goo blog サービス終了のお知らせ 

風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

冬の終わり

2008年03月05日 | 
朝方になると山に靄がかかるようになった冬の終わり、
太平洋が見たくなって電車に乗った。

電車を降りて、灰色の集落を抜けると、あいかわらずの海が広がっていた。
なにも考えてないくせに、何かを見透かしているような顔をするいつもの海だ。

縮れた海草やプラスチックや発泡スチロールで覆われた砂浜には、
人影もなく海鳥の鳴き声もない。

冷たい風が遥か沖合いから吹き寄せる。
ここに来るまでのどこかで何か気の利いた出来事に出会ったかのような波の音。

海の底では海の底で行われるべきことが行われたのだろう。
ハワイはいつものハワイであり続けているのだろう。

それにしたって、ここは死んだような集落を抜けたところの汚い浜辺だ。
ここにおれが立っているのは、なにかの出来事なのだろうかとふと思う。

灰色の空の下で灰色の海を見ながら、
自分がちっぽけな存在であるなんてことはおれは考えない。

おれの意志は空も海も薄汚い集落さえも呑み込んでやろうと意気込んでいる。
でも、いざここに立っていると、その気がすっかり失せているのに気がつく。

風が強すぎるし、そのうえ冷たすぎるのだ。
おれの意志が求めた初春の海の顔はどこにもありはしない。

こういうときにはどこかに薄汚れた飲み屋でもあればいいはずなのだが、
死んだ集落には飲み屋さえない。

おれは腐臭のする砂浜を物憂げに歩いてみたりする。
その実、なにひとつ物憂げな気分ではなかったりするのだが。

こういう空虚な出来事をおれは重ねてきたのだろう。
おれの出来事とこの浜辺の出来事は見事に一致しているのだろう。

吹くなら吹け、冷たい風よ。
そのうち恥ずかしげもなく金色に輝く太平洋に会いに来てやる。



銀河

2007年12月08日 | 
風呂の水が溢れるように感情が溢れだしたなら
手を水の中につっこんで栓を抜けばいいのだよ
感情は生きている証だからとても大切なものだけれども
心に溜め込んでおく必要はないのだよ

すっかり水を抜いてしまって空っぽになった心のなかを覗いてごらん
青い空間の中を無数のティンカーベルが虹色の光を点滅しながら飛んでいる
心の中は宇宙空間よりも広く深いんだ
よくもまぁ下らない色付き水で埋め尽くしたもんだ

空っぽになった心の中の空間をティンカーベルと一緒に飛んでごらん
無数の星々の瞬きが見えてくる
その光に近づいてごらん
その一つ一つの光が銀河であり、恒星であり、惑星であることが分るだろう

そう、君は大宇宙を自由に飛んでいるんだ
ほら、ティンカーベルが笑っただろう?
そんなことも知らなかった君のことが可笑しくてたまらないんだ
はじめから君は大宇宙の冒険者だったわけさ

君はこれからどこへ行くのも自由だ
どれだけワクワクしても代償は取られないから大丈夫
さっき栓を抜いて流した感情はどこへ行ったのかって?
そら、君の前に見えてきた不思議な色をした惑星に見覚えはないかい?




日々

2007年12月07日 | 
石畳が夕日に染まり、あちこちの教会の鐘が一斉に打ち鳴らされる。
ゴーン、キーン、カーンと乾いた音が茜色の空に響き渡り、鳩たちが用もないのに飛び立つ。
農夫は鍬を納屋にしまい、事務員は帳簿を書棚にきちんと並べ、雑貨屋の親父は表に出していたリンゴの木箱を店の中に入れる。
夕暮れは誰の心にも懐かしい灯がともる。

女たちはそばで走り回る子供たちを叱りながら、シチューの鍋をかき回している。
あれほどあったすべてに対する不平不満が消えている。
ジャガイモとニンジンがたくさん入ったシチューをゆっくりゆっくりとかき回す。
過去や未来がこの一瞬に溶けていく。

村にただ一軒の食堂にも灯がともる。
炭鉱で働く流れ者やら、一人身の老人やら、やもめやらが集まってくる。
ほっぺの赤い若い女給は遠くはなれた故郷を思いながら、客の注文を聞く。
店主や女将は女給に愛想がないと裏の台所でひそひそ悪口を言う。

女たちは帰ってきた旦那の顔を見るなり、忘れていた不平不満を思い出す。
ワインが進むほどに、誰もが口が軽くなる。
噂話に花が咲き、別れ話に毒が咲く。
ワインが一瓶空くころには、お互いが無口になり、明日のあれやこれやが気にかかりだす。

食堂は大声で歌うもの、喧嘩をするもの、不機嫌に黙り込むもの、それぞれの色に染まる。
店主は委細かまわず空いた皿を下げ、女将は客に酒を勧める。
若い女給は皿を洗いながら故郷で飼っていた犬のことを思い出している。
若い男が頭をよく見せようと聞こえよがしに冗談を言うのだが、彼女の耳には届かない。

やがて夜の喧騒も冷めていく。
子供はベットにもぐりこみ、男は暖炉の火を見つめ、女は皿を洗う。
店主はかまどの火を消し、女将は売り上げを計算し、女給は床を拭く。
銀色の月が街を青白く照らし、教会の尖塔がぬらりと光る。




友達

2007年11月21日 | 
古い友達をふと思い出し、手紙を書いていた。
とどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
火がついたように泣いている。
赤ん坊の泣き声には親でなくても胸騒ぎすることを、親になって初めて知った。

古い友達は女の子ばかりを4人授かった。
何年前にか故郷で飲んだとき、農家の長男であった彼は寂しい笑みを浮かべてそう言った。
おれは彼の年上の快活な嫁さんの顔を思い浮かべた。
彼の家に下宿していた彼女と、彼はあれよという間に結婚した。

毎日彼と一緒に下校した。
川を渡り、公園を抜け、繁華街をぶらぶらした後、入場券を買って彼の乗る下りの列車に一緒に乗り込んだりもした。
途中で下車して、タイミングよく来る上りの列車で元の駅まで戻った。
受験が近づいてきて、周囲は独特の雰囲気に飲み込まれていたが、おれは彼といるのが好きだった。

彼は足が速く誰からも好かれる優しい男だった。
嫌がる彼を無理やり連れて東京や秋田や青森まで無賃旅行をしたことがある。
もう少し東京で遊んでいくとおれは東京に残り、彼は上野から列車に乗った。
入場券しか持たない彼は、隠れていた列車のトイレから出てくるところを車掌に捕まり、親に叱られた。

春が近づくにつれ、おれの心は東京に行くことで頭が一杯になっていった。
とにかく家から逃げ出すことで心が躍った。
彼は大学を受験せず、故郷のコンピューターの専門学校に行った。
彼が大学に行かなかったことを悔やんでいるのを知ったのは、ずっと後のことだった。

東京で荒れた生活をしていたおれはいつしか彼の存在を忘れかけ始めていた。
そのまま行き場を失い、路上で途方にくれていた。
何年ぶりかで故郷に墓参りに帰り、彼と会って飲んだ。
以前のままの訛と冗談と笑顔であった。

今では彼からは遠いところにおれはいる。
電話をかけることもない。
今年も、来年も、再来年も会うことはないかもしれない。
でもおれはいつまでも変わらない彼の顔を知っているから、寂しくも悲しくもない。






沈黙

2007年10月20日 | 
目が覚めるとカーテンが青白く揺れていた。
女は立ち上がって身支度をしていた。
かける言葉もなく毛布にもぐりこんだ。

何度も繰り返す駆け引きと口喧嘩と芝居がかった別れ。
さよならも言わずに出て行く女と閉まるドア。
こういうのは慣れることはない。

罠にかけられたのはおれだったはずが、いつの間にか裏切り者になってしまう。
立場が逆転する瞬間というのがある。
おれが思っていることをそのまま言ってしまった時だ。

目がさえて立ち上がり、カーテンを開けて外を見る。
夜明け前の青い歩道を女は足早に去っていく。
もう会うこともないその後姿は、おれの何か大切なものをも道連れにしているはずだ。

わかっているのだが、おれには女の視点というのが欠けている。
いつだって自分の都合で頭を埋め、スケジュールを埋める。
自分の都合だけで動く男を女は憎む。

女と共同でどうやって頭とスケジュールを埋められるのか、いまだにわからない。
おれはタイ料理店や温泉の隠れ宿や沖縄なんかには行きたくないのだ。
精神世界やアロマテラピーや昨日飲んだワインの話など聞きたくもないのだ。

おれはマックス・ピカートの「沈黙について」という本に心酔している。
豊潤な沈黙、すべてを生み出す源であり、すべてがそこへ回帰する沈黙。
女は決して沈黙の深さ、豊潤さ、ピュアさ、可能性を理解しない。

おれは語れば嘘つきになる。
だから語らない。
だが女はおれに嘘つきになれという。

日が昇り始め、金色の光がベットにさしこむ。
女はいつだっておれに粗いヤスリをゴシゴシかけては去っていく。
磨かれて光るのか、それとも、傷だらけになって、血だるまになるんだろうか。

とにかく、いまは語ることはないし、裏切り者はおれだ、ということでもいい。
ただ、女の残した太い憎しみが心に突き刺さったままだ。
沈黙に回帰するには時間がかかりそうだ。


*当然ながら、これはフィクションですから(笑)




2007年10月19日 | 
星座の名前も、草花の名前も、魚の名前も、人の名前も憶えられない。
憶えているのは辺りに漂っていた空気の匂い。

春めいてきたころの土の匂い。
夏の青い森から来る風の匂い。
秋の湿った枯葉の匂い。
冬の雪の溶ける匂い。

誰かがそこにいて、何かがそこにあった。
でも、心にはその辺りに漂っていた空気の匂いばかりが残っている。

星の匂いさえ憶えている。
金星の暖炉の匂い、北極星のレモングラスの匂い。

アメリカはトウモロコシ畑の匂い。
ドイツは掘り返した黒土の匂い。
イタリアは太陽に温められた赤レンガの匂い。
イギリスは大理石から蒸発する雨の匂い。

だからぼくは写真を撮らない。
誰かや何かが写っているだけだからだ。

時々、今いるここの匂いがたまらなく飽き飽きしてしまう。
どこか遠くの違う匂いをかぎたくなる。

ツンドラの凍えた大地の匂いを。
風吹きすさぶアイルランドの孤島の匂いを。
キリマンジャロの万年雪の匂いを。
サハラ砂漠の砂嵐の匂いを。

その土地に吹く風を深々と吸い込むとき、ぼくはすべてを了解する。
語るべきことなど初めから最後までなかったのだ。
すべては風に含まれているのだから。





アトランティック・シティ

2007年07月22日 | 
一面銀色に光る光る大西洋に面した黄色いベンチに、
ラクダ色のウールのコートの襟を立て、グレーの帽子を被った老人が坐っていた。
ウミネコたちが浜辺で戯れているのを目を細めて見ていた。
風は穏やかで、波の音に混じってウミネコの甲高い声だけが聞こえる。

ウミネコは海中に突っ込み、ハマグリの5,6倍ほどの大きさのある貝をくわえると、
充分な高さまで飛び上がり、くわえた貝を砂浜に落とした。
落として割れた貝の中身を食うためだ。
貝は海中に豊富にいるらしく、仲間の落とした貝を横取りして食うウミネコの姿はない。

老人はそんな光景を目にしながら、頭の中には遠い記憶ばかりがくるくると回っていた。
老人というのはそういうものだ。
記憶は遠ければ遠いほどその輝きを増してくる。
誰かに見守られていたような、一人一人の表情がクローズアップされるような、そんな記憶。

子供たちは家をとっくに出て行き、孫たちの顔を見たのも六年前のクリスマスが最後だった。
膝を痛めている妻と、ニューヨークからバスに乗ってアトランティク・シティにやってきた。
2日ががかりで、ポーカーで400ドルすり、ルーレットで200ドルすり、スロットマシーンで250ドル取り戻した。
妻は膝が痛いと、ずっとホテルの部屋でソファに寝そべりテレビで映画を見ていた。

もう20年も前に禁煙をしたが、深夜寝付くことが出来ずに階下に降りてしたスロットマシーンが好調だったので、
バニーガールにカクテルを頼むついでにマルボロを一箱買ってしまった。
内ポケットから取り出し、マッチで火をつけて煙を深々と吸った。
吐き出した煙が海風にかき消され、沖合い遥かに貨物船がかすんでいる。

そろそろ妻を誘い、ホテル最上階のレストランでソフトシェルクラブと白ワインのランチを取ろう。
妻はまだお腹が空かないだとか、中華料理がいいだとか言い出すにに違いない。
私は軽く笑って受け流し、彼女の腕を取って海の見える席まで優しくエスコートしてやろう。
彼女の不機嫌な顔に向って思い切り陽気なジョークを言おう。

今では分かる。
人の肉体は借り物だったのだ。
この世界さえ借り物の舞台だった。
老いた不健康な妻の肉体の奥にある老いることのない光に向ってジョークを言うんだ。

老人は煙草を消し、吸殻を煙草の箱の中に戻した。
立ち上がり、もう一度海を見、ウミネコのじゃれあう鳴き声を聞き、塩の匂いを吸い込んだ。
ふと子供のころ炭鉱に父親を迎えに行き、一緒に手を繋いで家まで帰るときに感じた懐かしさが心に蘇った。
微笑を浮かべ、老人は妻の待つ部屋へと向った。





無題

2007年07月21日 | 
耳を澄まそう
テレビやラジオや人々のおしゃべりにではなく
自分の心に耳を澄まそう

いくら耳を澄ましても
なにも聴こえないと諦めてはいけない
その声はとてもとても小さいのだ
大きい声を出して人の心を悩ますのが嫌だから
聴く気になった人にしか聞こえない声だから

小春日和に森の中で枯葉がかさりと動いたくらいの音だから
注意深く優しい心で聴かなければならない

最初のかさりが聴こえたら
かさりかさりが青い透明なメーッセージを
あなたに伝え続けているのが分かる

たった一つのメッセージだ
それを繰り返し繰り返しあなたの心はあなたに伝え続けているのだ

言葉にならない言葉があることをあなたは知る
それは色であり温度であり匂いであり肌触りだ
慈しみであり勇気でありユーモアだ
空であり雲であり風であり草原だ



一日の終わり

2007年01月24日 | 
納屋の白い土壁にもたれ 落ちる夕日を見ていた
もうふた月と十七日、誰とも口をきいていない
ようやく俺の手から干し肉を食べるようになった野良犬も
このところ姿を見せなくなった
お相手を探して 旅にでも出たのだろう

もうまもなくジャガイモの花が咲く
薄紫色の花が一面に咲く
そのときおれは 庭先にテーブルを出して
とっておきの赤葡萄酒を飲もう
去年の暮れにこしらえた 羊のチーズも食べごろだ

見る見るうちに真っ赤に染まる空を眺めているうちに 俺はふと思い出す
八歳の夏休み、父親に買ってもらった緑色の自転車
俺は町のあちこちを 風を切って走り回った
表通りや裏通りで 人々の笑顔やら泣き顔やらを たくさん見てきた
そんなこんなも どこへやら流れて消えた

今は土壁にもたれて ブーツの先にこびりついた泥を見ている
深呼吸とも 溜息ともつかない息を 大きく吐き出す
俺の真正面には息苦しいほどに燃えさかる日輪
祈りの言葉さえ思いつかない
目を細めて 大地に溶けていくのを 見ている




風吹く草原

2007年01月20日 | 
追いかけるのをやめて、振り返ったら、そこに立っていた
悲しいのか、嬉しいのか、分からない顔をして、そこに立っていた

ぼくは長いこと追いかけてきたんだぞと叫ぼうと思ったが、声が出なかった
じっとぼくの顔を見ていた見ていた彼女の頬が少しだけ緩んだように思えた

どのくらいそこに立っていたのだろう、日が陰り風が吹き始めた
彼女はくるりと背を向け、歩き始めた

遠ざかる彼女の背中を見ながら、追いかけてはいけないと自分に言い聞かせた
彼女の背中は、青白いたそがれの中に吸い込まれていった

ぼくは周りを見回した
灰色の草原がどこまでも広がっているばかりだ

どこに向って歩いていけばいいのか、途方にくれた
空には黒い雲が流れ始めていた

夢なら醒めればいいと思いながら、ぼくはそこにじっと立っていた
風の音が聞こえるばかりだ

どこからどこへ向って歩いていたのかさえ、もう思い出せない
草原の中にぽつんと立っていた

まもなく日も暮れる
ぼくも夜の闇に吸い込まれていくのだろう

2006年03月25日 | 
黒い街の上にレモン色の月が音もなく昇り、欅の木立が風に揺れた。
遠ざかるサイレンに、遠くの犬が吠え立てている。
何かを言おうとした者も、口ごもって黙り込む。
そんな夜。

足音を潜めて路地をうろつく野良猫は、胸騒ぎを感じて耳を立てて辺りを見回す。
うなだれた勤め人たちは、コートの襟を立て、帰り道の先を急ぐ。
生まれたての赤ん坊さえ、虚空の中に何かを感じて泣き始める。
冬が終わったというのに、春はまだ来ていないのだ。

こんな夜には夢を見ることさえできはしない。
もぐりこんだ布団が徐々に温まるのを待つだけだ。
生きている実感もないくせに、孤独を感じる情もない。
先刻ふと見上げた月の色だけが、妙に冴え冴えと頭の中に残るだけ。

月はのっぺり地上を照らす。
ありとあらゆる精霊たちが息を潜める。
黒い街はますます黒ずみ、時折吹く風に木立も無表情に揺れる。
我慢しきれなくなった誰かの叫びも、喉から出る前に掻き消える。

何時間が経てば、月は沈んで日が昇る。
精霊たちも息を吹き返す。
赤ん坊も機嫌を直し、おっぱいを欲しがりぐずりだす。
でも、今はまだレモン色の月が天空にぽっかり浮かんでいる。






2005年11月17日 | 
許すことができなくて、聡子は死んだ。
愛されることができなくて、達男は死んだ。

二人は一つの墓に入り、風雨に晒された。
盆暮れに参る人も年々少なくなり、ついには訪れる人も絶えた。

油蝉が鳴き騒ぐころ、二人の墓石は、無縁仏の墓石が積み上げられた墓地の一角に運ばれた。
その苔むした石積みの前で、お地蔵様が静かに微笑んでいた。

無縁墓にも、日が照り、日が翳り、夕暮れになり、夜が訪れた。
お地蔵様の足もとの、抜いても抜いても生えてくるタンポポの葉に、夜露が宿った。

朝日が昇り、てんとう虫が夜露をなめた。
タンポポの葉が、かすかに揺れた。

月日は流れ、お地蔵様も苔むした。
聡子と達男の墓も苔むした。

そうしてさらに月日は流れた。
かつての墓地は雑草に覆われた荒地になった。

人々の想いや願いが陽炎のようにその場に揺らめき、
草むらの中で息を潜めていた。

いつしか大地は割れ、
かつての墓地も海の底に沈んだ。

すべての記憶が泡となって、
ぷくぷくと陽光煌く海面へと昇っていった。















白駒池

2005年11月07日 | 
木漏れ日眩しい白樺の林を抜け、苔むす古い杉の林を抜け、しんと静まり返った湿地を抜け視界が開けると、突然湖が現れる。
晩秋の風が湖面を銀色に波立たせている。
空には鉛色の雲が速い速度で流れ、今にも雪が降ってきそうな気配。
湖畔の朽ちかけた木のベンチに腰を下ろし、リュックからガスバーナーとコッヘルを取り出し湯を沸かす。
耳を澄ますと、時折吹く風に、梢に残った枯葉がかさかさ鳴る。

湯が沸き、カップにコーヒーの粉を入れ、湯を注ぐ。
冷え切った両手にカップの温もりが心地よい。
背中を伝っていた汗が急速に冷えていくのを感じながら、コーヒーをすする。

ここに来るのは何度目だろう。
来るたびに違う表情があり、違う感触がある。
ぼくの表情も心模様も、来るたびに違っているに違いない。
言葉の通じぬ同士、互いに風に吹かれている。
いつかぼくにも分かる言葉が風に乗って流れてくることを待っている。

言葉が流れてこないので、ぼくはあちこちに目を凝らす。
見落としがないようにと、目をさまよわせる。
葉をすっかり落としてしまった湖畔の黒い木々。
水辺に打ち寄せられた白々とした流木。
濁流のように流れる厚い雲。

圧倒的に意味を含んでいながら、ぼくにはその意味が分からない。
もどかしいままに、ぼくの体は冷え切っていく。

ぼくはコーヒーをもう一杯飲もうかどうかを迷う。
目的地はまだ遠い。
あと二山越えなければならない。
風が時折強く吹く。
枝と枝が擦りあう音がする。

今度もまた言葉を聞き損ねた。

と、ぼくは突然気がつく。
言葉を聞こうとしているだけで、ぼくからは何の言葉も発していないことに。

ぼくは湖面を、木々を、空を、ぼくが見ているつもりだった。
でも、ぼくが湖から、木々から、空から見られていたのだ。

ぼくは苦笑いをして、立ち上がり、リュックにガスバーナーとコッヘルとカップを仕舞う。
最後にもう一度、湖面を見る。
音も立てず銀色に波立たせていた。












別れ

2005年10月28日 | 
明け方、彼女はトンネルを抜けて吹雪の中に消えて行きました。
出発を伸ばすがよかろうと何度言っても、首を振って、彼女は去って行きました。
駅のホームに立つ彼女の横顔は、深い海の底にいました。
 
雪がそこらじゅうに舞っていました。
音のない白い世界で、彼女は遠い過去に耳を澄ませていました。
茶色い線路にも、枕木にも、ホームの黄色い線にも、雪が降り積もりました。

遠いところで、汽車のボゥッーという音がくぐもって聞こえました。
彼女はぶるっと身を震わせ、はじめて私の顔を見ました。
私を見る彼女の目は、冷たい海の底にいました。

たまらず私は目を逸らせました。
彼女を行かせてはならない気がしましたが、引き止めるすべを知りませんでした。
彼女の細い肩にも雪が降り積もりました。

やがて雪まみれの列車がホームにガタゴトと入ってきました。
肩をすくめて人々が列車を降り、肩をすくめて人々が列車に乗り込みました。
彼女はドアのところで私を振り返り、少しだけ唇を動かしました。

「えっ?」と私は聞き返しました。
彼女はただ少しだけ首を振りました。
私は阿呆みたいに口を空けたまま彼女の顔を見つめていました。

ベルが鳴り、ドアが閉じられました。
列車が動き出すと、曇ったガラス戸の向こうで、彼女の姿が揺れ始めます。
私は取り返しのつかないことをしているのだと悟りました。

列車がトンネルに吸い込まれ、かすかな線路の音も聞こえなくなり、辺りは白い沈黙に覆われました。
私は、私であることに耐え切れなくなっていました。
真っ黒の炭のような私に、次から次と雪が降りかかってきました。





無重力

2005年09月05日 | 
台風直撃しそうですね。
自然界が地球の浄化を始めているように思えるんですが、どうなんでしょう。
ここ一月くらいの間に、ヨーロッパ、アジア、アメリカで洪水が続いています。
地球を汚しまくっているのは人間なわけで、人間の一員であるぼくは自分の無力さを感じるだけです。
明後日、滝に行こうと思っています。
台風後の、怒涛のような滝に打たれ、何かを感じてこようかと思っています。

で、何かを書く気になれないので、詩です。


歩き疲れて見上げると、ちぎれ雲が秋の風に流れている。
あたりにはススキが揺れ、虫の音が聞こえる。
知らない道を、誰にも会わず、ここまで来た。
遠く、道の向こうには青くかすんだ山稜。

そこが目的地なのだと、木漏れ日みたいな喜びが胸に広がる。
そこへ何をしに行くのかは忘れてしまった。
ここから先は、誰に会うということもない。
知らない道をただ歩いていけばいい。

しだいに日も暮れ、尾根の向こうの空が茜色に染まる。
いよいよ虫も鳴きつのる。
風もいつしか冷たくなり、長袖のネルシャツがあればなぁと、ふと思う。
水筒も、サンドイッチも、何一つ持ち物はない。

どこから来て、どこへ向かっていたのかも思い出せなくなる。
山並みが、黒々と目の前に迫る。
あそこへたどり着く前に、深い森を抜けていくのだろう。
深い森の中で、私は私という殻を、脱ぎ捨てる。

私から、ぱさりと落ちた私という殻は、森の中の動物やら昆虫やらが食べつくす。
そこで、重力から解放された殻なしの私は、森の中の松脂のにおいのする闇の中を全速力で飛び抜ける。
調子に乗った私は、ごつごつした青黒い山肌をかすめ上り、星空へ飛び立つ。
懐かしさで胸を一杯にしながら、私は速度を上げる。