風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

硫黄島からの手紙

2006年12月15日 | 雑感
昨日張り切って映画館に向かい、映画館の下にあるスーパーで水割りと柿ピーを持ってレジまで行き、
財布を見たら130円しか入っていませんでした。
キャッシュカードもクレジットカードも持っていなかったので、やむなくまた自転車をこいで店に戻って、しばし呆然。
どうしようかと思いましたが、ここで挫けてはならじと、お金を用意してコンビニで水割りと柿ピー買って、最終の回を見ました。

日本軍の立てこもった洞窟の中での話が主体のため、重苦しい主題がいよいよ重苦しくなっていました。
その重苦しさ事態が主題なんだけども。

でも、先の大戦の日本軍のことをここまでリアルに描いた映画って初めてです。
特に日本映画の場合、やたら感傷的になるか、活劇になるか、イデオロギッシュになるかでしたから。
いろいろ資料を読むと、史実の方が映画よりドラマチックあるらしいんですが。

http://ime.nu/diablo.web.infoseek.co.jp/movie/aoyamanaku061213.wmv


は評論家の青山氏が、硫黄島に現地取材をして感じたことをレポートした映像です。
ご興味のある方はどうぞ。

硫黄島は硫黄ガスが噴出しているだけあって、火山島で地熱が凄いみたいです。
そんなところの穴倉にこもって、水も食料もないまま日本軍は圧倒的物量を誇る米軍と戦いました。
硫黄島が奪取されると、米軍の日本本土空襲の爆撃機の拠点となるから、必死に防衛する必要があったのです。
防衛している間に、日米の和平が結ばれて、日本本土に災禍が及ばないことを願って、必死に戦いました。
そういう願いも虚しく、軍司令部は和平工作もせず、無謀な本土決戦を叫んで、その結果広島・長崎の原爆投下という最悪の結果を招きました。

青山氏が珍しく感情的になって主張することに、ぼくは同意します。
大切なのは、数多くの人間が殺し殺された戦争の教訓を生かして、「今」我々がなにを考え、なにをするべきかということです。
どこの国の兵士たちも、もともとは大工であったり、教師であったり、パン屋であったりしたわけです。
軍国主義が悪いだの、天皇制がうんたらかんたらなどという大上段の話で括ることこそ非常に危険です。
まずは当時の兵隊たちがなにを考え、どういう行動を取ったかを淡々と描こうとするこういう映画こそ、
二度と戦争を起こさぬ気持ちにさせます。
淡々と人が殺し殺され死んでいくシーンというのは、それ以上の非人道的なシーンというのはないわけです。
余計なイデオロギーや感傷やプロパガンダはいりません。

一人一人の人間が背負った生きるという価値は、彼らが淡々と殺されれば殺されるほど、無言のうちに浮き上がってきます。
見ているほうが辛くなるほど、一人一人の生きている価値が胸に迫ってきます。

この映画、アメリカでもいろいろ賞をもらっているみたいですが、ひょっとするとアカデミー賞取るのかもしれません。
見た人はすべからくリアリティのある嫌戦家になるでしょう。
感傷的な、平和愛好者みたいな人たちって、ぼくから見るととても好戦的な人たちのように思えてなりませんでした。
平和を希求し、作り上げていくためにはとても根気強いリアリストでいる必要があります。
リアリティのない平和主義は独善性と排他性を帯びます。
独善性と排他性こそが戦争の源でもあります。

戦争映画において、この硫黄島二部作ほど独善的でない映画はいまだかつて作られてこなかったように思います。
「プライベート・オブ・ライアン」もリアリティを追求してはいましたが、まだヒロイックなところがありました。

それにしても、渡辺嫌です。
なんでも、クリント・イーストウッドは「父親たちの星条旗」一本だけを作ろうと思っていたそうなんです。
その話を聞きつけた渡辺謙がどうしても自分も出演させてくれと頼み込んだのだそうです。
イーストウッドは「日本人が出る映画ではないから」と一反は断りました。
その後イーストウッドは考え、どうせなら日本人側から見た硫黄島の映画も作ろうと思いつきました。
そんなこんなで、「硫黄島からの手紙」を作ることとなったのだそうです。
渡辺謙は大いに喜び、英文の資料も含めて読み漁り、栗林中将の親族にも会って話を聞いたりして、
映画作りのアイデアを次々と進言したらしいです。
そのアイデアをイーストウッドはほとんど取り上げたらしいです。

いってみれば、渡辺謙がいなければ、「硫黄島からの手紙」は製作されていなかったんですね。
「ラスト・サムライ」といい、これといい、どんな反日プロパガンダも吹き飛ばすような功績を渡辺謙はしているわけです。
もちろん、渡辺謙にそんな政治的意図があるとは到底思われませんが。
政治的意図で動く人物というのは、ぼくは信用しません。
ま、なにはともあれ、ある意味での快挙です。