風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

アメリカⅢ

2005年05月25日 | 旅行
2000年の大晦日はニューヨークにいました。
タイムズスクェア周辺は、カウントダウンを一緒にしようと溢れんばかりの人々が集まっていました。
人ごみで、タイムズスクェアの見えるところまではいけませんでしたが、カウントダウンの瞬間の
歓声やら花火やらはビルの谷間の向こう側から聞くことが出来ました。
その瞬間、みなが抱き合います。
その瞬間だけは、新しい年をいい年にしようと、みなが本気で思います。

アメリカ人というのは、大雑把で傲慢なところがあると同時に、
フェアプレーの精神と基本的に他者を受け入れるおおらかさを持ち合わせています。
日本人みたくおせっかいな親切心はないので、それに慣れた人には不親切と映るかもしれませんが、
各個人がしたいことをしたいようにすることには基本的に干渉しません。
干渉しませんが、自分の主義主張は明確に主張し、他者もそうすべきだと考えます。

いちいち言葉で自他との区別をつけることのない日本社会と、
自他との区別は当たり前だとの前提に立って、構成されるアメリカ社会。
コミュニケーションの形が違って当然ですね。
好みの問題もありますが、一長一短あるわけでして。

黙して語らぬ禅の世界に興味を持つアメリカ人がいることも分かるような気もしますが、
いざ実際の修行に入ったら、その苦痛度は、日本人の感じるそれの比ではないでしょう。
なにしろ、いちいちの行動について質問が許されませんから。
分からないことは、分からないとはっきりさせなければならない教育を受けてきた彼らにとっては、
問答無用の日本式修行のコミュニケーションの意図的な断絶は、なかなか厳しい関門であるはずです。

クリスマスから、大晦日にかけて、アメリカでも人々の心は浮き立ちます。
5番街のショウウィンドウは趣向を競い合い、老若男女、白人も黒人もヒスパニックも、
労働者も資本家も、同じ街を、同じ視線で、微笑を浮かべて歩きます。
過ぎし年を振り返り、来る年を熱い想いで待ち望みます。
どこの国でも、どこの人々も、形に違いはあれ、年の変わり目には同じような思いが交錯するのでしょう。

そんな風景の中で、東海の島国からやってきたぼくは、日本に所属する意味を考え、
日本で生まれ育った意味を考えます。
それぞれの土地の意味について、考えます。
出稼ぎで、今、この厳寒のニューヨークにいるプエルトリコ人には、カリブの島々が彼らの永久の心象風景です。
ぼくにとっての心象風景というものが、いつの間にか、とても影が薄く、存在感のないものになっていたのに
気がつきます。
どこかで、心が追うべきものを取り違えたままになっているのを感じます。
追わなくていいものを追い、追うべきものを見失ったような感覚。
そんな喪失感と浮遊感がありました。

ぼくのなかから「日本」というものを、失いつつあったのですね。

酒を飲んで、おおはしゃぎで歓声を上げる彼らの姿を見て、そんなことを考えました。

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