今、高千穂神社の後藤宮司のインタヴューを書き起こしているのですが、
聞いていたとき時感じていたよりも、一言一言がより深く、適切で、詳細です。
人の聞く力って、意外と大したことないのかもしれないなぁ~と思うことしきりです。
自分の興味がそれほどでもない分野に関しては、集中力やら理解度が恐ろしく低下しているのかもしれません。
ぼくは、よく人から「人の話を聞いていない」だの「聞き流している」だのと言われます。
え、何のこと、ちゃんと漏らさず聞いているよと思っていたもんですが、どうやら怪しいものです。
いまさらな話ですが、五感はやはり当てになりません。
日頃の自分の興味の範囲などは、恐ろしく狭いものです。
興味のないところに、五感は働きません。
仏教では、五感に「意識」を加えて、六識と言いますが、意識のあり方も相当わがままで、偏狭です。
そういう偏狭な人間が、「おれは誰々でござい」「私はこう思うのよ」といって威張っているわけですから、相当物騒なわけです。
永平寺の官長さんの本をお借りして読んでいるのですが、さすがにいいことばかりを書いておられます。
人間は煩悩にまみれている。
それを土地に例えてみると、栄養分豊かな、大きな作物の実る土壌だからだ。
栄養分豊かだから、すぐに雑草が生える。
雑草イコール煩悩だ。
大きな作物(=悟り)を得るためには、一生懸命雑草(=煩悩)を抜かなきゃならん。
そんなことを書いていました。
五感を無造作に使うと、たちまち心の中に雑草が生えます。
欲しい、飲みたい、食べたい、抱きたい、エトセトラ、エトセトラ。
雑草を一生懸命に抜いて、心を鏡のように磨き上げて行きますと、すべてがありのままで仏性である「ありのまま」が心に映る。
それを悟りということであるらしいです。
そうは言っても、それでも五感で感じ、意識で判断するわけですが、恐ろしく頼りなくいい加減なものであることを自覚してないと、
なかなか危険だということですね。
聞いていたとき時感じていたよりも、一言一言がより深く、適切で、詳細です。
人の聞く力って、意外と大したことないのかもしれないなぁ~と思うことしきりです。
自分の興味がそれほどでもない分野に関しては、集中力やら理解度が恐ろしく低下しているのかもしれません。
ぼくは、よく人から「人の話を聞いていない」だの「聞き流している」だのと言われます。
え、何のこと、ちゃんと漏らさず聞いているよと思っていたもんですが、どうやら怪しいものです。
いまさらな話ですが、五感はやはり当てになりません。
日頃の自分の興味の範囲などは、恐ろしく狭いものです。
興味のないところに、五感は働きません。
仏教では、五感に「意識」を加えて、六識と言いますが、意識のあり方も相当わがままで、偏狭です。
そういう偏狭な人間が、「おれは誰々でござい」「私はこう思うのよ」といって威張っているわけですから、相当物騒なわけです。
永平寺の官長さんの本をお借りして読んでいるのですが、さすがにいいことばかりを書いておられます。
人間は煩悩にまみれている。
それを土地に例えてみると、栄養分豊かな、大きな作物の実る土壌だからだ。
栄養分豊かだから、すぐに雑草が生える。
雑草イコール煩悩だ。
大きな作物(=悟り)を得るためには、一生懸命雑草(=煩悩)を抜かなきゃならん。
そんなことを書いていました。
五感を無造作に使うと、たちまち心の中に雑草が生えます。
欲しい、飲みたい、食べたい、抱きたい、エトセトラ、エトセトラ。
雑草を一生懸命に抜いて、心を鏡のように磨き上げて行きますと、すべてがありのままで仏性である「ありのまま」が心に映る。
それを悟りということであるらしいです。
そうは言っても、それでも五感で感じ、意識で判断するわけですが、恐ろしく頼りなくいい加減なものであることを自覚してないと、
なかなか危険だということですね。