tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

文化の日に:「争いの文化」と「競いの文化」

2017年11月03日 11時05分12秒 | 社会
文化の日に:「争いの文化」と「競いの文化」
 今日は「文化の日」です。11月3日は、昔から天気予報では「特異日」と言われ、何時も晴れるのだそうですが、今日も日本は広く秋晴れのようです。
 
 「文化」は人間に特有なもので、他の生物は大自然の法則の中で生きています。人間だけが、大自然に(ある程度)働きかける能力を持ち、それが「文化」の源でしょう。
 折角そうした能力を与えられながら、人間はそれをうまく使っているのでしょうか。

 国連機構の下で、文化を名に掲げる機関はユネスコ(国連教育科学文化機関)ですが、現状、アメリカが協力を拒んで機能不全に陥っています。

 人間が「文化」の名のもとに混乱を起こすというのは、何とも残念なことですが、その原因を考えてみますと、文化の源である人間の心の中に、2種類の文化があるように感じられてなりません。

 解釈は私なりのものですが、2種類というのは、「争いの文化」と「競いの文化」と考えています。
 人間の心の中には、「他人に勝ちたい」という「進歩・向上」への欲球があり、これが人間(人類)の進歩の原動力というのは、確かにそうでしょう。

 そこまではいいのですが、それが「争いの文化」の形をとると、他者を征服し、滅ぼして自分の優位を確立する、という行動に発展します。優位が確立してしまうと、そこで進歩が止まり、腐敗や堕落が起きることになります。
 一方「競いの文化」の形を取ると、オリンピックの様に、競い合うことで進歩・向上はいつまでも続きます。

 2つの文化の決定的な違いは、「争いの文化」は相手を認めない「征服の文化」であり、「競いの文化」は相手の存在を認める「共存・共生」の文化という事になるでしょう。
 
 人類の持つべき文化として、どちらが優れているかと言えば、当然「争い」ではなく、「競いの文化」という事になるはずです。相手を滅ぼしてしまったのでは元も子もありません。
 経済で言えば、「独占禁止法」などというのは、こうしたことが良く解っていて作られた法律でしょう。

 人間と自然の関係でも同じです。人間が自然を征服しよう、自然は自分のものだから徹底して収奪しようとした結果が、今の環境問題でしょう。
 今、自然は、異常気象という形で逆襲してきていますが、人間の中でも気づいた人たちは「自然との共生」を大切にしようとしています。

 自然に意思があるかどうかは別として、人間同士、国同士でも、文化のベースに「争いの文化」ではなく『競いの文化』を置かなければならないと、今年も「文化の日」を迎えて痛感するところです。

刀狩り、銃規制、核兵器管理

2017年10月07日 21時56分28秒 | 社会
刀狩り、銃規制、核兵器管理
 以前、刀狩りと核兵器禁止条約について書きましたが、今回はアメリカで恐るべき事件が起きました。流石に銃規制に消極的なアメリカのライフル協会も、殺傷力を格段に強める改造用の付属品の規制については規制容認の方針を出したようです。

 豊臣秀吉の刀狩りは、秀吉が、天下を治めやすくするために考えたことでしょうが、同時に、争いの絶えない市中で、争いが人の殺傷にまで及びにくくするということも当然考えられてのことでしょう。

 刀、ナイフ、ライフル、拳銃など、人の殺傷能力の高いものは、使い方によっては、いつでも「凶器」となるわけですから、市民の平穏な生活のために通常の人たちは所持しないようにするというのは、世界の常識だろうと思っています。

 アメリカは、いわゆる開拓時代の記憶がまだ残っているせいでしょうか、銃規制には基本的に反対の意見が強いようで、トランプさんも、ライフル協会の意見を尊重していました。
 銃の所持に寛容でも、特に凶悪な事件を助長するといったことはないという自信もあってのことでしょうか。

 しかし今回の事件は、些かひどすぎたようです。犯人の行動の原因はまだわからないようですが、いずれにしても、こんなことが起きるのであれば、殺傷能力を極端に強める改造用付属品は規制の対象にすべきという事になるのでしょう。

 ところで、核兵器になりますと、その殺傷能力は、そんなものとはケタ違いです。人の殺傷どころか、地球人類(生物)の破滅さえも齎しかねないものです。
 だからこそ「核兵器禁止」「核兵器廃絶」の声は世界中に広がっているわけで、人類の願望としては、まさにその通りです。しかし、では具体的にどうすべきかという困難な問題がついて回るのが現実世界でしょう。

 今、北朝鮮の核の問題は、地球人類の大問題です。
 国連常任理事会の5か国以外にも、核拡散防止条約を批准せず、核兵器を持つ国は存在しますが、結局黙認されているという事は、それらの国は、持っていても使うことはないだろうという暗黙の了解があるという事でしょうか。

 しかし、さらに拡散すれば、現実に使われる可能性も高くなり、人類全体が不安にさらされます。刀や銃の程度であれば、国が責任を持って管理するのが一般的ですが、しかし国と国との争い、戦争になると、刀も銃も大砲も爆弾も国が使用を認めるのです。

 核兵器のような究極の兵器を国別管理にしておくことでは、今の米朝のように、脅し合いか一触即発か、地球人類の不安は絶えません。かといって、国連決議が効果を持つかというと、現状の通りです。

 矢張り未だに人類は、こうした人類全体のガバナンスの問題に全く成功していないのです。人類社会の秩序と安寧を願って生まれた国連を、権威の無い組織にしたり、抗争の場にしたりしているのは、常任理事国でもあるのです。
 まだまだ人類は、大事なのは人類でなく自国のようです。

 にも拘らず、武器、兵器の殺傷能力は、国レベルのガバナンスではどうにもならない、地球レベルの破壊力、殺傷能力にまで進んでしまっています。
 これから人類は、このギャップをどう埋めていくのでしょうか。

戦争と「リベラル」の関係は?

2017年10月06日 21時05分23秒 | 社会
戦争と「リベラル」の関係は?
 常識的に考えてみても、「戦争」と「リベラル」は相容れないというのが一般的でしょう。特に戦争を経験した世代の方は、戦争というものがいかに国民の自由を束縛することを身を以て体験しています。

 歴史的にみると、国内で権力者が規制を強くし、国民の自由を束縛する理由の多くは、国民の都合より権力者自身の都合を優先するからでしょう。例えば、権力者が、よりよい生活をしようと思えば、国民・領民を苛斂誅求することになります。そしてそれは往々革命(内戦)につながります。

 国際的には、一国が力で他国を収奪しようとすれば、相手国は不自由を強いられ、それは戦争に発展する可能性を持つでしょう。
 権力者や、より力を持った者が、他者の自由を制限しようとする理由は何故かということになりますと宗教や思想、名誉や権力ということもあるでしょうが、その根っこには、より豊かになりたいという願望があるようです。

 国が豊かになるためには、かつては版図の拡大、植民地化、今日では資源の獲得競争ということになるのでしょうが、こうした行動は、いずれにしても、力を持ち、他国の自由を制限して、自らの力の下に富を集中したいという願望から来るものでしょう。

 こうした行動は、当然、格差の拡大をもたらします。国内なら格差社会化、国際なら国別の経済格差の拡大です。
 こうした動きに対して、人類社会は、国内では福祉国家化、国際では 途上国援助プログラムなどで格差拡大の阻止する努力をしてきたと思います。

 「リベラル」という考え方は、権力が他者の思考や行動を制限し、不自由を強いたり、強いられたりすることを好みませんから、権力のこうした行動には反対でしょう。
 その結果、「リベラル〕は格差社会の進行を好まず、版図の拡大や、資源の収奪にも反対で、当然そのための手段となる戦争には否定的です。
 戦争は決定的に自由を制限しますから、「リベラル」は戦争は嫌いです。

 そこで、日本には1つ重要な役割があるように思うのです。前々回書きましたが、日本は戦後4つの島だけになって、世界に冠たる高度経済成長を成し遂げ、リベラリスト 石橋湛山の予言を実証しました。
 版図の拡大や、資源の争奪をしなくても、国民がまじめに働いて、生産性を上げれば、国はいくらでも豊かになれることを世界に実証して見せたのです。

  戦争は無駄の典型で、国や人類社会を豊かにすることはありません。豊かさは生産性の成果としてしか実現しないのです。日本の「リベラル」は、戦後日本が積み上げてきた実績をベースに、平和こそが世界を豊かにする最大の条件であると世界に適切に発信し、それによって世界、地球人類に貢献することを求められているのではないでしょうか。

「リベラルでない」という事は

2017年10月05日 20時26分43秒 | 社会
「リベラルでない」という事は
 「リベラル」については、前回、こんな風に考えることではないでしょうかと書いてみました。
 では「リベラルでない」というのはどんな風に考えたらいいのでしょうか。

 こちらの方は、割合解り易いように思われます。端的に言えば、自由な発想や行動が許されない状態という事ですから規制の強い社会、不自由な社会という事になります。
 勿論、自由度の高い社会から規制の強い社会まで自由と規制の組み合わせの程度、どちらの色彩が強いかで多様な社会が考えられます。

 自由世界の中でも、アメリカのように 国民負担率(税・社会保障負担/国民所得)の低い国から、北欧諸国のように、国民所得の半分以上を税・社会保障に拠出し、福祉や教育を充実させた方がいいという国までいろいろです。

 以前も書きましたが、交通信号は「規制」ですが、信号が無いと困る(自由勝手では社会秩序が守れない)のが現実でしょう。スポーツでもルールはきちんと守れないとゲームが楽しくないのでルールを順守します。
 生活でもスポーツでも、みんなが納得する良いルール(規制)が「快適」を齎すのです。

 リベラルというのは、そういう意味では、「最適な規制」を認め、その中で人々が、のびのびと快適な生活ができるという所を目指す思想でしょう。

 という事で、それ以上規制が強まると、社会は窮屈に、つまり「リベラルでない社会」、「リベラル」が通用しにくい社会になります。なぜ規制を強めるかというと、歴史が示しますように、権力者にとって、その方が都合がよいからのようです。

 「リベラル」でない社会といえば、近くは、ファシズム、ナチズム、日本の軍国主義などでしょう。一般的に言えば、独裁主義、全体主義等で、これらに関しては、歴史上の経験が、戦争につながりやすいとか、いろいろな事を教えてくれます。

 共産主義もその現実は一党独裁です。その結果、ソ連は潰れました。中国も一党独裁ですが、徐々に規制を外し、自由の部分(主に経済分野)を広げて、生き延びています。

 資本主義が、種々の規制を取り入れ、福祉社会化して生き延びているのと、丁度逆の動きでしょう。

 快適な社会というのは、自由と規制を国民の総意によって、国民にとって最も「快適な社会」になるように塩梅することで可能になるのでしょう。
 (余計なことですが、自由民主党という名前は、その意味では大変いい名前ですが、今、人気が落ちたのは、党名とやることが違ったからでしょう)

 ところで、国民が「快適」と判断するか否かの大きな基準は「格差社会化」に大きく関わるようです。この辺りは ピケティの慧眼が指摘しています。

 格差社会化を嫌う日本人は、この辺りを感じ、失われる快適さに「居心地の悪さ」を感じてきているようです。

 今回の選挙が「解りにくい」というのは、どの政党が、国民の声を本当に確り拾い上げて「快適な社会」を作ってくれるのか、良く解らないからでしょう。

 それにもう一つ、国際関係、国際間の多様な「争い」という問題が、大きく影を落としています。この問題も次に考えてみたいと思っています。

「リベラル」の意味を考えてみましょう

2017年10月04日 21時47分33秒 | 社会
「リベラル」の意味を考えてみましょう
 「リベラル」はもともと英語ですから日本語にすると何かといえば「自由」です。しかし、どうも今使われている状況では「リベラル」と「自由は」同じではありません。
 
 例えば、旧民進党で、あんなに反対した安保法制や共謀罪という踏み絵を踏んで希望の党に行った人たち「ではない」人たち、立憲民主党の集まった人達に、マスコミは「リベラル系」という言葉を当てはめているようです。
 どうも安保法制・集団的自衛権、共謀罪といったある方向に大衆を引っ張って行こうとする考え方は「リベラルではない」というようです。

 さすがにマスコミの鋭敏な感覚です。自由な発想がなければ「リベラル」ではないでしょう。では真のリベラルとは何でしょうか。自民党だって「リベラル・デモクラティック・パーティー」ですから、なかなか解りにくいですね。

 過日「格差問題への回答」でも書きましたが、「自由」の対立概念は「平等」で真理は自由と平等の中間にあって、それを正義とされると書きました。
 政治的な面で言えば、自由の対立概念は「規制」とか「強制」でしょうか。この場合も、「真理は中間にあり」で、求める中間点が「正義」という事になるのでしょう。

 偶々ですが、リベラルという言葉から思い出した人が2人います。石橋湛山と湯浅八郎です。石橋湛山については、「石橋湛山―リベラリストの真髄」(増田弘著)があり、湯浅八郎には自著「あるリベラリストの回想」があります。

 石橋湛山は戦前のジャーナリストから戦後は総理大臣まで上り詰めた人ですが、大正時代に、「日本は満州進出をやめ、韓国、台湾は独立させ、中国は支配するのではなく経済発展に協力し、経済発展した中国と貿易をしたほうがずっと優れた政策と主張しています。

 こうした地域(国々)を併合したり、植民地にしたり、支配したりするのは国際関係としても問題だし、経済的にもペイしない。日本は本来の4つの島(北海道、本州、四国、九州)で経済発展を図る方が、ずっと効率的ときちんと経済分析をしての主張です。
 戦後の日本はまさにそうなって高度成長をしました。

 湯浅八郎は、明治末期にアメリカに留学、帰国後は京大、同志社大(総長)として、当時リベラルといわれる教育を行い、軍部と繰り返し対立、戦前再度アメリカに渡り太平洋戦争中もアメリカに止まり、その間「この戦争はそう長く続くことはないからと、戦後の日米関係と考えていたそうです。

 戦後帰国し、日米協力の大学設立構想を聞き、自らの構想を提供した処、声がかかり、同志社総長から国際基督教大学(ICU)初代学長となり、4年制教養学部(College of Liberal Arts)を出発点に、日本の国際的なリベラルアーツ教育に先鞭をつけました。

 偶々頭に浮かんだお2人ですが、ともに基本には合理的な思考があり、どんな環境の中でも、透徹した合理的な分析や構想が、優れた先見性を生み出していると感じるところです。

 そういう意味では「リベラル」というのはその人間の生き方が、広く深い教養や認識をベースに、周囲の状況に影響されることなく、合理性をベースにした自らの自由な発想を大切にし、それが結果的に、あるべき社会の姿、社会正義の実現につながるものであるといったようなものなのではないでしょうか。

 以上は単なる私のつたない理解ですが、今選挙におけるリベラル論争も、何か、こうした基本的な発想から、よくよく分析して頂き、「リベラル」という素敵な概念を、解り易く、日本のより良い将来に繋げるものとして存分に活用して頂くよう願っています。

変化する国のかたち

2017年08月18日 10時45分00秒 | 社会
変化する国のかたち
 一昨日ですか、アメリカで、南北戦争の時の南軍の記念碑という事でしょうか、これまで立っていた南軍兵士の像を引き倒す光景がニュースに映し出されました。その上、何人かの人が、倒した像を蹴ったり踏みつけたりしているのです。

 これは私には大変な衝撃でした。なんでこの時代になって、アメリカでこんなことが起きるのか・・・。同時に眼に浮かんだのは、イラク戦争の折、フセイン像を引き倒し踏みつけるというあの光景でした。

 トランプ大統領の不用意な発言があったとしても、圧政や戦争でもない中でこんな光景を見るなどという事は想像もしませんでした。
 その後、アメリカでは南軍兵士の増の撤去が進んでいるようですが、世界の最先進国で100年も立っていたそれなりの記念碑として認められていた像なのでしょう。

 かつてから考えていましたが、今のアメリカは、先進国というよりも、一つの国の中に、先進国と途上国が併存する国という事のように感じられます。
 当然、成熟した先進国のメンタリティーや行動規範と、未成熟の途上国のそれとが併存しているのでしょう。

 思い出せば、日本でも、かつて、JRのストなどの際、駅のガラスが割られたり、キオスクの商品が略奪されたりしたことがありました。しかし、何故かあること(長期違法スト、1975年)を契機に、そうした破壊行為が一切なくなった記憶があります。
 その時、何らかの経験をきっかけに、社会の行動規範は進化改善するものだという事を感じました。

 今、世界中で移民の問題が起きています。人の移動は次第に激しくなり、一国の中に先進国と途上国が混在するような国も増えてきているのではないでしょうか。
 そしてこれは一部の国民感情を刺激し、融和でなく、対立を引き起こすきっかけになったりもするようです。

 しかし、いずれにしても、人類はこの狭くなった地球の表面で、共存し、地球市民としてより良い社会を作っていかなければなりません。
 より良い社会を作るための人々の意識が、そして行動規範が、より融和と共存を目指したものに進化していくために、それぞれの国、国際機関などは、協力して、より良いあり方を、多様な面から、さらに模索する必要があるように思われるところです。

なぜ組織が壊れるのか?

2017年08月02日 14時38分18秒 | 社会
なぜ組織が壊れるのか?
 先日「分裂の原理、統合の原理」を書きました。
 戦後世界は、国連を頂点に、多様な統合の努力をし、それはかなりの成功を収めたと思っています。
 しかし、21世紀に入り、自由世界の中でも、統合の動きに背を向け分裂を善しとするような動きが、世界中で見られるようになりました。
 統合には、確りした理念や協力しての努力が必要ですが、それに草臥れるからでしょうか、分裂は単なる思い付きや思い込みで、簡単に進展します。
 しかし、多分そのあとには、ある程度の混乱の時期を経て、反省と、統合への再指向が来るのは歴史の示すところです。

 ところで、最近の日本の政治の現実、政党の現実を見ますと、「失われた20余年」の「何をやっても巧く行かない」という経験の影響があるのかもしれませんが、かつては確りしていた組織が、何となく影が薄くなったり、何となく求心力が弱まり、ヒビが入って壊れそうになったりというおかしな状況が広がっているように思われます。

 例えば、自民党もその1つの例でしょうか。かつては派閥という多様性を内包しながら、日本の保守を代表し、多様な問題に柔軟に対応して動じない安定感があったように思いますが、与党の安定は公明党でもっているような怪しげな状態に見えます。

 当面、明日の内閣改造は、その反省に立って、安定感を重視などと報道されていますが、ほころびを繕う事は至難でしょう。
 
 本来ならば、今がチャンスと政権交代へ民意を糾合する立場にある民進党は、「なじかはしらねど」自壊の様相を見せるような状況です。
 二大政党の対立などという理想形は気配も見えず、名前も定かでない小党が分立し、「是々非々」という合理性を謳いつつ、統合の原理とは程遠い動きをしています。

 政党だけではありません。心配なのは、日本人の大多数である労働者を代表すべき労働組合組織の連合も、組織内部の不協和音で揺れています。政府の掲げる「働き方改革」に対抗して、望ましい労働環境、労働条件を求めて、政府や経営と本格論議が必要とされる時、組織の動揺は極めて残念です。

 労働組織に相対する経営サイドはどうでしょうか。現実は、残業100時間問題で、政府に裁定を仰ぐような自主性のない(労使ともに)残念な状態です。
 かつて、経済4団体(経団連、日経連、日商、経済同友会)共同で、強力な対政府行動などをとったような協調体制は、ほとんど見られません。

 日本の国内でも、戦後70年を経て、日本経済・社会の発展に向かって「同床異夢」ならぬ「異床同夢」で願いをともにした統合の原理が、統合へのエネルギーの発揮に些か疲れ、これまでのそれなりの成果に安住し、「自分達ファースト」の分裂の原理に堕してきてしまっているのでしょうか。

 戦後、アメリカに多くを学んだ日本ですが、トランプさんの「アメリカ・ファースト」までは学ばない方がいいように思うのですが・・・。

朝食が進まない理由

2017年08月01日 13時05分43秒 | 社会
朝食が進まない理由
 この所何となく朝食の際食欲がないような状態が続いています。暑くて寝苦しいでいかと思っていましたが、考えてみれば、お蔭様でクーラーもあり、睡眠時間も歳のわりに長いので、そんなはずはないと思っていたのですが、今朝、何となく原因が分かったような気がしました。

 新聞を取りに行くのは私の役割で、取ってきた新聞は、朝食の支度が出来るまで、なるべく早く目を通します。
 どうも、この所、新聞を見ているうちに食欲が減退することがしばしばだという事に気づいたのです。

 北朝鮮の大陸間弾道弾がアメリカに届くか届かないかとか、大気圏再突入が巧く行っていないとか書いてありますが、北朝鮮はこんな問題も早晩クリアするでしょう。そのときアメリカはどうするのか、圧力一辺倒で、対中、対ロの強硬姿勢が強まりそうですが、日本は対米追随一辺倒で、先行きどうなるのだろうと不安は募ります。

 カジノ法案の骨格が見えてきたようですが、日本にカジノが必要なのかが先ず疑問です。日本人にはマイナンバーで入場回数の制限をし、国際会議場の併設を義務付けるようですから、外国人向けでしょう。
 外貨を稼ぎたいのでしょうが、日本は万年経常黒字国で、巧く行けば国際収支のアンバランスが更にひどくなり、円切り上げを強いられることになりそうで心配です。

 籠池夫妻が逮捕されたそうですが、先日まで、総理夫妻があんなに肩入れしていた友人がなぜこんなことになるのでしょう。この分ではそのうち雲隠れなどといわれる加計氏も同じようなことになってしまわないのか。国民の知らない所でいったい何が起きていたのでしょう。

 アメリカでは政治の混乱はますますひどくなるようなのに、ダウ平均は連日高値更新、そんなことが長く続く筈はありませんが、早晩何か起きれば日本への影響は大きいでしょう。日本も日銀が上場会社の大株主になって、株価維持しているようですが、これも長続きはしないでしょうし、経済の先行きに心配事が増えてくるのではないでしょうか。

 日銀は結局、異次元金融緩和を続けるだけのようで、先行きどうなるかなどには全く答えてくれず、国民の先行き不安はますます募りそうです。
 政府、財務省も、日銀の政策をどう評価しているのか、日銀が国債を買い上げてくれることだけ期待しているのか、ここまで来てしまうとかなりの心配です。

 こんなことを朝起きた途端に連日のように知らされたのでは、食欲が落ちるのも当然という感じがしてきました。
 多少の心に安らぎになるのは、日経産業新聞の「日本企業はこんなに頑張っている」という事実の報道でしょうか。

 食欲が落ちないようにと、新聞やネット、TV のニュースを見ないわけにもいきません。見なくても同じ現実は進んでいくのです。
 ニュースは必要で、問題は毎日現実に起きている事の方にあるのですから。やっぱり気を取り直して、必要なだけは食べなければと努力しています。

改めて諺の大切さを知る

2017年07月27日 10時59分48秒 | 社会
改めて諺の大切さを知る
 安倍総理は「桃李言わざれども、下自ずから渓を成す」の諺からその名を掲げた成蹊大学の出身ですから、桃(もも)や李(すもも)の故事には造詣も深いのではないかと思っています。

 先日も「李(すもも)下を冠を正さず」といわれたようですが、こうした諺も、どう理解し、どう活用するかは大変重要なようです。

 矢張り諺の本来の意味を十分に理解して使わないと、折角由緒ある諺を使っても、諺は味方になってくれないのではないか、などと感じてしまいます。

 今回連続して問題になっている籠池氏、加計氏に関わる問題にしても、「李下に冠を正さず(李園過ぐる時は冠を整さず)」という諺を本当に理解して使っていれば、こんなことにはならなかったのではないでしょうか。

 この言葉の由来は、斉の威王の娘の虞姫が、あらぬ疑いを掛けられ、父である王に問い糾され、私は潔白ですが、疑われるようなことになったのは私の不徳の致すところです。たとえ死を賜っても、これ以上申し開きはしません、といったということからきているという事です。

 たとえ潔白であっても、疑われるようなことをしてしまったのは、私の不徳の致すところと、あえて自身の不徳を認め、責任を取ろうという虞姫の心を示しているのです。

 そういう意味では、安倍総理は、矢張りこの諺の意味を十分に理解していないで使ったと思われても仕方ないのかと思います。

 家族ぐるみの付き合いといわれた安倍家・籠池家の間柄、米国留学時代からの極めて親しい友人という加計氏と総理の関係という事を前提にしますと、小学校や獣医学部を作るという希望を持ったこうした友人に対しては、

「誠に申し訳ないけれども、貴方たちのような親しい方は、私が総理をやっている時に政府の許認可にかかわる大きな仕事を進めのは、何とかご遠慮いただきたいj、『李下に冠を正さず』という諺にもあるように、親友に便宜を図ったといったことを言う人が必ず出てくる、宜しくご配慮頂きたい。」

 という風に、「私の立場も解って欲しい」と話することが、本来の諺の意味を理解した行動という事になるのでないでしょうか。

 安倍総理がそうしていれば、前国会の混乱、国会論議で無駄な時間を費やすことは大幅に避けられたという事でしょう。

 諺というものは千年百年の人間の知恵の積み重ねの中で生き残ってきたものでしょう。それをよく理解し、行動を律することは、いろいろな所で役に立つように思います。

AIの能力、人間の能力

2017年07月16日 22時08分07秒 | 社会
AIの能力、人間の能力
 最近のAIの進歩は著しいものがありあます。今に人間のやる仕事は無くなって、みんな失業だなどと冗談を言いう人がいれば、本当にそうなるのではないかと心配する人もいます。
 いったい、機械は人間にどこまで追いついてくるのでしょうか。追いついてくるだけでなく、追い越されてしまったら人間は何をやったらいいかなどといったことに本当になるのでしょうか。

 ずっと先のことは解りませんが、ここ数十年とか100年ぐらいのスパンなら、何となくですが、あまり困ることはなく、人間生活の便利さ、快適さの増進で、社会全体が良くなると考えていた方がいいような気がします。

 今まででも、機械の方が人間より優れていることはいっぱいありました。もともと人間は自分より力の強い牛や馬、ラクダや象を使っていましてが、蒸気機関やモーター、エンジンなどが出来て、牛や馬は要らなくなりましたが、人間の仕事はいくらでもあります。

 これからは、人間の頭脳との競争になりますが、電卓の例で見てみればこんなことです。
 いくら算盤の名人でも加減乗除ぐらいは何とかなっても、累乗根とか 三角関数、微積になると、関数電卓には人間は絶対に敵わないでしょう。それでどうなったかです。

 電卓の登場で人間の仕事はうんと楽になりましたが、人間は電卓を使って、いつも忙しく働いています。確かに昔は盆と暮れだけだった休みが、週休2日制になり、労働時間は短縮されましたが、人間の仕事がなくなったわけではありません。
 自動車が人間より速く走っても、オリンピックは健在です。

 つまり、人間の世界は、人間が主人公ですから、機械が如何に進歩しても、ルールは人間が作ります。機械が経営者になって、社長に命令するのではなく、社長が機械を使ってより効率の良い、誤りのない、仕事をすることになるのでしょう。

 弁護士や医者の仕事でも、人間にはすべての法律や判例を記憶することはできませんし、医者もすべての症状と病理を知り尽くすことはできませんが、人工知能はそれが出来るのです。記憶装置はいくらでも大容量に出来ますし、コンピュータは「忘れる」ことはありません。

 それでも人工知能が裁判官や医者になるのではなく、裁判官や医者が人工知能を使ってより良い仕事をすることになるのでしょう。
 
  それで早く仕事が片付いたら、週休3日制でも4日制でもやればいいのでしょう。世の中より楽しくなりそうです。

<蛇足>
 もし本当に恐ろしいことが起きるとすれば、機械の進化ではなく、スーパーホモサピエンスが発生して、今のホモサピエンスはかつてのネアンデルタールタール人(2万年ほど前に絶滅)のような立場になってしまう事でしょう。

格差問題、自由と平等の間(まとめ)

2017年07月11日 11時07分44秒 | 社会
格差問題、自由と平等の間(まとめ)
 この所、格差問題を多面的に取り上げてきました。人間の社会では自由を徹底すれば格差は広がり、平等を徹底すれば、つまらない社会になるという事は解っています。

 現実には、平等を徹底しようとした共産主義社会は一握りの超豊な権力者と、貧しい大衆という究極の格差社会となって崩壊したという人類社会の皮肉も指摘しました。

 多分、格差問題は、人類社会が安定的に発展できるか否かを左右する、極めて重要な「基盤」の一つでしょう。
 そして日本人が格差問題に敏感であるという事は素晴らしいことだと思います。

 格差の許容範囲がどの辺りにあるかは、その社会の文化によって違いあります。アメリカンドリームを標榜するアメリカは、格差をある程度認める文化を持って来ました。しかし最近では、トップ1%が50%近い富を保有すると格差拡大が問題視されています。

 権力の格差は民主主義によって、その拡大を防ぐというシステムが選択され、それなりに機能していると思います。
 しかし、民主主義が、自由経済システム(資本主義)と結びついたところから、経済的格差(所得格差、資産格差)の問題が起こっています。人類社会はこの問題にその知恵で賢く対応しなければなりません。

 権力は富の配分に力を持ちますから、民主主義は政治、経済の両方に共通する原則でなければならないでしょう。
 この問題は、国連の場(常任理事会や途上国援助問題など)から、企業内の賃金交渉(産業民主主義)にまで及びます(ほとんどの問題は自由と平等の関係に分解できそうです)。

 如何なる範囲で格差の存在を認めるか?
 自由と平等の間のどの辺りに現実社会の妥協点(自由と平等を止揚した「正義」の範囲があるのか、格差社会化が進んでいると言われる日本でも、国民一人ひとりが、真剣にこの問題を考えていく必要があるようです。

格差社会化と所得税の累進税率

2017年07月04日 15時34分41秒 | 社会
格差社会化と所得税の累進税率
 福祉社会とか福祉国家という概念は、本来次のようなものです。
・経済活動を成り行きに任せれば、金持ちは金の力で益々金持ちになり、貧富の差がはなはだしい格差社会になっていくことが分かってきた。

・その結果は富の偏在で経済活動が巧く循環しなくなり恐慌が起きたり、場合によっては、暴動や革命が起き資本主義は破綻する。

・ならば、国の力で富の偏在を是正するようなシステムを作り、「自由な経済活動」と「平等な所得分配」の間の適切な所得配分を実現し、より良い社会にしよう。

 つまりこのシリーズの当初に置いた前提、対立する「自由」と「平等」の中間のどこかにある「正義」(justice)を国の介入で実現しようというのが「福祉社会」の原点です。

 これに対して、経済活動を自由にしておいても、いわゆる「トリクルダウン仮説」で金持ちの富は下の層に「滴り落ちていく」という考え方があります。
 中国でも「大人宴を張れば、その徳、犬猫に及ぶ」というのがあるそうで、大宴会の余った食い物は犬や猫にまで振る舞われるというものです。

 然し最近の経済実態の中で、「トリクルダウン仮説」は否定されたようです。食べ物は余れば誰かの口に入るかもしれませんが、マネーは「多々ますます弁ず」で余らないからでしょうか。

 いずれにしても、資本主義が社会主義にすり寄る形の「福祉社会」化で資本主義が生き延びているのが現実でしょう。

 そのための手段の主要なものが、「所得税の累進課税」と「相続税」でしょう。という事で、ここではちょっと我が国の所得税の累進課税の在り方が、どんな具合に変化してきているか見てみましょう。
 財務省の発表している資料からです。ここでは、最も解り易い最高税率(所得税と住民税を合わせた最高税率)の推移を見てみました。
1984年  88%
1987年  78%
1988年  76%
1989年  65%
1999年  50%
2015年  55%

 随分と最高税率は下がってきています。松下幸之助さんが、「私は収入も多いけど、9割は税金で払ってますよ」なとと言っていたのは昔の話、アメリカでスタグフレーション脱出のために行われたレーガン税制(法人税、所得税の大幅引き下げ)に倣ったそうですが、(アメリカは70%→50%)、レーガン税制の経済効果には否定的な検証が多いようです。

 日本では今また所得税累進税率の再検討(最高税率の引き上げ)の意見が出てきていますが、格差社会を嫌う日本です。税制の在り方にも議論の余地はありそうです。

格差問題と被害者意識

2017年07月02日 10時07分07秒 | 社会
格差問題と被害者意識
 この所は「格差問題」について書いてきています。
 これまでは、マクロの格差問題と言えそうなレベルの問題でしたが、これから、国レベル、さらに企業レベルの賃金問題などにも入っていきたいと思います。

 以前「 加害者と被害者」を書きましたが、世界の種々の紛争でも、格差問題と被害者意識は時に強く結び付いているようです。昔は、いじめなどの問題でも、被害者の心に傷を残すことは勿論、加害者の心にも傷を残すと言われていました。

 しかし、この頃の世の中は、どうも、被害者は被害者意識を持つが、加害者は加害者意識を殆ど持たないといったケースが増えてきているように思います。かつて、資本家が労働者を搾取して当然、宗主国が植民地を収奪して当然というような、同じ人間なのに、加害者が被害所の心情に思いを致さないケースが多いように思います。

 過労自殺などにおいてもその傾向が見られます。おそらく原因は「長時間労働」よりも(に加えて)仕事を命令する上司による心理的圧迫(脅迫)が大きいと私は感じます。最近の言葉で言えば「ハラスメント」でしょう。

 そして上司は、企業の方針や上からの指示に従った、仕事を教え、鍛えるためにやったといった行動の合理化をやり、加害者意識持たずに済ませてしまうといったことなのではないでしょうか。組織の上下関係が正常な人間関係をマヒさせるとすれば恐ろしいことです。

 格差問題の場合、限度を超えた格差(限度については背景になる文化の差はあるでしょう)に、加害者が気付かず、被害者が一方的に被害者意識を持ったように判断されることが多くなっているようにも感じます。国内紛争やISの問題でもそうして視点は可能でしょう。

 数学的に言えば、加害の合計と被害の合計はプラマイ・ゼロになるはずです。世の中の平穏のためには「加害者が加害者意識をそれなりに持つような社会」「力を持つ者が、そうした正常な感覚を失わないような教育、社会意識の維持」が必要なのではないでしょうか。

 「忖度」などと言う言葉も、そういう場合に使われればいいのにといった感じです。
 日本人は、どちらかと言うと、そうした人間関係の感覚においてはもともと比較的敏感だったように感じています。縄文時代1万余年、日本人は征服、被征服の関係のない社会を作ってきていたようです。

 日本人の育んできた繊細な感覚の大切さが、世界でも理解され、共有されるようになるような日本人の行動が、今まさに要請されているのではないでしょうか。

<追記>
 昨年の6月30日のこのブログはゲンジボタルの孵化が始まったことを報告しています。今年は未だですが、準備は万端整っています。今年は天候のせいか遅れているようです。ヘイケボタルの方の羽化は、未だ始まっていません。些か心配になっています。

共産主義国家の誕生と「幻滅の進行過程」

2017年06月27日 18時10分29秒 | 社会
共産主義国家の誕生と「幻滅の進行過程」
 前回、共産主義国家(ソビエトなど)の成立は「幻滅の進行過程」だったと研究の中で言われていると書きました。

 資本家による労働者の搾取を許せないことと思い、搾取、被搾取の関係のない、平等な世の中の実現を望んだであろうマルクスの共産主義思想が、どうして一握りの富と権力を恣にする特権階級と、貧しい国民大衆を生む格差の国という現実に帰趨していしまったのでしょうか。

 これは多くの研究者が、歴史の中で研究を重ねてきたことでしょうが、こうした、「こと志と違う」結果を生んだ背景には「社会の中の人間の行動原理」みたいなものがあるように思います。

 例えば、マルクスからレーニン、スターリンと現実の国家の形成が進む中で、空想的社会主義ではないにしても、多分に理想を掲げるマルクス主義を現実に移さなければならないわけで、そのプロセスでは、多様な人間の考え方を1つの方向に向けていかなければなりません。

 革命というような被害者意識一色に塗られた行動の中では、一斉に同じ方向を向いていた大衆も、そのあと、破壊から建設へというプロセスでは、多様に分裂するのでしょう。
 多様な人間を、平和な中でみんな同じ方向を向かせるのは至難です。そして結局選択された方法はリーダーの理想を強制することです。

 こうして、レーニンまではまだ理想への思い入れがあったようですが、スターリンになると、形だけ模倣する「理想より手段が優先される」段階になり、権力者は事実上、立法・司法・行政の三権を握り、政治は勿論、経済活動も、更に宗教まで、国家運営のすべてが、が権力の支配下に置かれっることになったのでしょう。

 これはある意味で「理想を権力で実現しようとすることの必然的な結果だったのかもしれません。
 しかも、困ったことに、いつの世でも権力は往々にして腐敗するのです。

 こうして70年を経て共産主義国家は崩壊し、社会主義市場経済に変化(進化)した中国、ベトナムなどが、サバイバルを果たしているのではないでしょうか。
 中国もベトナムも、格差問題には、極めて注意深く配慮しているように思います。

資本主義が生き延び、共産主義が破綻した理由も「格差問題」

2017年06月26日 16時51分55秒 | 社会
資本主義が生き延び、共産主義が破綻した理由も「格差問題」
 こんな大きな問題を単純に「格差問題」で説明するなどトンデモナイと言われそうですが、あながちそうでもないように思っています。

 ピケティ―が指摘するように、資本主義社会では通常、格差は拡大するようです。しかし時に縮小することもあるとも言っています。

 一方、共産主義(社会主義)はどうでしょうか。資本が労働を搾取するという形で極端な格差拡大が起きる資本主義のまさに「アンチテーゼ」として生まれたのが、社会主義・共産主義でしょう。

 しかし現実の共産主義国家で起きたことは、貧しい一般大衆と、富と特権を一身に集める支配階級という現実でした。社会全体の幸せを願って登場したはずの社会主義・共産主義が、どこでどう間違えて異常な格差社会になってしまったのでしょうか、研究者はこのプロセスを「幻滅の進行過程」と言うようです。 そして、最終的には1991年のソ連崩壊です。

 一方、資本主義の方はどうでしょうか。このブログではこれまでも、経営者革命と社会保障・福祉国家の概念が資本主義を生き延びさせたと指摘してきました。

 経営者革命は、資本の強欲を体現した資本家を後退させ、「組織の最高のパフォーマンス実現を仕事とする」経営者を出現させ、人間と資本がうまく協力しあえれば、生産性向上のベストパフォーマンスが生まれることを実証しました。
 労使関係論や、人間関係論、行動科学の研究がバックアップしました。

 一方政治面では、自由主義、民主主義と結んで、社会保障制度、さらには福祉国家の概念の取入れと実行に進みました。

 ダーウィンの言葉を借りれば、環境に最も適した生物が生き残るという事で資本主義はその点の進化をしてきたのでしょう。その結果のサバイバルの成功でしょう。

 この動きを格差問題から見れば、その差は一目瞭然です。ソ連は一般大衆と支配階級の所得格差の拡大だけでなく、ロシアと連邦諸国の経済格差も拡大させたようです。
 これは資本主義では植民地時代に当たるのかもしれません。

 資本主義社会では、資本家にとって代わった経営者は、労使関係の種々動きに苦労しながらも、産業民主主義の思想を打ち出したり、日本のように、労使の信頼関係こそが経済発展をもたらすといった産業社会を作り上げたり、また、政治面では所得税の累進化を進め、相続税を強化し、社会保障の充実、福祉国家建設といったスローガンを掲げるに至りました。

 この時代は、ピケティーの言う「格差が拡大せずに縮小した第二次大戦後の一時期」に当たることは容易に読み取れます。

 こうして、この所の世界の大変動も、格差問題という側面からら見ると、何となく解り易いような気がするのですがどうでしょうか。