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年が明けたと思ったら、もう1月も終わりです。
車の運転は年々速度が遅くなりましたが、時の流れは年々加速します。
認めようが、認めなかろうが、自分の今いる状況というのは間違いなく自分が作ったものです。
未来に途方もない期待と夢を膨らませていた若いころとは違って、今は等身大の自分がいます。
膨大な時間を無為に過ごした自分。
膨大な時間をアルコールに費やした自分。
暇さえあれば寝ていた自分。
最悪の等身大が今の自分です。
このまま規定路線で終わるのかという一抹の不安を覚えながらも、それだけじゃないだろ生命の秘蹟は、
と思う自分もいたりします。
で、答えを探しに本屋に行ったりします。
思いはエネルギーだ、おそらく最強最大のエネルギーだというのは、ほぼ確信しつつあります。
人はその人が思ったとおりになるというのは、たぶん本当です。
では、こんなアル中まがいの生活をぼくが本当に思い描いたものなのかということです。
全否定したいところなのですが、半分は本当で半分はごまかしています。
中高生のころ、例に漏れず、芥川龍之介やら石川啄木などの破滅型の文学に嬉々として耽溺した結果、
ずっと破滅的なイメージがぼくの存在を包み込んでいます。
若いときはその世界観が背伸びした格好よさっぽさもあって心地いいものですが、
年を経るにしたがって、自分がその世界観であること自体がひたすらうっとおしいものになって行きます。
うっとおしいと思いながらも、その思い癖はなかなか直りません。
出世したり、金をもうけたりして、それがどうなる?
どうせ死ぬだけだ、とういうおなじみのイメージ展開です。
そこには、「豊かさ」というものに対する大いなる肯定がありません。
豊かになりようがないし、なるわけもありません。
イメージトレーニングやら、成功哲学で変わるような底の浅い話でもありません。
自分の生きているという事実に対する実感の問題です。
実感は、実感です。
誤魔化すことができません。
さて、どうしたものかと、本屋に行きます。
アナスタシアとか、ラムサとか、刺激的で豊かな世界に浸ります。
興奮もしますし、納得もしますし、瞬間的には本気にもなります。
でも、数日たつと、ぼくのきわめて個人的な観念は変化していないのに気がつきます。
依然として、やってもいいけどやらなくてもいい的な中途半端なニヒリズムから脱しません。
こういうパターンをひたすら繰り返して、今まで生きてしまいしました。
さて、どうしましょう。
生命の秘蹟とやらをつかめるのでしょうか。
乞うご期待(笑)。
ちょっと待ってて下さい。
ある試みをしようと思っています。
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