週刊浅草「江戸っ子瓦版」 -のんびりHiGH句な日々-

文学と食とRUNの日々を、PHOTO5・7・5で綴るエッセイ♪

江戸の暮らしぶり!

2011年11月22日 | ☆文学のこと☆

      

 ご存じ江戸は平安後期に江戸氏が居館を構えたのが始まりと説に云われている。太田道灌、扇谷上杉氏の知行を経て、家康公が東の都としようと苦心したうえに、実に260年余の太平が花開いたのだ

 裏店の長屋は、戸と畳、家財は個人の所有であった。建物の基礎が同じだからできたのであろう。地方から身をたてようと上京する独身所帯が多かった。自然、元手いらずの棒手振り商売から始めるのが目立ったようだ。長屋の障子戸には屋号を書いて、宣伝も兼ねていた。中でも、しじみ、あさりの棒手振りは安価に始められたからどの長屋にもいたようである。江戸は湾を目の前に発展した水の都であったのだ

                     表通りから裏店へ通じる木戸口

 町を隔てた町木戸と、表店から裏店へ通じる木戸の二つを抜けて、住民はようやく長屋へ帰ることができた。大家さんがいて、表札も掲げられている。怪しい人が来たら、目立ったことだろう。これも自衛手段に一つであったようだ


        師匠の家

 三味線や和歌などお稽古事を教えてくれる長屋。深川の資料館にあったのは女性のお師匠さん。裏店にも寺子屋はあったようだ

 寺子屋の形態も様々。裏店の女の子は掛け持ちで師匠のもとへ通っていた。さながら、現代の教育の基礎がこの時代にできていたのも皮肉なことである。勤勉さを求めるのはいつの世の親も一緒。これをもって日の本はエコノミックアニマルとなり、いまや欧米に追随するかのごとく浮沈に喘いでいる。                         

                  

 大店の家だろうか。立派なひな壇飾りの前で、女の子が着飾ってあられを食べている。男の子たちが力いっぱい打っているのはメンコか、コマか。いつの時代も子どもの元気は、働く大人たちの源なのだ。浮世絵にある、愛情溢れる母親たちのまなざしがあったかい

                       

 江戸の子どもたちは数え10歳頃になると丁稚奉公に出された。絵は小僧さんが酒を買いにいくよう使いに出されたのか。子ども心に外に出られるのは嬉しかったのではないだろうか。えらいよね、この頃の子どもたちは・・・。

 右はもう少し小さな男の子。ケンカして泣かされたのか、おっかさんに叱られたのかな

             水桶と柄杓    
                  へっついと洗い場

 表戸と上がり框の間に、へっついと云われた竈(かまど)や炊事場があった。下駄や草履をつっかけて、朝ご飯の支度をしたり、洗い物をしたのだろう。

 裏店の家の米は、天然肥料でできた玄米を長屋内の暇な男衆があいよとばかりに小遣い賃で搗いてくれた。このぴかぴかの精米したてを薪で焚いた白米は何よりの贅沢ではないだろうか 野菜も川(大川)向こうの村から、取れた無農薬の極上。白魚が泳いでいた大川や目黒川から、汚染の心配などいらぬ活きのいい魚やしじみが取れ放題だった

 肉などの栄養価や調味料を駆使した料理法はともかく、現代の食のほうが豊かとは、一概に云えないのではないか

                       一人分のお膳

 長屋でも一人ひとりお膳があった。狭いながらも決まった席に鎮座し家族団欒で食事をしていたようだ。お膳にすることで、一人分の取り分けもでき、かつ後片付けもコンパクトにできた。まさに理にかなった食事風景である。一汁、一菜に、江戸っ子は当時全国でも稀な白米を食した。これぞ江戸の狭い裏店の知恵。素朴ながらも、一人、レンジでチンするかぎっ子なぞはいなかった。なぜなら、一つの裏店全体が、家族も同然だったのだから。。

 
                    「新米を 頬張るほどに 脚気かな」
                               海光



2011年TOTAL RUN 1906.5km   11月22日現在