風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

教育

2010年08月31日 | 雑感
ぼくが育った子供の頃の東北では、30度を超える日というのはひと夏に数日程度だったような気がします。
張り切って海水浴に行っても、寒さで唇が紫色になって、ぶるぶる震えるというのが相場でした。
今は九州に住んでいるということもありますが、海に入っても生ぬるいですし、滝に入ってさえ震えるということはありません。
やっとこのごろヒグラシなんかも鳴き始めましたが、30度を越した夕暮れに鳴くヒグラシというのも風情に欠けます。
やはりヒグラシは、急に赤みを帯びはじめた寂しげな夕日に照らされた裏山の林から、ひんやりとした風に乗って聴こえてくるのが筋でしょう。

今日のFMのゲストは商業科の高校の先生でした。
話を聞くにつれ、気持ちが重くなってしまいます。
自分のことを表現できない生徒がどんどん増えているというのです。
他人とのコミュニケーション能力というのは、どんな分野に進もうとも、事の成否を分けるとても大切な能力です。
逆に言えば、取り立てて特別な能力やら技術がなくても、十分なコミュニケーション能力があれば、何とか世間を渡っていけます。

その上、部活をする生徒の割合も3割程度だそうで、あとは放課後にカラオケに行ったり、ゲームをして時間を潰しているのだそうです。
授業の内容もゆとり教育の影響で、以前は中学で教えていたレベルを高校で教えているのだそうです。
授業の内容の低レベル化に加えて、コミュニケーション能力を鍛える場もなく、生徒たちは社会に放り出されていくわけです。

コンピューターの授業も取り入れられているみたいですが、基本操作の技術取得程度だそうです。
今日朝の番組でたまたま見たのですが、日本にあるインド人学校では中学生でエクセルを使いこなしていました。
人間の基礎的能力であるコミュニケーション能力を養成されもせず、コンピューター技能もお飾り程度で、一般教養も推して知るべしで、
商業高校卒業生として期待されるべき即戦力としての能力を身に着けたとはとても言いがたい現状が浮かび上がります。

そんな未熟状態といってもいい生徒たちが今の決してやさしくはない社会に送り込まれるわけです。
これはなんというか、かわいそうという状態を通り越して、残酷です。
ここ数十年、教育の荒廃が叫ばれてきましたが、何一つ改善されていない感じです。
ただ、いじめはよくないだとかなんとかの罰則やら規則やらを生徒たちに一方的に押し付けて、事なかれで済ましています。

教育というのは、もっとも事なかれ主義と対峙するものだと思います。
文系理系に係わらず、問題点を発見し、思考と実験と観察を重ね、改善の道を開くのが教育の道筋なのだと思います。
事なかれ主義が教育現場に蔓延れば、それは教育の窒息です。
現場の先生方は生徒一人ひとりと毎日接しているわけですから、そりゃ精一杯にできることを努力しているはずです。
日々の努力で手一杯なのだろうと思います。
でも、文科省とか、教育委員会とか、一体何をしているのでしょうか。
文科省とかの役人は海外視察なんかにもしょっちゅう行っているはずで、意見を冷静に戦わす訓練を積む欧米の
教育システムも知り尽くしているはずです。
他人の意見を聞くことが自分の意見の構築にもつながり、他者との間でよりよい妥結点を見つけていく民主主義の基礎です。
高校生にもなって、自分の意見を言えないということは、他人の意見を聞き理解する能力も育ちません。
そんな未熟なレベルで卒業させられても、数年もすれば彼らも選挙権を得るわけです。
教育委員会も、現場のさまざまに累積する問題点は理解しているはずです。
頬かむりしたいのなら、教育の現場から去れといいたいです。

それに加えて、親の問題も根深そうです。
学校をはなから信頼しない親が増えているのだそうです。
先生の思いが親に伝わらないのなら、生徒が先生の言葉に耳を傾けることもないでしょう。

なんだか今の日本の縮図を見るようです。
問題点には蓋をし、誰も責任を取らず、正しいと思うことを口にせず、影でこそこそ悪口を言うのが精一杯の抵抗。

ゲストの先生は高校三年間での教育だけの生徒に対する効果のなさを痛感し、今は幼児教育の重要性に思いを向けています。
幼児のうちに伸び伸びとした自己表現をできる喜びを知っておけば、大人になるまでもその能力と喜びは消えないからです。

メディアが低劣な番組を垂れ流し、教育現場は事なかれ主義がまかり通り、親は子供に遠慮してまともな会話をもとうとしない。
こんな状況で、子供たちはどうしたらいいのでしょうか。