宮崎駿監督が考えるアニメ映画のあり方についてごく簡単に示す。
宮崎氏とって「アニメーション映画」はすなわち「漫画映画」なのである。ターゲットは未就学児童を含む幼い子どもたちだ。
そして、宮崎氏にとってその子どもたちが「アニメ映画」を映画館で鑑賞する回数は年に1~2回だけであることが理想であるとし、子供が帰宅してから「あれは何だったんだろう?」と思いを巡らしながら記憶と想像の世界で作品を反芻し、イマジネーションを膨らませる・・・そのような形態が理想なのだ、と考えているようである。
確かに子供たちの想像性や創造性を育むにはそういった環境は良いのだろう。筆者の小さい頃も概ねそういった環境だった。
だがしかし・・・。
これは宮崎駿氏が子供だった時代の環境下・状況下での話であって現代のそれとは根本的に違う。「自分の子供時代のスタイルが正しい」「自分がそうだったから、今も同じであれ」というのは「時代錯誤の押し付け」と言えよう。自分が体験してきたスタイルが唯一の正義であり、それ以外のあり様は認められない(想像できない)・・・人間というものは、ついついそのように考えてしまうものであり、それは判らなくはない。だが、この話は彼の幼少時代の環境(社会状況)に於いては”そうだった”、ということでしかない。外での娯楽は映画、家の中での娯楽はテレビがメインであった時代のあり方はそうだった・・ということでしかない話なのだ。
言うまでもなく社会は進化し続けており、社会状況も変化が著しい。アニメ作品は既に子供だけでなく大人の鑑賞に耐えうる芸術の一分野になり得ている。宮崎氏が考える「アニメ映画」を鑑賞する理想形態が先に述べたようなものであったとしても、今の時代にそれを押し付けるのはどだい無理というものである。しかもアニメーション・漫画映画は世代や国境・人種も越えて普遍性を持ちつつある。
宮崎氏は子供から『「トトロ」を数十回見た』などと言われたりするのが非常に嫌なのだそうである。「アニメなんて年に一回だけ見れば良いんだ」と。冒頭に記した「子どもたちがアニメ映画に触れる理想形態」から考えれば、確かにそうなのかもしれない。(*1) だが、今は宮崎氏が子供だった時代とは何もかもが違うのだ。今は今の時代に即した作品への向かい方や鑑賞方法、そしてその作品のエッセンスを自分の中に取り込む方法というものがある。それは恐らく時代の中で自然に生じてくるものなのだろう。DVDやブルーレイディスクといったメディアは宮崎氏の幼かった時代には存在しなかったものだ。各種のデジタル機器やインターネットという通信環境も含めてそうだ。それらが当たり前のように存在している現代で宮崎氏の少年時代と同じスタイルを求めてもそれは無理である。無意識が好む作品、好きなものは何度でも見たいし体験したいのである。それは人間として当然の欲求であり行動だ。
宮崎氏が考える理想的な形態をもう一度社会に根付かせる事は不可能である。それでも宮崎氏はその時代への憧憬を捨てられず、「こうあってほしい」という願いを持ち続けている。これは半分推測だが、もし可能であるなら多少無理にでもそうした社会にしたい願望を宮崎氏の言葉の中に感じたり読み取ることもできなくはない。事実、宮崎氏が発した他の言葉からもそうした現代のスタイルについての反発・批判・否定、といった感情は伝わってきているのである。しかし、無理に宮崎氏の幼少時代のスタイルを押し付けるなら、そのやり方はまさに共産主義独裁国家のやり方であり、それこそ独裁国家というのは国民生活のあれやこれやにいちいち口を出し、箸の上げ下げですら「あーせい、こーせい」と共産党に指導されるのだ。つまり共産党トップが指示する通り(共産党トップの好みの通り)に生きなければいけない…そういう世界である。
なぜこんな推察をするかといえば、宮崎氏は東映動画に入社した若いころから共産主義思想を信奉しており、バリバリの共産主義者だ。それ以降、共産主義社会を理想とし続けている、という事実がある。共産党の政党機関紙である「赤旗」にも漫画を連載していたほどだ。ちなみに初期の傑作である「太陽の王子ホルスの大冒険」は宮崎氏や高畑氏が理想とする共産主義社会の具現化でありプロパガンダでもある。だが、今や「世界のMIYAZAKI」であり、資本主義の恩恵を数多受けてきていることから、彼の中では迷いもあるようだ。
しかし、だ。
ドキュメンタリー等の中で宮崎駿氏が語る言葉の端々から、そんな共産主義社会への憧憬を捨てきれていないように感じるのは筆者だけではないだろう。事実、インタビューなどでもそうした趣旨の発言はしている。左派系の人間が局内に多いNHKが好んで宮崎駿監督のドキュメンタリーを作りたがるのもこうした思想的な共感が背景にあるからではないか、と筆者は考えている。そうでなければNHKのディレクターが宮崎氏に個人的に取り入ろうとあそこまで必死にはならないだろうからだ。宮崎氏が左翼側に傾いている限りは(左翼姿勢の濃い)NHKは宮崎氏に擦り寄る姿勢を変えないだろう。
今回の記事は宮崎氏の作る映画の内容や価値には一切触れていない。筆者は宮崎作品が大好きだ。「未来少年コナン」で見せた人間社会への洞察と優れたSF性、「カリオストロの城」などで見せたあの圧倒的なエンターテインメント性(*2)は見る者に「日本にもこんな凄い映像作家が居たのだ」という強烈な衝撃を与えるのに十分なものであったし、やがて世界は嫌でもその存在を認めざるを得なくなったほどである。
だが、NHKのドキュメンタリーの中で宮崎氏は「俺は今の時代に合わせて生きる気はないから」と明言している。昔、若い頃の宮崎氏は「自分が作るものが時代の価値観とずれてきたら、その時が”創る事をやめる時”だ」とも発言している。最新作はアカデミー賞を受賞しているが、国内では賛否両論あって、皆が両手を上げて歓迎している状況でもないのが実情である。もちろん質の高い作品であることは間違いないのだが。今の宮崎作品は若い頃のそれとは相当質が変わってきている。それは黒澤明監督の晩年の作品が若い頃のそれに比較して変質してしまった事とある意味で相似性があるようにも捉えられる。加齢による(円熟を含む)必然的な変化というものが人間にはあるのだろう。昔の宮崎氏は黒澤氏の変質を批判的に捉えて否定的な発言をしていたのである。ところが、今の宮崎氏は当時自分が批判していた黒澤氏のポジションに立たされているような気がしてならない。宮崎氏はそれを自覚しているだろうか。
そうは言ってもクリエイターというのは「(作品を)創り続ける事で生きている人々」だ。それは無意識的にそうなっているので、意識的なロジックでその生き方を変えられるものではない。それが人間というものである。加えて言うなら、凡人との差がここにある、ということか。今の宮崎氏に対しては毀誉褒貶入り乱れて様々な意見もあるだろうが、この偉大で稀有な才能がどこまで突き進んでいくのか、我々は見届けたいとも考えているのだ。
-----------------------------------------
(*1)
ビジネスとしてのアニメ制作者という立場から見れば矛盾するような見解ではあるが、その矛盾を矛盾として抱えつつも「そう考えている」そうである。
(*2)
1980年代だったと思うが、あのスティーブン・スピルバーグ監督が「なぜ自分はカーチェイスシーンを撮らないのか」という質問に対して、「”カリオストロの城”のカーチェイスシーンを越えるものは撮れないから」と述べたそうである。
.