風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

無明

2006年12月27日 | スピリチュアル
昨日は江原啓之の「天国からの手紙」を見ました。
こういう内容をゴールデンタイムに放送するようになったんですね。
事故で死んだにせよ、殺されたにせよ、肉体を離れた魂はこの世に残された身内のことを心配し続けるんですね。
魂だから、生者の取り繕った言葉などは通用せず、家族のあり方そのままがダイレクトに分かってしまうみたいだし。

死んだ人たちの供養というよりも、残された家族のギクシャクした関係が改善されていく様が印象的でした。
というか、残された家族が生きがいを持って前向きに生きることこそが、死んだ者にとっての一番の供養になるというか。

これ数千万人の人が見たのでしょうか。
だとすれば、すごい影響力です。
自分の家族のあり方を反省した人もいるでしょうし、生きる意味を問い直した人もいるでしょう。
インチキだとかやらせだとか思った人もいるのかもしれませんが、最近そういう声はトンと聞こえなくなりました。
自分がどう感じるか、そこに素直になればいいのだと思います。

その話に関係あるかどうか分かりませんが、雑誌「致知」でちょっと斜め読みしたんですが、
進行性のガン患者で治る人というのはガンと闘うことをしない人なんだそうです。
ガンと闘うことを忘れて、如何に生きるかということに集中する人がガンから治るのだそうです。
余命いくらと宣告されれば、誰だって不安になります。
不安に駆られて、ガンに意識を集中してしまうと、ガンは勢力を増すみたいなんです。

で、如何に生きると自分の人生に集中できるのかといういますと、やっぱり「人のため」に動くことみたいです。
自分自身もガン患者なのですが、同室のガン患者にできるだけの手助けをしているうちにガンが消えていたり、
何度も何度もガンに侵され、摘出手術を受けながらも、生きる希望を捨てず、少しでも人のお役に立てばと、
ガンに関する講演活動を続けるうちに、ガンの進行が止まったりするらしいです。

あらゆるお陰で人は生きていると口で言うのは簡単ですが、何かというと慢心するのが得意であるところの人間は、
自力で立っている気になってしまいます。
あらゆるお陰で人は生きているのが摂理ならば、あらゆるお陰に感謝して生きるのが人の摂理なのでしょう。
その感謝を実行に移すのが「人のため」に動くということなのでしょう。

滅多に病気もせず、その上、酒も煙草も止めず、自分の健康な身体に感謝することもないぼくのような人間は、
なかなか人のために動くことができません。
口だけ評論家で終わることが多いです。
あらゆるお陰で生きているということを知っていながら、感謝するということをなおざりにします。
痛い目に会わないと気づかないのを、無明、又の名を間抜けといいます。
痛い目に会わないうちに、感謝できる人間になれることを、賢明といいます。

これだけの出会いがあり、これだけの素敵な言葉に取り囲まれながら、それでも無明でい続けるというのも、無明の底が深いです。

ということで、年の瀬です。
手帳を買いました。
今度は3年間使えるやつです。
3年間、また活用することなく打ち捨てられるのか、それとも素敵な出会いや出来事が書き記されていくのか。
それは、ぼくの思い次第です。
結局は、ぼくに起こることというのは、ぼくが思ったこと以上でも以下でもないんですね。
願わくば、光溢れるぼくがぼくの心の中にあらんことを。