「エモい」という言葉を最近よく聞く。
「エモ」とはもちろん英語の「Emotion」であり、通常は「感情」と訳される事が多い。だが、正しくは「情動」である。
「感情」と「情動」・・・何が違うのか?
「感情」とは「Feeling」であり、その意味を平易に言うなら「好き嫌いの価値判断を行う」心的機能である。何かを見て単にそれが「好き」か「嫌い」かを分けること、それが「感情」という心的機能である。それ以上のものではない。
そう考えると、「エモい」を「感情の動き」と解釈するのは何か違うようである。
「エモい」は「感情」と言うよりは「情動」の領域の問題であり、単に好き嫌いの価値判断だけでなく、それと同時に身体的にも影響が現れるような現象を言うのだ。音楽や演劇等の芸術を鑑賞して感動のあまり動けなくなってしまうような体験は「エモい」と言える。あるいは身近なところでは大好きな恋人の事を思うと心臓のあたりがキューッと締め付けられるように苦しくなる、いわゆる「胸キュン」現象は「情動」であると同時に「エモい」の実例の一つと言えるであろう。(*1)
このように「感情」と「身体的影響」が同時に現れるのが「情動」という心的機能であり、「エモい」はその領域の動きや変化を指す言葉である。
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(*1)
「情動」は生活や人生の中で色々な形で現れる。例えば、恐怖のあまり身体がフリーズして動かなくなってしまい貧血に似た症状が出たり冷や汗が流れ落ちたりする現象。このように気持ち/精神的な動きに同期して身体にも明らかな変化が現れる時、それを「情動」とか「情動が動いた」などと言う。医学的に言えば、精神状態の変化に合わせて自動的に身体の筋や腺に影響が出て、呼吸,循環,消化などの生理的諸機能に激しい変化が生じること、それが「情動」である。(*2)
「感情」はこうした身体的な変化を伴わない場合を言う。
(*2)
余談だが、仏教には「情動」に関連する言葉がある。「色心不二」がそれで、「色法」(=身体も含む物質的なもの)と「心法」(=純粋に精神的なもの)は別々のものだが、しかし分けて考えることはできない(二つのものだが、しかし一つである)と説いているのである。「二にして一である」という言い方をする。身体と精神はそれ自体は別々のものだが、しかし分けて考えず一つのものとして捉えるべきものだ、と言うこと。正に情動的な心的作用の領域のことを言っているのである。
「エモ」とはもちろん英語の「Emotion」であり、通常は「感情」と訳される事が多い。だが、正しくは「情動」である。
「感情」と「情動」・・・何が違うのか?
「感情」とは「Feeling」であり、その意味を平易に言うなら「好き嫌いの価値判断を行う」心的機能である。何かを見て単にそれが「好き」か「嫌い」かを分けること、それが「感情」という心的機能である。それ以上のものではない。
そう考えると、「エモい」を「感情の動き」と解釈するのは何か違うようである。
「エモい」は「感情」と言うよりは「情動」の領域の問題であり、単に好き嫌いの価値判断だけでなく、それと同時に身体的にも影響が現れるような現象を言うのだ。音楽や演劇等の芸術を鑑賞して感動のあまり動けなくなってしまうような体験は「エモい」と言える。あるいは身近なところでは大好きな恋人の事を思うと心臓のあたりがキューッと締め付けられるように苦しくなる、いわゆる「胸キュン」現象は「情動」であると同時に「エモい」の実例の一つと言えるであろう。(*1)
このように「感情」と「身体的影響」が同時に現れるのが「情動」という心的機能であり、「エモい」はその領域の動きや変化を指す言葉である。
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(*1)
「情動」は生活や人生の中で色々な形で現れる。例えば、恐怖のあまり身体がフリーズして動かなくなってしまい貧血に似た症状が出たり冷や汗が流れ落ちたりする現象。このように気持ち/精神的な動きに同期して身体にも明らかな変化が現れる時、それを「情動」とか「情動が動いた」などと言う。医学的に言えば、精神状態の変化に合わせて自動的に身体の筋や腺に影響が出て、呼吸,循環,消化などの生理的諸機能に激しい変化が生じること、それが「情動」である。(*2)
「感情」はこうした身体的な変化を伴わない場合を言う。
(*2)
余談だが、仏教には「情動」に関連する言葉がある。「色心不二」がそれで、「色法」(=身体も含む物質的なもの)と「心法」(=純粋に精神的なもの)は別々のものだが、しかし分けて考えることはできない(二つのものだが、しかし一つである)と説いているのである。「二にして一である」という言い方をする。身体と精神はそれ自体は別々のものだが、しかし分けて考えず一つのものとして捉えるべきものだ、と言うこと。正に情動的な心的作用の領域のことを言っているのである。