風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

帰郷

2007年08月20日 | 雑感
昨日、仙台から帰ってきました。
久しぶりに兄弟たちと揃って、父親に顔を見せに行きました。
すっかりボケが進行していると思っていたのですが、父親は意識もはっきりしており、
皆が集まって好き勝手言っている姿を見て、涙を流して喜んでいました。
先ごろ亡くなった姉の納骨の件で皆が集まったのです。

姉の初盆だというのに、呑気で無神論の長男は何の段取りもしていませんでした。
そこで次男以下は結束して何とかしなければと思い、急遽父親の家に集まったわけです。
長男はいたって気の優しい人なのですが、極度ののんびり屋で、ピントがずれます。
おまけに初盆などというのには何の意味も感じていなさそうです。
それでも、結束の固い次男以下は、墓を移転し、速やかに姉の納骨をし、姉の霊を安心させ、
父親を安心させることを長男に同意させました。

兄弟といっても、同じ境遇にいながら感じたり考えてきたことはそれぞれ全然違います。
一つ一つの出来事から受け取ってきた印象も、みんなそれぞれバラバラです。
当たり前のことですが、皆それぞれ別人格であり、別人格だからこそ協力し合う姿勢が大切だと、
改めて思わせられました。

そして、こうして皆を集め、仙台の墓を移転するかどうかを含め墓の在り方を決めさせ、
父親を安心させ、兄弟たちの疎遠になった仲を修復させ、
皆が仲良く相談してやっていく方向に持って行ったのは、亡くなった姉だと強く感じました。

みなの合意もでき、墓参りも済ませ、ついでに松島や多賀城や塩釜神社にも足を伸ばしました。
多賀城というのは大和王朝の東北における対蝦夷の最前線基地です。
蝦夷というのは大和王朝の支配下に屈しなかった先住民族です。
その多賀城を蝦夷は攻撃、炎上させました。
それに危機感を抱いた中央政府は、坂上田村麻呂を派遣して、蝦夷を討伐しました。
坂上田村麻呂によって、松島の瑞願寺や岩手の毘沙門堂など、仏教の基点も創られました。

塩釜神社は江戸時代までその祭神がはっきりしませんでした。
はっきりしない割には、奥州一ノ宮として高い位を授けられていた不思議な神社です。
それで、伊達家がその祭神をはっきりさせようとしました。
別宮に鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)、左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)、
右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)の御三神をお祀りしてます。
別宮というのは、もともとご祭神は鹽土老翁神でしたが、本宮を関東の香取神社から分祀した武甕槌神と
経津主神に譲り、その脇に別宮の主神として納まったということらしいです。
これも本当のことなのかどうなのか、よく分かりません。

大体において、東北地方の古代の歴史というのはあまり研究が進んでいなかったように思います。
大和に中央政府が置かれていましたから、見るべきものがないとされていたのだろうと思います。
ぼくの父親の父親、つまり祖父の墓がある小さな町には、坂上田村麻呂によって創られたという、
清水寺というのがあります。
それは見事であったろうと思わせられる庭園がありますが、手入れする者もなく荒れに荒れ果てています。
地元の人も、それが由緒ある古い寺であることを知っている人は稀でしょう。
その寺から、山を一つ越えると先述した毘沙門堂があり、二つ越えると藤原氏が栄華を誇った平泉があります。
でも、これらの史跡を一つの線で結び付けて考えている人は地元にもいません。

歴史というのは簡単に埋もれてしまうものなのだなとつくづく思います。