暇な時、パソコンで仕事をする振りをしながら、DVDの映画を見ます。
便利な世の中になりました(笑)
今日はふと「ラストサムライ」を見たくなったので、見ました。
いろいろ注文はあるのですが、まぁ、いい映画です。
まるで日本を世界に宣伝するためのプロモーションヴィデオを、ハリウッドが大金かけて作ってくれたようなものです。
「ラスト~」で思い出したのですが、「ラスト・オブ・モヒカン」という映画もありました。
これまたやっぱり、滅び行くインディアンの生き残りの戦士が、近代的な装備のアメリカ軍と、
壮絶な戦いを繰り広げる映画でした。
現代人は、「勇敢さ」というものに憧れているのだと思います。
一時代前までは、「野蛮さ」「非文明的」「迷信」と「勇敢さ」は、ほぼ同意義でした。
映画の中でのサムライたちや、あるいはインディアンのように、勝てぬと分かりきった戦を仕掛け、
無残に討ち死にするようなことは、「無駄死に」とされました。
「意味のない死」というのは、自己陶酔に過ぎないと侮蔑されました。
生き方を中身を問うことなく、とにかく無駄死には馬鹿げているという風潮がありました。
無条件の「生存」に絶対的価値が置かれ、「死」は何が何でも避けるべきものという感じですか。
で、回復の見込みもない病人が、意識もないのにチューブまみれになり、
「死」を克服しようとする宗教は迷信扱いされ、
どんな極悪人でも死刑はとにかく許されないという言説がはやりました。
要するに、一回の生は一回の生のうちで完結するという思想なのでしょう。
だから、その一回の生にしがみつくしかないということなのです。
その一回の生を自ら捨てるのは馬鹿げているし、他人から殺されるのも、人を殺すのもだからこそ許されない、
ということなのだと思います。
でも、そこでは、その生の内容があまり問われることがないのはどうしてなのでしょうか。
「生きたいように生きる」という、何か分かったような、分からないような雰囲気だけで終わっていることが多いです。
どう生きたいのかなんていうことは、他者に囲まれた社会的生活を送る限り早々分かるものではありません。
分かるものではないから、社会を切り捨て、自分がよければいいということになりがちです。
自分の一回の人生、自分でどうしようといいじゃないかとなるわけです。
で、その反対に、映画の中のサムライ・インディアンは、そんな一回性にこだわりません。
もし生きながらえたらだとか、この人生でよかったかだとかは考えません。
自らの価値基準、「勇敢さ」「忠義」「生き筋」といった、抽象的なものを背負って、その一回の命をあっさり捨てます。
そのような生き方を、ある人は馬鹿げているといいます。
そうかもしれません。
でも、ぼくはどうも「生存」そのものを目的化することは出来ません。
したいことが見つからないのなら、生きる価値を見出せないのなら、死んでもいいと本気で思っています。
もちろん、今の時代に「忠儀」とかいう理念で、命を捨てることは出来ませんし、してはいけません。
ただ、それは馬鹿げているからではなく、「忠義」という理念が今の世の中では益をなさないからです。
人を憧れさせる「勇敢さ」を発揮させることの出来る理念を、見失ったのでしょう。
そういう理念自体が危険なんだという理屈も分からないでもありません。
愛国だの、正義だの、となって、戦争がまた生まれる土壌になるというのです。
そういう面も「理念」という言葉には確かにあります。
集団的に「理念」を使い始めると、特にそういう傾向が生まれます。
あくまでも、ひとりひとりが一人一人の理念を探し当て、勇敢に体現していくということなのでしょう。
「犀の角のように ただ一人 歩め」とは、仏陀の言葉です。
思いつきでだらだら書いたので、うまくまとまりませんでした。
あしからず。
便利な世の中になりました(笑)
今日はふと「ラストサムライ」を見たくなったので、見ました。
いろいろ注文はあるのですが、まぁ、いい映画です。
まるで日本を世界に宣伝するためのプロモーションヴィデオを、ハリウッドが大金かけて作ってくれたようなものです。
「ラスト~」で思い出したのですが、「ラスト・オブ・モヒカン」という映画もありました。
これまたやっぱり、滅び行くインディアンの生き残りの戦士が、近代的な装備のアメリカ軍と、
壮絶な戦いを繰り広げる映画でした。
現代人は、「勇敢さ」というものに憧れているのだと思います。
一時代前までは、「野蛮さ」「非文明的」「迷信」と「勇敢さ」は、ほぼ同意義でした。
映画の中でのサムライたちや、あるいはインディアンのように、勝てぬと分かりきった戦を仕掛け、
無残に討ち死にするようなことは、「無駄死に」とされました。
「意味のない死」というのは、自己陶酔に過ぎないと侮蔑されました。
生き方を中身を問うことなく、とにかく無駄死には馬鹿げているという風潮がありました。
無条件の「生存」に絶対的価値が置かれ、「死」は何が何でも避けるべきものという感じですか。
で、回復の見込みもない病人が、意識もないのにチューブまみれになり、
「死」を克服しようとする宗教は迷信扱いされ、
どんな極悪人でも死刑はとにかく許されないという言説がはやりました。
要するに、一回の生は一回の生のうちで完結するという思想なのでしょう。
だから、その一回の生にしがみつくしかないということなのです。
その一回の生を自ら捨てるのは馬鹿げているし、他人から殺されるのも、人を殺すのもだからこそ許されない、
ということなのだと思います。
でも、そこでは、その生の内容があまり問われることがないのはどうしてなのでしょうか。
「生きたいように生きる」という、何か分かったような、分からないような雰囲気だけで終わっていることが多いです。
どう生きたいのかなんていうことは、他者に囲まれた社会的生活を送る限り早々分かるものではありません。
分かるものではないから、社会を切り捨て、自分がよければいいということになりがちです。
自分の一回の人生、自分でどうしようといいじゃないかとなるわけです。
で、その反対に、映画の中のサムライ・インディアンは、そんな一回性にこだわりません。
もし生きながらえたらだとか、この人生でよかったかだとかは考えません。
自らの価値基準、「勇敢さ」「忠義」「生き筋」といった、抽象的なものを背負って、その一回の命をあっさり捨てます。
そのような生き方を、ある人は馬鹿げているといいます。
そうかもしれません。
でも、ぼくはどうも「生存」そのものを目的化することは出来ません。
したいことが見つからないのなら、生きる価値を見出せないのなら、死んでもいいと本気で思っています。
もちろん、今の時代に「忠儀」とかいう理念で、命を捨てることは出来ませんし、してはいけません。
ただ、それは馬鹿げているからではなく、「忠義」という理念が今の世の中では益をなさないからです。
人を憧れさせる「勇敢さ」を発揮させることの出来る理念を、見失ったのでしょう。
そういう理念自体が危険なんだという理屈も分からないでもありません。
愛国だの、正義だの、となって、戦争がまた生まれる土壌になるというのです。
そういう面も「理念」という言葉には確かにあります。
集団的に「理念」を使い始めると、特にそういう傾向が生まれます。
あくまでも、ひとりひとりが一人一人の理念を探し当て、勇敢に体現していくということなのでしょう。
「犀の角のように ただ一人 歩め」とは、仏陀の言葉です。
思いつきでだらだら書いたので、うまくまとまりませんでした。
あしからず。
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