な幻想でしかないかもしれない己の論理性、理性というものに、
自分の人生をコントロールさせることになります。
うまくコントロールしおせればそれでもいいのでしょうが、その論理、理性から逸脱した出来事に遭遇したときに、
避けがたい破綻がきます。
論理、理性というのはその性質上、破綻というのがもっとも避けたい出来事です。
もうひとつの種類の人は、神あるいは救世主を外部に求める人です。
ほとんどの新興宗教というのは、現実に生きている教祖を崇拝します。
他人によって救われる人生というのは、ぼくにはうまく想像がつきません。
それではその救世主に出会わない人は救われないのか?
すべての人間の心に神の王国があるとしたキリスト教、衆生本来仏なりとした仏教とは真逆の教えです。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、その教えはあくまでも一人一人の心の中にある神聖で犯さざるべき尊い光に対する語りかけでした。
自分についてくれば幸せになるなどという悪魔的なことは一言も言っていません。
主人公はどこまでいっても一人ひとりなのだとしつこいくらいに言っています。
無神論者とカルト信者というのは共通項があるのかもしれません。
「正しさ」といういことに対する執着です。
この世はこの世のままで浄土になりうるという心境を決して認めないでしょう。
自分以外の人間は誤謬や迷信に犯されたかわいそうな人間としてみるのでしょう。
ぼくは誰からもかわいそうな人間としてみてもらいたくはありません。
ぼくはぼくを信じます。
それがぼくの信仰の原点です。