新自由主義:その理論と現実
新自由主義には、労働組合が左翼の政権政党と結んで、自由経済指向の企業の活動領域を狭めるのに対抗するというスタグフレーション回避を契機とした面と同時に、大恐慌の回復を支えて経済政策が政府の経済活動を拡大が民間の企業活動の領域を冒すことに反対するといった面があります。
いずれにしても、自由経済活動の領域を規制することが健全な経済成長を阻害すると考える所が「自由主義」を名乗る原点です。
自由経済の原点はレッセフェールにあるのでしょうが、自由放任には限度があり、必要なのは適切なルールを設定することによって(例:交通信号)、社会的に合理性のある自由な経済社会活動が促進され、経済・社会の発展を効果的に実現するというものでしょう。
これはアダム・スミスや渋沢栄一が 「道徳」や「論語」に求めていたものをルール(合理的な規制)置き換えるという趣旨でしょう。
そうした「新自由主義」の目で見ると、これまでの社会は不合理なルールがいっぱいあって、そのために経済発展が阻害されている、具体的には、社会意識や技術の変化に対応していない古い規制などが不合理な既得権を生み、経済社会活動の動きを阻害しているとみるのです。
ですから、政府は、合理的なルールを作り、それが守られるようにレフェリ-の役を確り務めるべきで、規制はみんな悪いと考えたり、勇み足で政府が経済活動に参加すると、それは、「神の見えざる手」と反対に「政府の見えざる手」によって、経済社会の自由な活動を妨げ、その健全な発展を妨げると考えるわけです。
この「勇み足」ですが、政府というのは権力がありますから、レフェリー役に飽き足らず、自らもプレーヤの中に入って、権力にモノを言わせて、自分に都合のいい結果を出そうという気になるのがどうも一般的のようです。
そして、こうした政府の介入を合理的なものに見せようとして利用する言葉が、規制改革、「岩盤規制に風穴を開ける」とか「既得権打破」といった「改革こそが良きもの」と思わせるような形で政府の口から出て来ることになるようです。
端的に言って「赤・青・黄色の交通信号」が規制だから改革や緩和をすべきだという人はいないでしょう。相撲の土俵をボクシングのように「四角にしよう」という人もいないでしょう。野球の三振・フォアボールは誰も変えようとはいいません。
それはこうした規制が合理的だからです。「規制改革」「既得権打破」が必要というのは、「本来非合理だから直す」のが原則でしょう。合理的な規制を見直す必要はないのです。
そして見直すならば、それはルールの変更ですから行政がやるのではなく、立法府がやるべきなのです。
「政府の見えざる手」というのは、見えないのではなくて、権力に任せて(外からは見えないようにしながら)合理性に欠けることを政府が自分の手でやることによって、社会の秩序が混乱し、その混乱の収拾に大変な手間とカネがかかるという事の結果起きることが多いからだと考えられます。
次回、その具体的な例を挙げて、この項を締めくくりたいと思います。
新自由主義には、労働組合が左翼の政権政党と結んで、自由経済指向の企業の活動領域を狭めるのに対抗するというスタグフレーション回避を契機とした面と同時に、大恐慌の回復を支えて経済政策が政府の経済活動を拡大が民間の企業活動の領域を冒すことに反対するといった面があります。
いずれにしても、自由経済活動の領域を規制することが健全な経済成長を阻害すると考える所が「自由主義」を名乗る原点です。
自由経済の原点はレッセフェールにあるのでしょうが、自由放任には限度があり、必要なのは適切なルールを設定することによって(例:交通信号)、社会的に合理性のある自由な経済社会活動が促進され、経済・社会の発展を効果的に実現するというものでしょう。
これはアダム・スミスや渋沢栄一が 「道徳」や「論語」に求めていたものをルール(合理的な規制)置き換えるという趣旨でしょう。
そうした「新自由主義」の目で見ると、これまでの社会は不合理なルールがいっぱいあって、そのために経済発展が阻害されている、具体的には、社会意識や技術の変化に対応していない古い規制などが不合理な既得権を生み、経済社会活動の動きを阻害しているとみるのです。
ですから、政府は、合理的なルールを作り、それが守られるようにレフェリ-の役を確り務めるべきで、規制はみんな悪いと考えたり、勇み足で政府が経済活動に参加すると、それは、「神の見えざる手」と反対に「政府の見えざる手」によって、経済社会の自由な活動を妨げ、その健全な発展を妨げると考えるわけです。
この「勇み足」ですが、政府というのは権力がありますから、レフェリー役に飽き足らず、自らもプレーヤの中に入って、権力にモノを言わせて、自分に都合のいい結果を出そうという気になるのがどうも一般的のようです。
そして、こうした政府の介入を合理的なものに見せようとして利用する言葉が、規制改革、「岩盤規制に風穴を開ける」とか「既得権打破」といった「改革こそが良きもの」と思わせるような形で政府の口から出て来ることになるようです。
端的に言って「赤・青・黄色の交通信号」が規制だから改革や緩和をすべきだという人はいないでしょう。相撲の土俵をボクシングのように「四角にしよう」という人もいないでしょう。野球の三振・フォアボールは誰も変えようとはいいません。
それはこうした規制が合理的だからです。「規制改革」「既得権打破」が必要というのは、「本来非合理だから直す」のが原則でしょう。合理的な規制を見直す必要はないのです。
そして見直すならば、それはルールの変更ですから行政がやるのではなく、立法府がやるべきなのです。
「政府の見えざる手」というのは、見えないのではなくて、権力に任せて(外からは見えないようにしながら)合理性に欠けることを政府が自分の手でやることによって、社会の秩序が混乱し、その混乱の収拾に大変な手間とカネがかかるという事の結果起きることが多いからだと考えられます。
次回、その具体的な例を挙げて、この項を締めくくりたいと思います。