忘却への扉

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ようりょうで

2012-02-21 | 平和を
 いつもお世話になりっぱなしの、1番上の義姉はもう80歳半ばになるか。砲兵で牛馬のごとく人力で大砲を引っ張り押して運び中国の山野で戦った亡き義父の若い時代は、お国のために死ぬ人間にこそ価値があった。
 「生めよふやせよ」 死ぬための人作りから、後には「一億総玉砕」の滅茶苦茶を国民に強いる大矛盾のスローガンさえあった軍国主義は天皇主権の大日本帝国の頃。
 長女に続いて兄弟姉妹で敗戦後生まれは2人だけ、男子が少なく肩身の狭い思いをしたかも知れない。でも家では子守りに畑仕事に家事手伝い、子供たちも家族みんなで共に家庭を支えるのが当然の時代だった。
 口にはできないが上が女子で酷い戦地に行かずに済み戦死者を出さなかったのも幸せのひとつか。男も女も頼りになる働き手、仕事で汗をかけばほめられた。
 村でも高い場所にはあり、道路はずいぶん下にあった。日常の自給自足の分を別にして加工を必要な品と出荷は村内でできたが、曲がりくねった細く長い急な坂道を上り下りするのは大変だったはず。
 町の市場など作物を持って行くとなると何でどう運んでいたのか気になる。私も祖父の引くリヤカーを押して町まで行ったが、義父の家からだと倍以上の距離と標高差がある。
 義姉兄たちはそんな環境で育ち後継ぎの他は皆、低めの土地で暮らしている。先日義姉の家に寄ると、出荷する荷を動かしていてびっくり。
 1箱17~8㎏を3段か4段に積み上げた荷を1人でトラックの横まで移動させていた。「なんちゃ 大丈夫よ 要領やけんな」 でも80歳を超え、外出に手押し車は欠かせない。