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TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その122の1 『名古屋城 PartⅡ』

2012年02月01日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
約一ヵ月ぶりのブログアップになってしまいました。
白内障の手術は左右とも無事終了し、経過も順調です。
術後は下の写真のようでしたが、手術の翌日に眼帯?を外すと世界が一変しました。

トッポパパはもともと目が良い方で、普段はメガネの必要はありませんでしたが、白内障が進行して視力も右0.2-3、左0.7まで悪くなりました。
夜の車の運転時に対向車のライトが眩しいのと、標識が認識しにくくなったので、手術に踏み切りました。

手術後は、世界が3倍ぐらい明るくなり、コントラストもはっきりして、視力は両目とも1.2まで回復しました。
術後は無理しないで医者の言うとおり目の安静に心がけ、外出もできるだけ控えたので、ブログともご無沙汰してしまいました。

多くの方から、手術の結果が良くなかったのか? 突然の長期のブログアップ無しのため、死んだのか?(白内障で死んだ人はいないと思うけど)など、ちょっとお騒がせしたようです。

トッポパパ元気ですので、ご安心ください。
これからまた、のんびりブログのアップをしていきます。



トッポパパ今年最初の出張先は名古屋でした。



2007年にも紹介しましたが、時間が少しありましたので、その後の名古屋城へ寄ってみました。



名古屋開府400年祭マスコットキャラクター『はち丸』君です。



現在は、名古屋市のマスコットキャラクターとして、名古屋城を拠点に、活動しているようです。
トッポパパも記念に写真を撮ってもらいました。



名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城です。



江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴る高台に誕生した名古屋城です。



名古屋城のオフィシャル・ウェブサイの情報です。
『関ヶ原合戦の後、当時の尾張国清須城主(24万石)の福島正則は安芸国・備後国(49万8千石)へ転封となり、その後へ武蔵国忍城主松平忠吉(徳川家康第4子)が配されました。
関ヶ原合戦の功労者である外様大名は加増して遠国へ転封し、重要拠点には一門・譜代大名を置くという家康の大名配置政策の典型です。
しかし、松平忠吉は慶長12年(1607年)に23歳の若さで病没したので、清須城には、甲斐国府中城主徳川義直(徳川家康第9子)が封ぜられました。これが、御三家筆頭尾張徳川家の始まりです。』



『慶長15年(1610年)閏2月、助役を命じられた大名達は名古屋へやってきました。 当時、秀吉恩顧の大名は、ここ数年のたび重なる天下普請により、経済的にも非常に苦しい状況となっていました。今回、助役を命じられた福島正則(広島城主)と加藤清正(熊本城主)、池田輝政(姫路城主)の会話が伝えられています。

福島正則: このごろ城普請の手伝いが頻繁だ。江戸や駿府は将軍や大御所(家康)の城だから納得できるが、名古屋は息子の城ではないか。こんなことにまで駆り出されては我慢できない。
池田輝政:(沈黙)
加藤清正:お前様は、考えずにものを言うから困ったものだ。名古屋のことが我慢できないなら、さっさと国へ帰って謀反の旗揚げでもしたらどうだ。そんな力がないなら、黙って命令に従うしかないだろうが。』



それにしても、後世に名を残した福島正則、加藤清正、池田輝政が助役となり築城とは、徳川の力がいかに強かったのかの証明ですね。



続く......................................................................。