tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

平成最後の「こどもの日」に思う事

2018年05月05日 13時54分13秒 | 社会
平成最後の「こどもの日」に思う事
 今日は平成最後のこどもの日です。「平成という時代」をシリーズ化して時折書いてきていますが、振り返って考えて見れば見るほど、平成という時代は、戦後の日本にとって、本当に暗い時代でした。

 原因を突き詰めてみれば、アメリカの経済戦略とそれに対する日本の対応の拙さに原因があることは解って来ますが、この昭和の末期に原因を発し、平成の30年苦しんだ経験を今後の日本の経済政策、さらには国際関係のへの対応に、残念な失敗の教訓として残すことが大事だと、つくづく思うところです。

 折しも今日は「こどもの日」ですから、われわれ失敗した世代の子供や孫たちに、この失敗の結果を少しでも回復させたうえで引き継いでもらうこと、そして同じ失敗を二度と繰り返さないように、われわれの学習の成果を確りと伝える事が重要でしょう。

 失敗の原因の最も大きなものを一つだけ挙げれば、それは為替レートについての経験と知識の不足でしょう。
 具体的に言えば、プラザ合意(1985年)でG5の円高要求を「素直に受け入れた」ことです。結果的に円レートは1ドル=240円から120円になり、日本の物価と賃金が基軸通貨のドル換算で2倍に跳ね上がったという経済環境の大変化です。

 その結果は、プラザ合意の5年後に顕在化したバブルの崩壊、その後の失われた20年と言われる中で、リーマン・ショックで円レートは1ドル=80円まで上昇、日本経済はゼロ・マイナス成長が常態という超長期の苦しみを味わいます。

 この為替レート切り上げについての認識の浅さが、一部からは「 経済敗戦」といわれる日本経済の低迷、平成という暗い時代をもたらしたのです。

 後にアメリカから「人民元」の切り上げを強く要請された中国が頑として受け入れなかった背後には、「我々は日本の失敗の経験から学んでいる」という言葉があります。

 この昭和末期の失敗が平成という暗い時代を作りだしたという現実は平成も末期に近づく2013年(平成25年)まで続きます。
 そして平成13年、14年と続いた日銀の政策変更による円安政策「異次元金融緩和」で、円レートは1ドル=120円の円安を実現し、為替レート上は終わりを告げます。

 しかしバブル崩壊以降30年にわたって続いた深刻な不況の経験は、今日の経営者、管理者、一般サラリーマン、さらには消費者や家計にまで、経済成長のない世界に住むのが日常という意識を持たせたのでしょう。ゼロ成長で賃金は上がらず、貯金をしても利息は付かず、年金の給付は減る中で、65歳以降、老後をどう生活すればいいかという不安が払拭されず、しゃにむに貯蓄に励む社会を作り出してしまったようです。

 現実には、かつてのような円高を安易に受け入れる失敗がない限り、真面目に働く日本人です、生産性は上がり、経済は成長し、その成果は海外に流出せず、日本人に還元されるという通常の経済サイクルが帰ってくることになります。

 改めて今日は「こどもの日」です。日本の経済政策・金融政策の担当者も、世の親たちも、「子供たちが将来に希望と自信を持てるような日本」にするためにどうしたらいいか、改めて確り考えることが必要なように感じるところです。

「昭和の日」を大事にしよう

2018年04月29日 11時13分56秒 | 社会
「昭和の日」を大事にしよう
 今日は「昭和の日」です。
 私も昭和一桁世代ですので、自らの生きた時代として、昭和には特別の思いがあります。

 これはただ単に、昭和の時代に育ったからというのではなく、日本の歴史の中で、昭和という時代は大変重要な時代だったのではないかという意識を持っているからです。

 今年の大河ドラマもそうですが、明治維新は近代日本の夜明けとして、いろいろな所で繰り返し取り上げられます。
 しかし昭和は歴史認識として、その意義はそこまで定着していません。その理由を考えてみますと、日本の現状がそうさせていると言えそうです。

 昭和の日の意義は、政府によれば「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と何か当たり障りのないものになっていますが、「激動の時期」は明治以来の「富国強兵」の仕上げをしようとして、結局日本を焦土と化してしまった時期であり、「復興を遂げた」というのは、富国強兵という誤った考え方をやめ、「平和憲法を掲げて」世界も驚く経済、科学、文化などの急成長を遂げた時期という事でしょう。

 過日、「 田中角栄語録から:戦争体験の無い政治家たちの危うさ」を書きましたが、田中角栄の言う「危うい政治家」が多くなり、何かしら1945年以前の昭和に戻りたいといった漠然とした権力への郷愁が政治の世界にも、一部の国民の中にも持たれているように感じられるのが平成末期の今日ではないでしょうか。

 振り返れば、明治維新は、鎖国という前近代的な日本が、開国とともに「富国強兵」という当時の世界の先端に追い付こうと、列強の仲間入りに執念を持つという大変化の時期だったのでしょう。

 そして昭和の1945年を境とする変化は、世界の主要国に残る武力依存の部分を完全に超克し、純粋に「平和」という理念で世界史に登場するという、「力は力でもソフトパワーが国是」という世界史を先取りした理念の国として歩みを始めたという変化でしょう。
 そしてこれは世界の国々に確実に良い影響を与えて来ているのではないでしょうか。
 
 しかし、平和という理念だけ、ソフトパワーだけで国際関係を乗り切るということは勿論容易ではありません。世界史を大きく先取りしているのですから。
ならばそこまで頑張らなくても、多少「普通の国」に還って、武力も確り持って、「脅しに屈しないぞ」という所を見せたほうが良いという「易きにつく」意見が、特に戦争体験の無い人達の中に出る可能性はありうるでしょう。

 しかし実は、この「易きにつく」という考え方は、最も高くつく事が、人類の今迄の経験なのです。
 戦争で廃墟と化して経験を持つ人々は、日本だけではありませんが、皆「平和」がベストと実感しています。
 世界に先駆けた一歩をあえて踏み出した「昭和の日本」です。その先見性を大事にするというのが「国の将来に思いを致す」という「昭和の日」の意義ではないでしょうか。

諺から現実を見れば

2018年03月24日 11時19分54秒 | 社会
諺から現実を見れば
 前回、世界のいろいろな場面で起きている困った事柄について、いったいどっちに転ぶのだろうという心配について書きました。

 現実に世の中は、何時もまともな方に物事が動くわけではありません。だから紆余曲折などという言葉もあるのでしょう。

 昔からいろいろな人が多くの経験から言い慣わしてきた言葉が諺になっているのでしょうが、その知恵をお借りしようと、諺を引いてみました。

 「無理が通れば道理引っ込む」というのがあります。
 やっぱり、昔から、「無理が通る」ことはよくあるのでしょう。そうすると「道理」は引っ込むのです。
 それでは無理と非道の世の中になってしまうのかというと、長い目で見れば、引っ込んだはずの道理が、確りと復元するから、この諺が言い継がれるのでしょう。

 「負けるが勝ち」というのもあります。上と似たような状況をとらえて、その先の顛末まで見通しているわけで、無理を言われて徹底抗うよりも、当面負けておけば、結局はその方が勝ちという事になりますよ、という処世の術を言っているのでしょう。

 正義感の貫徹という視点から言えば、「無理は通すべきではない」という事になるのでしょう。欧米や中国ではこうした柔らかな対応策は多分受け入れられないのでしょう。
しかし、そこで対立抗争してこじれた場合と、時の流れと自然法則の合理性を信頼して、当面我慢するという日本的なものとの違いも見える気がします。

 トランプさんの関税問題では、米国内でも「経済合理性に反する、経済的にもマイナス」といった意見もあるようですが、恐らく高関税導入でアメリカの競争力が復活することはないでしょう。

 「負けるが勝ち」という面から言えば、日本は高関税適用国という事態に対して、日本の当該産業は多分、より高度な技術革新に励むでしょう。高関税で守られたアメリカの鉄鋼業は弱くなり、日本は超ハイテン鋼などで、一層の進化が進めば、その行く先は明らかなような気もします。やはり「負けるが勝ち」という事になりそうです。

 ただ、プラザ合意による円高の様に、我慢と努力の期間が長すぎたりすると、負担が大き過ぎることは当然考えられます。
 諺は物事を巧みに言い当てるものだと思います。 一方、現実は極めて多様です。しかし、やっぱり何らかの役には立ちそうな気もします。

まさに「早春賦」を思い出させる空模様

2018年03月22日 10時07分15秒 | 社会
まさに「早春賦」を思い出させる空模様
 昨日は彼岸の中日、春分の日、春たけなわのはずですが、朝からみぞれ模様、そのうちに、みぞれは雪に変わりこのまま冷え込めば道路にも雪が積もりそうな寒い日でした。

車で外に出る用事があって、スタッドレスではないので、雪が道路に積もらない内に帰ってこようと早めに出たところその後雨になって一安心でした。

「春は名のみの風の寒さや」などと車の中で歌っていました。
旧鉄道学園、今、国分寺公園の桜の蕾はピンクに色づいているのに、それに大きな雪のフレークが風と共に斜めに降りかかっていました。

2番の「氷とけさり葦は角ぐむ」ですが、これはもうすぐお花見の時期なのにと驚きながら「さては時ぞと思うあやにく」という心持で、
「今日も昨日も雪のそ~らぁ」と歌って、これは「今日も昨日も」ではなくて「今日もあした」もだななどと考えていました。

 さて、3番に来ますと、「春と聞かねば知らでありしを、聞けばせかるる胸の思いを」と来て、またいつもの悪い癖が出てしまいました。

 そういえば、安倍政権は2020年にはGDPを600兆円にして、財政のプライマリー・バランスも回復する、インフレは2年で2%にするというのだから、ゼロ金利時代はすぐに終わって、銀行預金に利息が付くようになるなどと期待していたはずでしたが、
 「公約聞かねば知らでありしを、 聞けば急かるる胸の思いを」・・・

 「早春賦」に例えれば、立派な公約を聞いて、「これならば」と期待してしまったのがいけなかったという事のようです。

 結局は、みんな先延ばしになって、何時になったら日本経済・社会に本当の春が来るのか、あんな公約を聞いてしまったからには、早く何とかならないかと、まさに「聞けば急かるる胸の思い」に、待っても来ない春にしびれを切らす、という構図が現状か、などと考えながら、漸く目的地に着きました。

 幸い、駐車場には空きがあって、用事は順調に済みましたが、お天気と政治には、往々裏切られて、落胆するのがつきものなのでしょうか。

「争いの文化」と「競いの文化」その後

2018年02月19日 22時46分09秒 | 社会
「争いの文化」と「競いの文化」その後
 昨秋、「文化の日」に、 「争いの文化」と「競いの文化」を書きました。文化はまさに人間特有のものですが、残念なことに、「文化」の名のもとに人間が争う事が多すぎるような気が、ますます強くなる今日この頃です。

 人間は巨大な知識を身に着ける事が出来るようになりました。地球も人類も破滅させることが出来るような知識まで作り上げてきました。知識は文化の源でしょうが、そんな知識も「文化」の中に入るのでしょうか。

 今多くの人びとは平昌オリンピック熱狂し、感激し、感動しています。オリンピックは、何故にこれほど人々を感動させるのでしょうか。
 私はその根底に、オリンピックこそまさに「競いの文化」代表的存在だからだと思っています。

 人間の「人に勝ちたい」という気持ちが人類の進歩発展の原動力であることは明らかでしょう。そして、その最も人間らしい発露の代表的なものがオリンピックだからでしょうか。勝っても負けてもそこには清々しい人間性の発露があり、人の心を感動させます。

 ギリシャの古代オリンピックでは、オリンピックの期間中、戦争は止めた(聖なる休戦)と言われています。「競いの文化の祭典」の時は「争いの文化」は封印したという事でしょう。 
 古代ギリシャ人は「競いの文化」を「争いの文化」の上に置くべき、より高度な文化と考えていていたのでしょう。

 さらに言えば、「競いの文化」は、互いの存在を認め合い、互いに高め合う原動力になります。「争いの文化」は相手の存在を認めない破壊の文化に堕していくのです。

 平昌オリンピックの数かずの感動的なシーンを見ながら、今、私は「争いの文化」と書いた事を些か反省しています。比較して解り易いと思って書いたのですが、今言いたいのは「争いの文化」は文化ではない「文化を突き崩す破壊への道だ」という気持ちがますます強くなるからです。
 皆様は、「争いの文化」について、どんなふうに感じておられますでしょうか。

仮想通貨のつかいみち

2018年02月11日 12時38分05秒 | 社会
仮想通貨のつかいみち
 マウントゴックスに続いて、今度はコインチェックの事件が発生し、仮想通貨の闇はますます深くなるようです。

  ビットコイン雑感でも書きしたが、仮想通貨なるものが、いったい何に使われるのかという問題が、今に至る何も整理されていないような気がします。

 マウントゴックスのCEOは堂々としていて、会社更生法でなく民事再生法で再建を図るという事のようでしたが、その後ニュースもありませんから、私などには知る由もありません。

 ただ、ビットコインの値段が$100にもなったので(1年で10倍ほど)、十分再生は可能ではないかといった意見がどこかに出ていたのを見た覚えがあります。
 $100というので正直びっくりしていましたら、このニュースの影響でしょうか、そのすぐ後、$200にまで上がったようです。その後はいろいろあって大幅下落ですが、それでも$70~80でしょうか。

 こうした仮想通貨はブロックチェーンデータベースという技術で安定性を待つことが出来るという理論のようですが、それ自体は「金」に似た安定性を持つとしても、現実には、一般的に利用される各国通貨との交換比率が異常な変動をすることは避けられませんから、(決済が簡単だからなどと)現実のビジネスに活用されることは恐らく「無い」に近いのではないでしょうか。

 結局、仮想通貨の使い道は「投機対象」という事になってしまうという事は開発者のサトシ・ナカモト氏は知っていたのでしょうか。
 日本でも、若い人たちの投機の手段が主という事のようです。

 IMFや各国の通貨当局に相当する組織が無くて、健全に運用できる通貨という理想は、現状ではとても叶わない夢という事でしょう。
 ハッカーによる問題というのは、一般の通貨システムでも起きうる問題ですが、その防衛システムも、仮想通貨の場合、まだまだ弱いところも多いのでしょう。

 ギャンブルと割り切れば、面白い対象かもしれませんが、現状ではその域を抜けられないようです。
 将来は有効な通貨になりうるといった意見もあるようですが、そのためには、多くの社会ステムの進歩や技術開発のハードルがあるのでしょう。

 ますます経済のギャンブル化が進む今の世の中です。このままでは仮想通貨が本当に「通貨」の役割を果たすことは多分ないでしょう。
カジノでなくてもできる「何も実体のない」ギャンブルの対象に堕する、といった気がするのは私だけでしょうか。

人間と資本:資本蓄積の行き先

2018年01月21日 12時47分05秒 | 社会
人間と資本:資本蓄積の行き先
 人間と資本の問題を書き始めますと、書くことはいくらでも出てくるように思います。それだけお金と人間は切っても切れない種々の因縁でつながってしまっているという事なのでしょうが、一応今回でキリにします。

 かつて「 確定利付きへの郷愁」を書きましたが、今は、そうした安定貯蓄の手段はありません。かつて、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」などと言われた時代(岩戸景気1957-1961年の頃)がありました、景気のいい時は株価が上がります。しかし40年不況で家は暴落、山一證券はつぶれそうになりました。

 その後いざなぎ景気(1940年末-1970年)があり、オイルショックの不況の後、ご記憶のバブル経済があり、その都度株価は上げましたが、後には暴落が控えていました。最近また株が上がっていますが、日本人はやはり証券より債権が好きで、国債、銀行預金といった確定利付き方式の貯蓄が好きなようです。

 しかし現実を見れば、確定利付きと言っても利息は殆どゼロ、かつての定期預金年率5.5%などは夢のまた夢、国債と言っても、途中で換金すれば、元本割れもあり得ますし、定期預金と言っても、昔と違ってペイオフの対象ですから、本当に元本保証という貯蓄方法がなくなっています。

 それならとタンス預金がはやるようですが、(冗談で言えば)振り込め詐欺やゴミの中から数千万円の札束などという事にもなりかねません。
 貯蓄が増えるほど、国も金融機関も、元本を保証してくれなくなり、貯蓄の安全な維持が難しくなっています。

 高利回りで確定利付きですと言われてよく聞けば、外貨建てで為替のリスクはついて回ります。しかも国全体として貯蓄過剰の日本ですから為替変動はどうしても円高の方向で、外貨建ては危険です。

 蓄積社会(個人)が、蓄積から安定したリターンを得て楽して暮らすという事は現実にはなかなか難しいことのようです。
 話を矮小化しますと、当面する高齢化による長い老後をどう暮らすかというのが、今の日本社会の大きな問題ですが、貯蓄に関して言えば、過剰なため込みは避けたほうがいいようです。

 そのためには、社会保障制度をより充実したものにすることも必要ですが、元気な高齢者に積極的に働いてもらうという事も大事でしょう。 幸い、日本人は高齢になっても働き好きで、高齢者の就業率は主要国の中でも昔からダントツです。


 要は、長期不況の中で強くなった先行きへの不安・不信から徐々に脱却し、消費と貯蓄のバランス(今日と将来のバランス)を少し変え、今の生活の充実に重点を移すことで、日本経済自体がバランスを回復、安定成長路線を回復、経済成長の中から蓄積を活用したリターンが得られることを実感することが大事でしょう。

 国民の指向、国の雰囲気をこうした方向に変えていくことこそが、今必要な経済政策(社会経済政策)ではないでしょうか。
 残念ながら、今の政権はそれに巧く成功していないようです。

人間と資本の関係:中心はどちら

2018年01月16日 16時53分47秒 | 社会
人間と資本の関係:中心はどちら 
 太陽が地球の周りをまわっているのか、地球が太陽の周りをまわっているのかは、ガリレオとローマンカトリック教会の対立でしたが、今日の企業社会で、人間が中心か、資本が中心かと言いますと、結構論争のある所ではないでしょうか。

 企業は株主のもので、株主の利益が最も大事というのは、伝統的な欧米流の企業(株式会社)の在り方のようですが、企業が欲しているのは、株主という人間ではなくて、株主の提供してくれる資本でしょうから、株主という個人の顔は消えて、提供された資本に忠実に収益(資本の増殖)を齎すのが企業の果たすべき役割という事になり、矢張りおカネが中心か?という事にもなりそうです。

 しかしもう少し遡って考えると、人間が共同作業で採集や狩猟、さらには農業などで富(資本)を増やし、さらには企業(代表が株式会社)という組織まで作り上げてきたのは、生産活動の技術とシステムの進化でしょう。

生産活動を進化させてきた理由は「豊かで快適な生活をしたい」という人間の願望がすべての源ですから、やっぱり企業活動(生産活動)の中心は人間だという事になります。

 さらに考えてみれば、地球環境というのは「自然が用意してくれた」資本です(神様が与えてくれたと考えても同じですが)、これは無償供与です。仏教流なら「地水火風」でしょうか、これらは万人に共通・共有です。
 つまり、土地と水、それに空気と太陽エネルギーです、この自然からの無償供与を人間が自由に使って生産活動をしてきたのです。

 人間社会はどんどん進化し、共同体生活から国が出来、株式会社という組織まで考案し、それが生産活動の高度化に大変便利な組織になるよう進化させてきました。
 そして国でも株式会社でも、人間は役割分担をすることが生産活動の効率化を進めることを発見しました。(例えば、アダムスミスの分業論『pin factory』など)

 人間は貨幣を考案し、経済価値の尺度、交換の手段、価値の貯蔵といった役割を貨幣に果たさせることが出来るようになりました。
 そして多分、貨幣の役割と、人間に役割分担のシステムが多様に組み合わされて、資本家や労働者も生まれ、その中から「経営者」や「労働組合」といった関係も生まれ、経済学は1人の人間を、生産者と消費者に分けて分析し、経営学や、労働経済学は資本家、経営管理者、労働者(労働組合)に分けて行動科学などを展開することになったのでしょう。

 しかし現実には、1人の人間が生産者であり、消費者であり、資本家(株主)でもあり、経営管理者と同時に労働者であったりするのです(生活者)。
 冒頭にあげた、資本が中心か人間が中心かといった二分論は、本来は人間が主体で、資本は(意思など持たない)客体、人間が資本を使って生産活動をするというべきなのでしょう。

 ただ、人間の役割分担が、カネ(資本)との結びつき具合で、時に軋轢を生じ、役割意識が、資本があたかも独自の意思を持つかのように擬人化されたりするのです。
すべては人間の中の事で、権力(重要な役割)とカネ(資本)に過度に執着する人間がいたりすると資本が主、人間が従といった錯覚が起きたりするのではないでしょうか。

人口論議と合計特殊出生率

2017年12月29日 15時21分31秒 | 社会
人口論議と合計特殊出生率
 このブログでは、ずっと「合計特殊出生率」の動きを追ってきました。
 高度成長時代末期から高齢化問題が言われ、それが少子・高齢化問題になり、人口減少問題になってきたというのが従来の動きです。

 日本の合計特殊出生率は戦後のベビーブーム時代以降一貫して下がり続け、今世紀に入っても2005年までは下がり続けました。
 合計特殊出生率というのは、ご承知のように、1人の女性が生涯に産む子供の数を示す数字で、2.1人ぐらいでないと人口が減るという事になります。


 2005年の1.26人という数字は「1.26ショック」などと言われたショッキングな数字で、このままいくと、将来日本人はいなくなるなどと言われ、日本中が合計特殊出生率の低下を心配する雰囲気になりました。

 そのせいかその後はこの数字は徐々に回復をはじめ、1.4人台まで回復してきています。2.1人にはまだかなりありますが、多くの予測では、この回復はまだ続いていくだろうという事のようです。

 少子化は高齢化に繋がり結局人口減少につながるわけですから、高齢化は社会保障問題を難しくし、人口減少は経済成長を困難にするという事で、政府も当然心配しています。

 しかし見方はいろいろあって、狭い日本に1億2千万人は多すぎる、8千万人ぐらいが丁度良いのではないかとか、人口が減っても、1人当りの数字が高くなれば、暮らしは良くなるから問題ないなどという意見もあります。これも量から質への転換でしょうか。

 常識的に考えれば、人口が増えるにしても減るにしても、急激に変化すると、社会システムや人の意識が追い付かず、いろいろ問題が起きるので、あまり急激に変化するのは良くないといったところでしょうか。

 その意味では2006年以降の合計特殊出生率の上昇は歓迎すべきことで、さらに当面1.8人ぐらいまで上がり、その後はその後で改めてより良い方向を考えるなどと言うのが良いのかななどと言った意見もあるようです。

 ただ、問題は、合計特殊出生率といった数字は、政策でどうなるといった数字ではないことでしょう。
 世界では出生率が回復した国の例として、フランスやスエーデンの例が挙げられますが、フランスでは世界一手厚いと言われる子供手当制度を実施しても何十年も出生率は上がりませんでしたし、スエーデンで出生率が上がって来たとき専門家の方にお伺いしても、「理由は良く解りません。ただ、そんな雰囲気になってきたことはありますね」などと言った返事でした。

 今日本で出生率が上がってきている理由も、誰もうまく説明できないでしょう。しかし上がって来ていることは、良い事だと思います、このまま、こんなペースの上昇が続いてくれればいいなと思っていますが、今年6月に発表になった2016年の数字は微減でした。

 最近の電車の中のベビーカーの様子とか、街を走る子供シート付の電動アシスト自転車の数などを見ていると、回復基調は続いているように思いますが、さて今後の「合計特殊出生率」の動きはどうなるのでしょうか。
 順調な回復傾向が続くことを期待したいと思っています。

活発な意見開陳を期待:経済界、労働界

2017年12月08日 23時08分50秒 | 社会
活発な意見開陳を期待:経済界、労働界
 「忖度」も流行語大賞に輝いたようですが、忖度ばかりして自分の意見を言わないというのも、あまり健全ではないようです。

 このブログの主要テーマでもある経営や労働問題、労使関係の世界でも、特に忖度とは関係ないのかもしれませんが、今迄、あまり本音の意見が聞かれなかったような気がします。ところがこのところ立て続けに、「やっぱりはっきり言ったな」というような声が聞こえてきて、何か安心したというのが、私が受けた感覚です。

 前回は金属労協の議長が、官製春闘もいい加減にしたらといった意見を表明したことを取り上げましたが、今日はJAM(モノづくり産業労組)会長の安河内氏が、経団連が企業に3%賃上げを求めるらしい(詳細不明)ことに対して、「私の印象としては少し的外れ」と言われたとの報道もありました。

 労組が賃上げについて経営側の意見に反論するのは、昔から当然でしょうが、連合のベア要求が2%で経団連が賃上げ3%という事ですと、まさに春闘も主客転倒ということになりそうですから、私共も、相当の違和感を感じます。

 連合の神津会長は、安倍総理と会い、連合の2%賃上げの説明をし、十分に理解し合うことが必要という事で意見が一致したそうですが、政府の3%賃上げ要請が先に出されていること(ベアと賃上げは違いますが、正確には説明できないものです)との関係は、どういう理解になったのでしょうか。

 政府は3%賃上げ要請とともに、企業に対しては、人づくり予算の足らずまえ、待機児童対策の3000億円を企業負担でと要請し、経団連はOKしたようですが、全国の中小企業も組織する日本商工会議所は反対を表明したとのことです。

 もともと経団連は、財界総本山などと言われますが、1500社弱の日本の主要企業をメンバーとする団体で、中小企業とはあまり縁がありません。中小企業を代表するのは商工会議所と言われますから、同じ財界団体といっても意見が違う事は、あっても当然でしょう。

 この問題は、大企業の業績が回復しても、中小の状況は厳しい、という状況を反映するものでしょうが、これについては財界よりも、連合の方が、明確な意見を持ち、毎年「連合白書」で、取引条件の改善で中小企業の経営改善が必要と発言していますし、前述のJAMの安河内会長も、「経団連は取引価格の抜本的な見直しを指示すべきではないか」と言っていると報道されています。

 大企業と中小企業の格差問題は、労使という枠を越えて、労使共通の問題という事になるようです。

 産業内部でも多様化する種々の問題を抱えて、それぞれの立場から、余計な忖度を排除して、それぞれの本音を率直に開陳することで、どうすればベストの結果が得られるか、真剣で本格的な議論につながり、それによって、より不満の少ない、良い社会がを実現することになれば素晴らしいことです。

 その意味で、こうした本音の発言が出ることは、何か良い兆候ではないかと感じるところですが、さて結果はどうでしょうか。

マネー経済と勤労感謝:マネーにならない勤労にも感謝を

2017年11月28日 12時31分47秒 | 社会
マネー経済と勤労感謝:マネーにならない勤労にも感謝を
 先日、勤労感謝の日に、人類は発生以来豊穣を求めていて、豊穣(豊かさと快適さ)を実現するのは「勤労」だという事を経験から知り、勤労、働くことを大切にしてきたのだろう、そしてそれが勤労感謝の日につながっているのでしょうと書きました。

 あの時、書こうと思っていて、多少趣旨が違うのでまたの機会と思っていたのが、勤労とおカネの関係です。おカネにならない勤労も沢山あるからです。
 
 現政権の「一億層活躍」などと言うのもそうですが、勤労とか働くという事は収入につながらないと「経済計算」には乗ってきません。
 家事労働を経済価値に表したら、GDPはうんと大きくなるなどとは昔から言われますし、専業主婦でも財産は分与されますが、経済的な価格評価はされません。

 現実の社会では、出来るだけ報酬のある仕事について、家事、育児、介護などは、専門業者に外部委託という形が進んでいます。確かにその方がGDPは増えます。
 自分の家族の弁当を作っても「一億層活躍」には入らず、お弁当屋さんで働いて、他人の弁当を作れば「一応総活躍」の中に入るという事になっています。

 こういう計算になるのも、勤労という事をすべてカネで測るのがマネー経済だからでしょう。
 おカネ、マネーが一般的でなかったときには、物々交換で等価値と判断する物と物との交換をし、また「一宿一飯の恩義」ではありませんが、勤労と等価値と判断する「働きと物の交換」や「働きと働きの交換」などが一般的だったのでしょう。

 こういう世界は実は価値判断が曖昧で、等価値という判断はいい加減だったでしょうが、マネー経済では、市場で価格が決まるので、その点では大変便利です。

 そういう意味ではマネー経済は明らかにより合理的で、大変便利です。しかし人間というのは不思議なもので、合理的と判断しながらも、何かそれにプラスアルファの要素があると、何かほっとするという所があるようです。

 これは「取引と贈与」などという形で言われますが、マネーの合理性と、贈与という人間の気持ちに働き掛ける価値とを、どこかで、うまく組み合わせているのでしょう。

 ボランティアも英語ですが、欧米には「寄付」の文化があります。取引中心の世界に、何か人間の心を持ち込むためでしょうか。
 
 経済学ではマネーがすべての仕切り役ですが、現実の人間の経済社会にはそれでは計りきれない潜在的経済価値が沢山あります。

 「内助の功」などと言う言葉もありますが、こうした潜在的な経済価値の計測は難しいとしても、そうした価値も積極的に認めて、大事にするような雰囲気の社会の方が、マネー経済の価値判断すべて整理しようという社会よりも何か暖かく、良いような気がするのですが・・・。

勤労感謝の日、今日は何をする日?

2017年11月23日 10時50分14秒 | 社会
勤労感謝の日、今日は何をする日?
 今日は11月23日、「勤労感謝の日」です。 政府によれば、「勤労感謝の日」は、「勤労を大切にし、生産を祝い。国民が互いに感謝しあう日」だそうです。

 なんだか良く解りませんが、働くことは良いことで、みんなが夫々に働いていることの意義を認め、自分も含め、みんなの働いていることに感謝しましょうという事でしょうか。

 折しも今日は朝から雨ですから、毎日よく働いている自分に感謝し、今日はゆっくりしようというのには丁度いいようです。

 もともと日本では、秋に収穫を祝う「秋祭り」があったわけで、その年の収穫を祝って神様に感謝すると同時に、お祭り(休日・レジャー)を楽しむという習慣がありました。
 こうした習慣は、世界の多くの国にも共通で、一般的には収穫祭とか感謝祭と言われています。本来は「豊穣は神様のお蔭」という人間の素朴な気持ちの表れでしょう。

 余計なことですが、何処の国でも、多雨や旱魃、台風やハリケーンが来ると大変で、気候が順調であるように、神様に願ったのでしょう。今の世界は、そういう行事をしながら、一方では気候変動を促進し、収穫にダメージを与えるようなことも多く困ったものです。

 ところで、思い出しますと、私が小学生(国民学校生)の頃は、秋になると「神嘗祭」10月17日と「新嘗祭」11月23日があり、神嘗祭は神様(天照大神)が新米を召し上がる日で、新嘗祭は、天皇陛下が新米を召し上がる日と教えられていました。

 勤労感謝の日は、新嘗祭を受け継いでいるようです。勤労感謝の日には宗教色は全くないのは政教分離から当然でしょうけれども、勤労感謝の日が、なぜ秋のこの時期なのかを考えれば当然気付くことですが、もともと人間は豊穣を願い、収穫を神(現象としての自然・気候)に感謝していた謙虚さに思いを致すことも大切でしょう。

 原始の農業から出発し、今日の複雑な産業社会に至っても、豊穣は「地球環境」と「人間の勤労の在り方」によるのでしょう。
 産業社会が複雑の度を増すにつれて、その中でいろいろな問題が発生してきていますが、働くことによって豊かで快適な社会を作り上げたいという気持ちは、昔の秋祭りでの人間の思いと同じなのでしょう。

 ならば、人間は、あまり思い上がらず、謙虚に、自然、地球環境と共存、共生し、自然そのものを豊かにし、それによって、自然の恩恵をより良く受け取れるような勤労の仕方を考えるべきなのでしょう。

 豊穣な(豊かで快適な)社会に向かって努力していくのが勤労の本来で、勤労感謝の日も、そうした意味合いの中での勤労に感謝する日と考えたいと思うところです。

消費税の利点・欠点

2017年11月22日 10時22分03秒 | 社会
消費税の利点・欠点
 日本政府の税収は圧倒的に不足しています。前回も書きましたが、今政府の収入となる「税と社会保険料の合計は、 国民所得の40%ほどで、実際に政府が使っているのは、それに国債発行で国民から借りる分を足してほぼ50%です。

 つまり、国民所得の1割ほど収入が不足しているわけで、今年度の政府経済見通しによりますと今年度の国民所得は377兆円ほどですから、38兆円ほど不足しているという事です。

 2019年に予定される消費増税で約6兆円税収が増えることになっていますが(消費支出300兆円×2%)、赤字財政脱出のためには12.7%ほど消費税を引き上げ、20.7%にしなければならない計算です。

 2%の消費増税をする・しないで、これだけ大変なのですから、日本の財政再建がいかに難しいかということが知られます。
 
 消費税というのはこういう具合に、個人消費が経済成長率と大体同じように増えますから、どれだけ増税すればいくら税収が増えるという見当がつきやすいのは利点で、国民にとっても、解り易いわけです。
 
 所得税や法人税は、景気の良し悪しで急激に伸びたり、伸びなかったりしますから(その関係を租税弾性値と言います)予測がしにくいのが欠点です。

 一方、消費税は、収入があっても、使わなければ払わないわけですから、収入の多い人でも、貯金した分にはかかりません。収入の多い人の方が貯蓄性向は高いですから、収入の多い人の負担率は軽くなります。消費税が逆進的と言われるのはそのためです。

 格差社会化阻止の効果は消費税にはありません。これは所得税などの方で累進税率を使って考えなければならない問題です。

 消費税でも、低所得者のために食料などの生活必需品の税率を下げるのがいいという公明党などの主張で、政府は複数税率導入を言っていますが、これは、正確な課税の困難性、行政手続きの複雑化のコストなども含め、疑問が多い考え方です。

 消費税の一番の利点(政府にとって)は、所得税のように、直接の負担感がなく、単に物価が上がったような感覚で、みんなが同じ8%、今度上がれば10%を、払ってくれるという所にあるのでしょう。

 そうした性質の消費税ですから、大事な事は、それを政府が使う時に、本当に困っている人に役立つような、つまり所得格差を是正し、格差社会化を防ぐような使い方をすることが大事でしょう。
 
 これからの社会を良くするためには(ピケティは、格差拡大は避けられないものだといいますが)、日本では、格差拡大を阻止して、中間層を出来るだけ厚くし、かつてのような「一億総中流」を自認するような社会を作ることが出来ますよ、と世界に見本を見せられるような実績を作るように、政府の舵取りをお願いしたいものです。

現在と将来の両立

2017年11月17日 17時13分46秒 | 社会
現在と将来の両立
 人間は、過去という記憶を蓄積して現在に生きています。そして必ず将来を持っています。現在は、過去の時点では将来でしたが、現在はそれが現実になって確定しています。

 現在は多種多様な要因の影響を受けながら、かなりの部分、自らの過去の行動によって規定されてきているようです。

 例えば、安倍総理の現在は、日本の総理大臣として、日本という国をリードする立場に立っています。これは多くの偶然に影響されながらも、自らの過去の中で、いつかこの地位に就くことを夢見て積み上げてきた行動に大きく依存しているでしょう。

 勿論同じような行動を積み上げて来ても、そうならない場合もあります。結果は多様な偶然にも大きく影響されるからです。しかし、本人が失敗しなければ、目指す所に近い、これでもまあいいかといった所までは達する可能性が高いようです。

 逆に、今は過去である当時の現在において、何らかの原因で、将来を考えない行動をとったことによって、それまで考えていた将来が全く実現不可能なるという場合も非常に多いのが人生でしょう。
 最も極端は場合は、現在の衝動に駆られて、自殺をすれば、その時点で将来は無くなります。

 動物は、その発生以来、本能に従って、生き延びることを次第の目的にしてきました。人間も、A.マズローの欲求5段階説ではありませんが、先ずは生理的欲求、安全欲求、つまり生存欲求から出発するのでしょう。具体的に言えば、食べるものがない、何かに襲われないかという不安から逃れる欲求です。それが可能になって、はじめて将来がある事になります。

 こう考えてみると、将来において過去となる現在の生活において、常に将来のことを考えて行動(生活)することが必要なことは当然です。
 しかし、困ったことに、あるいは不思議なことに、人間は、往々にして、現在にばかリを重視し、将来のことを考えない行動をとるのです。

 怒りに任せて人を傷つけたり、今、カネがないからと盗みをしたり、先ほどの自殺の例もそうです。
 確かに現在は重要です。人間の生きているのは現在です。しかし、将来は、何時か現在になるのです。そしてその将来は、現在の行動に大きく依存しているのです。

 という事になると、将来を破壊するような現在の行動は、将来の有ることを忘れた行動、結局は、長期的視野を欠く思慮深さのない行動ということになります。
 やはり人間は、どんな場合でも、現在と将来を両方見ながら、行動が出来ないといけないのでしょう。

 人間は長く生きるのです、今の政府は100年と言っています。その中の各時点である現在において、人間は常に「現在と将来の両立」を意識していないといけないのでしょう。

 その上で、問題は、現在において、「現在と将来のバランス」をどう考えるかです。刹那主義や享楽主義も、極端な先憂後楽も、良いバランスではないようですが、このバランスはまさに個々人の人生観、生活設計の在り方によるのでしょう。

 この問題意識は、個人の人生だけでなく、企業の行動から国際関係まで、多くの場面に共通のような気がしています。

格差社会化を防ぐ所得税改革を

2017年11月16日 13時29分09秒 | 社会
格差社会化を防ぐ所得税改革を
 政府与党は来年度の税制改正で、サラリーマンの給与から一定の金額を控除する「所得税控除」について、収入の高い人に適用される控除額を見直し、高所得層の控除を縮小することの検討に入ったようです。

 併せて、収入のある人すべてに適用される「基礎控除」を増額するという方針とのことです。
 
 給与所得税控除は最低65万円から、所得に応じて増加し1000万円以上は220万円という事になっています。これを一律(一定額?)引き下げて、それで浮いた財源を基礎控除の増額に充てようという事と報道されています。

 給与所得控除の最低額65万円がいくら減額になり、基礎控除がいくら増額になるかはわかりませんが、基本的には低所得者にはプラス、高所得者にはマイナスの効果を重視し、格差社会化の傾向の出ている近年の日本社会の進行方向の是正措置の一環という事でしょう。

 政府がこうしたことも含めて、格差社会化阻止に動くことは極めて歓迎すべきことです。もともと、日本社会は、地域においても、企業においても人間集団としての在り方を重視し、人間同士の相互理解、その基礎にもなる共通の意識を大事にしてきた伝統があります。

 現政権も、格差社会化にはかなり気を使っているようですが、世界の傾向が、広く格差社会化に向かっているような状況の中で、迷いもあるのでしょうか。
 本来ならば、 所得税の累進課税の上限(昭和45年75%、現在45%)を、昔ほどとは言わないまでも、もう少し引き上げるような英断も必要なのかもしれません。

 もともと、この上限を引き下げについては、アメリカのレーガン税制改革で、税率のフラット化などという意見があったことにも影響されてのことだったと記憶しますが、アメリカ社会の成り立ちと日本社会とは違います。

 付け加えますと、企業の賃金制度においても、本来、日本企業は 企業内の賃金格差が無暗に拡大しないことを重視してきましたが、結果重視、成果主義、などという欧米方式を見習い、また経営者の巨大報酬などに影響され、格差拡大に、少しづつ無頓着になる傾向がみられるように思えてなりません。

 格差社会の進展は、人間社会の融和を阻害し、社会を不安定にして、歴史上の結果を見ますと、社会構造の混乱、多様な争いの源になっています。
 標記税制改革でも、国民に政府の格差拡大阻止についての明確な意図を浸透させるものにしてほしいと思う所です。