東側の廻廊を昇りきると、一般の寺院でいえば本堂に当たる『法堂』に至ります。
永平寺の伽藍で一番高いところにあり、間口18間、奥行14間の法堂です。
1843年に再建された禅師説法の道場であり、毎朝のお勤めや、各種法要が執り行われます。
中央には本尊『聖観世音菩薩』が、両側には阿吽の白獅子が置かれています。
法堂は、一山の住職が修行僧に説法をする場所です。
永平寺内の傘松閣にかかっていた達磨絵です。
天井には230枚の花鳥図がはめ込まれていましたが、写真は失敗してしまい、うまく撮れませんでした。
達磨大師は南インドの香至王の第三王子として生まれ、その後中国にわたり禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)を開かれた祖師です。
達磨大師ってインド人だったんですね。
ネット情報によると、
『達磨大師はインドの香至国の王子として生まれたお方です。のちに出家し、お釈迦様から28代目の教えを継がれて、中国に渡られました。梁の武帝との問答や、嵩山少林寺での面壁九年の話は特に有名です。その教えは慧可禅師に継がれのち日本に伝わり現在では世界中に広まっています。禅宗では初祖達磨大師と仰ぎますが、七転八起、面壁九年の不 不屈の精神は宗派を越え、誰からも親しまれ、慕われ、信仰されています。』
永平寺は、約750年前に道元禅師によって開創された『日本曹洞宗』の第一道場で出家参禅の道場になっています。
樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
法堂を過ぎてしばらく進むと、西側の下りの回廊になります。
七堂伽藍は全てこの回廊でつながれている。
テレビなどで雲水(修行僧)が並んで廊下の拭き掃除をしている様子が放映されるが、この回廊です。
毎日7時過ぎから全山で一斉清掃が行われ、これも修行の一つのようです。
回廊はどこもきれいに磨き上げられていて光っています。
回廊の途中で、中庭の景観を撮ってみました。
大庫院前に掛けられている『大すりこぎ棒』です。
明治35年改築された仏殿の地突き棒を捨てずに、丸めて『すりこぎ』にして飾ったすです。
永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の1200年に京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわれています。
8歳で母の他界に逢い世の無常を観じて比延山横川に出家し、その後、京都の建仁寺に入られ、24歳の春、中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開き、28歳の時に帰国し、京都の建仁寺に入ります。
続く......................................................................。
永平寺の伽藍で一番高いところにあり、間口18間、奥行14間の法堂です。
1843年に再建された禅師説法の道場であり、毎朝のお勤めや、各種法要が執り行われます。
中央には本尊『聖観世音菩薩』が、両側には阿吽の白獅子が置かれています。
法堂は、一山の住職が修行僧に説法をする場所です。
永平寺内の傘松閣にかかっていた達磨絵です。
天井には230枚の花鳥図がはめ込まれていましたが、写真は失敗してしまい、うまく撮れませんでした。
達磨大師は南インドの香至王の第三王子として生まれ、その後中国にわたり禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)を開かれた祖師です。
達磨大師ってインド人だったんですね。
ネット情報によると、
『達磨大師はインドの香至国の王子として生まれたお方です。のちに出家し、お釈迦様から28代目の教えを継がれて、中国に渡られました。梁の武帝との問答や、嵩山少林寺での面壁九年の話は特に有名です。その教えは慧可禅師に継がれのち日本に伝わり現在では世界中に広まっています。禅宗では初祖達磨大師と仰ぎますが、七転八起、面壁九年の不 不屈の精神は宗派を越え、誰からも親しまれ、慕われ、信仰されています。』
永平寺は、約750年前に道元禅師によって開創された『日本曹洞宗』の第一道場で出家参禅の道場になっています。
樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
法堂を過ぎてしばらく進むと、西側の下りの回廊になります。
七堂伽藍は全てこの回廊でつながれている。
テレビなどで雲水(修行僧)が並んで廊下の拭き掃除をしている様子が放映されるが、この回廊です。
毎日7時過ぎから全山で一斉清掃が行われ、これも修行の一つのようです。
回廊はどこもきれいに磨き上げられていて光っています。
回廊の途中で、中庭の景観を撮ってみました。
大庫院前に掛けられている『大すりこぎ棒』です。
明治35年改築された仏殿の地突き棒を捨てずに、丸めて『すりこぎ』にして飾ったすです。
永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の1200年に京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわれています。
8歳で母の他界に逢い世の無常を観じて比延山横川に出家し、その後、京都の建仁寺に入られ、24歳の春、中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開き、28歳の時に帰国し、京都の建仁寺に入ります。
続く......................................................................。