文化の日に:「争いの文化」と「競いの文化」
今日は「文化の日」です。11月3日は、昔から天気予報では「特異日」と言われ、何時も晴れるのだそうですが、今日も日本は広く秋晴れのようです。
「文化」は人間に特有なもので、他の生物は大自然の法則の中で生きています。人間だけが、大自然に(ある程度)働きかける能力を持ち、それが「文化」の源でしょう。
折角そうした能力を与えられながら、人間はそれをうまく使っているのでしょうか。
国連機構の下で、文化を名に掲げる機関はユネスコ(国連教育科学文化機関)ですが、現状、アメリカが協力を拒んで機能不全に陥っています。
人間が「文化」の名のもとに混乱を起こすというのは、何とも残念なことですが、その原因を考えてみますと、文化の源である人間の心の中に、2種類の文化があるように感じられてなりません。
解釈は私なりのものですが、2種類というのは、「争いの文化」と「競いの文化」と考えています。
人間の心の中には、「他人に勝ちたい」という「進歩・向上」への欲球があり、これが人間(人類)の進歩の原動力というのは、確かにそうでしょう。
そこまではいいのですが、それが「争いの文化」の形をとると、他者を征服し、滅ぼして自分の優位を確立する、という行動に発展します。優位が確立してしまうと、そこで進歩が止まり、腐敗や堕落が起きることになります。
一方「競いの文化」の形を取ると、オリンピックの様に、競い合うことで進歩・向上はいつまでも続きます。
2つの文化の決定的な違いは、「争いの文化」は相手を認めない「征服の文化」であり、「競いの文化」は相手の存在を認める「共存・共生」の文化という事になるでしょう。
人類の持つべき文化として、どちらが優れているかと言えば、当然「争い」ではなく、「競いの文化」という事になるはずです。相手を滅ぼしてしまったのでは元も子もありません。
経済で言えば、「独占禁止法」などというのは、こうしたことが良く解っていて作られた法律でしょう。
人間と自然の関係でも同じです。人間が自然を征服しよう、自然は自分のものだから徹底して収奪しようとした結果が、今の環境問題でしょう。
今、自然は、異常気象という形で逆襲してきていますが、人間の中でも気づいた人たちは「自然との共生」を大切にしようとしています。
自然に意思があるかどうかは別として、人間同士、国同士でも、文化のベースに「争いの文化」ではなく『競いの文化』を置かなければならないと、今年も「文化の日」を迎えて痛感するところです。
今日は「文化の日」です。11月3日は、昔から天気予報では「特異日」と言われ、何時も晴れるのだそうですが、今日も日本は広く秋晴れのようです。
「文化」は人間に特有なもので、他の生物は大自然の法則の中で生きています。人間だけが、大自然に(ある程度)働きかける能力を持ち、それが「文化」の源でしょう。
折角そうした能力を与えられながら、人間はそれをうまく使っているのでしょうか。
国連機構の下で、文化を名に掲げる機関はユネスコ(国連教育科学文化機関)ですが、現状、アメリカが協力を拒んで機能不全に陥っています。
人間が「文化」の名のもとに混乱を起こすというのは、何とも残念なことですが、その原因を考えてみますと、文化の源である人間の心の中に、2種類の文化があるように感じられてなりません。
解釈は私なりのものですが、2種類というのは、「争いの文化」と「競いの文化」と考えています。
人間の心の中には、「他人に勝ちたい」という「進歩・向上」への欲球があり、これが人間(人類)の進歩の原動力というのは、確かにそうでしょう。
そこまではいいのですが、それが「争いの文化」の形をとると、他者を征服し、滅ぼして自分の優位を確立する、という行動に発展します。優位が確立してしまうと、そこで進歩が止まり、腐敗や堕落が起きることになります。
一方「競いの文化」の形を取ると、オリンピックの様に、競い合うことで進歩・向上はいつまでも続きます。
2つの文化の決定的な違いは、「争いの文化」は相手を認めない「征服の文化」であり、「競いの文化」は相手の存在を認める「共存・共生」の文化という事になるでしょう。
人類の持つべき文化として、どちらが優れているかと言えば、当然「争い」ではなく、「競いの文化」という事になるはずです。相手を滅ぼしてしまったのでは元も子もありません。
経済で言えば、「独占禁止法」などというのは、こうしたことが良く解っていて作られた法律でしょう。
人間と自然の関係でも同じです。人間が自然を征服しよう、自然は自分のものだから徹底して収奪しようとした結果が、今の環境問題でしょう。
今、自然は、異常気象という形で逆襲してきていますが、人間の中でも気づいた人たちは「自然との共生」を大切にしようとしています。
自然に意思があるかどうかは別として、人間同士、国同士でも、文化のベースに「争いの文化」ではなく『競いの文化』を置かなければならないと、今年も「文化の日」を迎えて痛感するところです。