みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『聖女の如き高瀬露』(増補版)の目次

2016-09-15 10:00:00 | 目次
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『聖女の如き高瀬露』の目次
はじめに
第1章 高瀬露に関して新たにわかったことなど
  「向ふの坂の下り口」に高瀬露の家
  宮澤清六の証言より
  下根子桜を訪れる露に賢治は感謝
  露の賢治に対する想い
  遠野時代の露の評判
  寶閑小学校時代の露の教え子に会う
  寶閑小学校時代の露は下宿していた
第2章 肝心の「昭和六年七月七日の日記」の危うさ
  「遠いところから一日に二回も三回も」は虚構
  検証もせず裏付けもないままに
  危うい「昭和六年七月七日の日記」の信憑性
  露に関するMの証言等は全て検証を要す
  「一九二七年の秋」と書くわけにはいなかった
  昭和2年の秋の下根子桜訪問Mには無理
  当時の『岩手日報』のMに関する記事
  不自然な「一九二八年」の表記
  実はMの「下根子桜訪問」自体が虚構か
  件の「下根子桜訪問」は全てが捏造 
  「ライスカレー事件」はあったのだが
  父政次郎の叱責が全てを語っている
第3章 昭和4年の場合
  昭和4年露宛書簡下書「新発見」?
  「新発見」の書簡下書はたして「昭和4年」か?
  「新発見」の書簡下書はたして「露宛」か?
  「昭和4年露宛」書簡下書は仮説の反例とならず
  「新発見」と嘯いたことの意味と罪
第4章 昭和5年の場合
  関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見
  『昭和五年 短歌日記』実は「昭和6年」用
第5章 昭和6年の場合
  憤怒の文字〔聖女のさましてちかづけるもの〕
  賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ
  思考実験<賢治三回目の「家出」>
  思考実験<賢治がちゑに結婚を申し込む>
  〔聖女のさましてちかづけるもの〕は伊藤ちゑ
  検証に耐え続けている「卵」
第6章 昭和7年の場合
  曾て賢治氏にはなかつた事
  賢治と中舘武左衛門
  中舘武左衛門宛書簡下書〔422a〕
  高瀬露の娘のある証言
  「若しや旧名高瀬女史の件」とは何か
  こうして全てが皆繋がった
第7章 捏造された「悪女伝説」
  <高瀬露は聖女だった>は妥当な真理となった
  今でも行われる拡大再生産の不条理
  なお繰り返されている「伝説」の再生産
おわりに

<資料>
  10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡
  参考図書等

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6 コメント

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お疲れさま (辛文則)
2014-08-21 16:23:04
  鈴木守様
   しばし御無沙汰しておりました。固より、追尾記録致しておりましたです。『聖女の如き高瀬露』という表題は、初お目見えでしょうか。M・T・Cなる人物評も前回より更に辛辣になった観感がありますね。こうなると、矢張り、〈アップル〉さんは措いておくとして、以後、不道不言を通して来た「帰謬法云々」なる論者の見解見得(けんげけんて)は気になる処ですね。しばしば、来花しておられるようですし。まあ、「強力なる論敵は自論自説を鍛える」ということで、「寛容さというリベラル」を保つというのも。
               文遊理道樂遊民 記
返信する
私は覚悟しました (辛様(鈴木))
2014-08-22 08:33:56
辛 文則 様
 お早うございます。
 こちらこそご無沙汰しておりました。
 そしてまだご心配をおかけして申し訳ございません。

 実は、過日遠野時代の露の教え子のお一人とお会いして、いよいよある覚悟をする頃かなと思っていましたところに、「昭和六年七月七日の日記」の日記における年号の奇妙な使い方等をこの度新たに気付き、私は確信したのです。そこにおける露に関連する記述、たとえば道で露とすれ違ったということも、その時に下根子桜を訪れたこと等もほぼ皆創作であったということをです。そこに綴られている少なくとも露関連のできごとは虚構だらけだと。
 そもそも、関連する著作を少し読んだだけでも露が悪女でないことはすぐ気付くはずです。実際、このことに関して話題になると、私の知っている周りの殆どの方が『ああ、あれは賢治が悪いのさ』と言います。露が悪いなどと誰も言いません。
 ところが、昨今でさえも活字上では悪女伝説がまことしやかに新たな人物によって語られております。そしてその際の典拠はおしなべて「昭和六年七月七日の日記」です。
 しかも、「「昭和六年七月七日の日記」における露関連の記述内容は検証もされず裏付けもとられていないままに書かれている上に、それを典拠とする著者も同様に全くそれらを為しておりません。上田哲以外には。ある意味、この「昭和六年七月七日の日記」の影響力は甚大でしたし、いまでもそうです。言い方を換えれば、Mが「昭和六年七月七日の日記」において露に関してかような創作をしなかったならば〈悪女伝説〉がこうまでは流布しなかったであろうことは間違いないはずです。 

 私は、賢治が聖人君子にされることはあったとしても、それだけであればここまでは拘ることはしません。しかし、そのあおりを受けて実は全くそうでなくて、それどころかその反対の聖女の如き人がその理由も根拠もないままに〈悪女〉にされ、いまでも相変わらず巷間そう思われていることに対して私はもはや座視はできません。しかも、上田哲亡き後、これは看過できないことであり、解決すべき喫緊の課題だということをtsumekusa氏以外には著名な賢治研究家の誰一人として声を発しておりません。一体彼らは露の人格や尊厳を何と考えてるのでしょうか。
 そのうちに、またあれこれツイッター上で騒がれるかもしれませんが、それは覚悟しています。謂われなき誹謗中傷を露が受け続けてきたことに比べれば、それは何でもないことです。
                                                               鈴木 守
返信する
論破や説破ではなく道破を (辛文則)
2014-08-22 19:39:49
  鈴木守様
  欧米流の〈ディベート(論討)〉、つまり、「反対論者を完膚無きまでに言い負かしてその利を得る」、つまり「理を得る」や「道を得る(道得:どうて・的確な言語表現の成就)」ではなく、「功利主義的な利害得失の為の争論技巧」としての〈ディベート〉の好悪や如何と、問われたなら「美(よ)しと作さず悪(にく)む可し」、ということに。大江健三郎氏や夏目漱石あるいは鈴木大拙そして井筒俊彦しなどの感化を得て、自他創出的なブレイクスル―を目指すが如き、〈あいまい:ベイグでもアムビヴァレントでもないアムビギュアスな〉な〈禅的ディアローグ〉に入れ込み出した因縁で、「アイマイなる道取(言語表現)「」を繰り返して来ましたが、小生の画風や彫刻の作風からも推察できると思いますが、小生の〈欲動(ドリーブ)〉は〈明晰志向〉ですし、その傾向は年齢進行と共にヒドクなって来ているように感じられます。そんな因縁で、説破や論破ではなく〈道破〉という「ハッキリと言い切る」という意味を持ちながら、〈自他創出的なディアローグ〉としての禅語に由来する古語を愛好するようになりました。〈道取〉や〈道得〉という道元用語に、「真偽二値形式論理による二項対立二分思考に礙る」よりは、「概念言語の多義性や両義性を許容する道理的思惟を目指す」といった立処に共鳴してきました。否応なく、功利主義が現実的な威力とならざるを得ない俗世的マジョリティへの〈コムフォーム:大勢順応〉〉からは距離を置かざるを得なくなりました。で、賢治の幸福観を、譬えば、「たとえ世俗的には不幸になろうとも慥の真理真実を索める求道なるや如何?」という考え方に近く、高瀬露は左様な賢治に惹かれた女性だったと仮定想定すると。伊藤某嬢やその他の関係者は、Mを含めて、時流や大勢への順応力を持ったあくまでも現実主義的な人々だったのだ、と。徹底した非戦平和自由主義的な〈モナド的個人性〉を気質として備えていた松本竣介と、その腹心の友舟越保武には、トルストイや武者小路実篤あるいは有島武郎にも通じる、そんな意味での「賢治の悲劇性」が観えていたのではないか、などと。高瀬露を「聖女の如し」と観てとるなら、賢治のことも、「聖人賢者の如し」でいいのではないか、というのが小生の賢治観です。但し、「二宮金次郎の如きが農聖なり」というが如き、俗世功利主義的聖者観によるそれではなく。固より、大正7年に、保坂嘉内への手紙での、「慈悲心のない折伏は功利です。功利は摩です。」という道取を道得としての賢治テクストと享受するなら、功利主義的聖人聖賢者観から観れば、「賢治はどうしようもない無用不材者(デクノボー)なるべし」、ということに。シニカルな目を働かせれば、〈露さん〉そして〈トシさん〉を例外として、「奴ハ木偶之坊ナリ」と。MやTや父・弟さえも。世俗俗世を生き延びんとする小生もまたその例外ではありません。ただ、「売れるだけの画は描きたくない」とか、「自然環境や動植物を美と作さん」とか、「哲学的リアルや科学的リアルを明らめたい」といった、凡そ、俗世的功利主義とは対立する嗜癖性もまた備えているということで。「ベイグ(滅茶苦茶)でもアンビヴァレント(両価的)でもなくアムビギュアス(両義的)な」にコダワリ抜いて来たのは、十五歳の頃、竣介の『生きている画家』なる道破と遭遇し、「如何なるか戦争と平和との間の因縁は?」と真面目に考え始め、「如何なるか人間性?」、「如何なるか人間的言語?」なとと問取を始め、〈ホモ〉が、〈サピエンス(考える)〉〈ファベル(作る)〉〈ロクエンス(言う)〉〈ルーデンス(遊ぶ)〉〈デメンス(錯乱する)〉〈カンターン(歌う)〉などなどの凡てに、〈ウォ―リア(戦き争う)〉が因縁性起付けられていると考えざるを得なくなってしまったからでした。産業、宗教、科学のみならず哲学や藝術さえも〈人間的戦争慾〉と無縁ではいられない、という洞見は、送籍者漱石、クウェーカー稲造、生きている画家竣介の仕事にハッキリと明らめのつく現象ですが、「賢治道得、つまり賢治詩や賢治童話には如何?」、と。アノカタは、「他人の尻馬に乗って浮かれ騒ぐ」ではなく、「〈人の心〉の治療と、賢治詩整理に携わってこられた方なのですから、やはり、それ相応の〈ディスクール〉を表明すべき〈義務〉は、……。「自由には義務が伴う」とは、世俗の言表ですが、〈自在自由(遊戯三昧)〉に伴うのは「世俗社会からの孤立という危険性」つまり〈孤独のコワサ〉。一方、〈義務〉を背負うべきは〈権益〉や〈利得〉そして〈権力〉なのだと確信します。自由と義務との関係付けは、〈権力側〉が〈百姓衆生(ひゃくせいしゅじょう)〉に〈権利権益としての自由〉を少しばかり分与してからのオハナシなのだと考え始めたのは十七歳の頃でした。で、東洋哲学では、老荘的自由や禅仏教的自由が、「逍遥遊にして知北遊なる遊」として伝承されて来た、のだ、と。新渡戸稲造、夏目漱石、西田幾太郎、鈴木大拙そして谷川徹三や高田博厚なども、そのことに覚醒した〈人人:にんにん・モナド的一個人〉だったのだというのが、六十七年目の而今の眼目という次第。尤も、この眼目、「あまりにもアナクロだ!」と論難されるのがオチ、と。しかしながら、「核Eの戦争利用より平和利用の方が遙かにアブナイ!ホントに気をつけてもアブナイ。」という事態が現実化した以上は。固より、そのワケは、「人間力には核Eの制御が可能である」という増長慢心と、「現代機械物質文明を維持するためには核Eの制御的利用は必要不可欠なのだという人間的常識」ということに。ここにも、究極的な人間的両義性難題が。西田幾太郎の〈道(ことば):言語ゲーム〉を語用すると、「絶対矛盾底自己同一なる難問」、が。「危険だったら廃棄すればいいじゃん」が通じない、「廃棄こそがその最難の仕事ナンデアル」ことを、百姓衆生の誰もが識るに至ったにも関わらず、……。
   またまたナガナガの文遊理道樂遊民流の道取でござりました。御免くださりませ。
                 2014,8,22  19:36

返信する
道破にはほど遠いのですが (辛様へ(鈴木))
2014-08-23 09:19:15
辛 文則 様
 お早うございます。
 本日の花巻はしばらくぶりに穏やかな天候です。
 一方の私は、ふうふう言いながら格闘しています。辛さんの格調高い文章に。

 さてそこで「論破や説破ではなく道破を」ということに対してです。折角ご助言をいただいたのですが、「道破」するというレベルのものは私には到底無理だろうなとすぐ覚りました。そのようなことができる能力も才能も元々ないからでもありますが、拙速でもいいから、この現状は看過できないことだということを世に訴えるということが私の急務だと今は思っているからです。
 ならばもう少し穏やかに訴えた方が世間に受け容れられるぞ、と忠告されるであろうこともまた重々承知なのですが、今は自分の気持ちをありのままに出して表現しております。それは多分、ちょっと自惚れているかもしれませんが、今回のシリーズで主張したいと思っていることは現時点では多分私にしかできないことだし、またそれは定言的行為だと勝手に思い込んでしまっているからでしょう。
 換言すれば、「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述の多くが、とりわけ露と道ですれ違ったことも、その時桜を訪問したことも殆ど限りない創作だったということをある程度の裏付けを基にこの度確信ができてしまったならば、多少火の粉が降りかかってきても火中の栗を拾うべきだという覚悟が素直にできたからです。

 もともと私は、何も、理由も根拠も殆どないのにもかかわらず〈悪女〉にされた女性を救い出そうというような思い上がったことを企てているわけでもありません。今まではただただ、この件に関して真実を知りたいという一心でした。
 が今はそうではありません。ある程度ことの真相がわかってしまった今は、どうしてこの〈伝説〉が巷間流布してしまったことを上田哲以外の殆どの宮澤賢治研究者は看過・座視してきたのだろうかということに対する苛立ちと不満が私にふつふつと湧き起こっており、もはやそれは許されるべきことではなく、このまま放置していたならば永久にこの〈伝説〉は跳梁跋扈し続ける。
 そう思い始めたならば、それにチャレンジすることが今の私にはできるかもしれないと思い込んでしまい、なりふり構わず走り出していました。この暴走今しばらく続きそうです。
                                                               鈴木 守
返信する
 自己而自我本位の真面目 (辛文則)
2014-08-23 17:57:27
   鈴木守様
   「一見穏やかそうに見えて実は、……」。高校生の頃、ニーチェの所謂、「アポロ的とディオニソス的」という二分法に照らして、己の気質(テンペラマン) ―性格(キャラクター)や人格(ペルソナリティ)ではなく― はいずれなるか、などと思いあぐねて自己矛盾の深層におもいを向け、「吾が心性の奥底はアポロ的とディオニソス的に分別不能ならん。」などという心象を得た感じがあります。守先生の場合はいかがでしょう。他者の眼に映る守先生はアポロ的だけのようなのですが、……。
  実は、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、あるいはブラームスにしても、〈アポロ・ディオニソス一如〉なる感性と知性の複合体だったと。実は、ディオニソス性一辺倒に見られがちなゴッホの中のアポロ性なども。実はゴッホの色彩表現は、緻密な知的コントロールを抜きにしてはその効果が消えて出にくいしまう補色対比活用法なのです。色点が細過ぎるスーラ的点描法では全体が灰色化していけません。あの洗いタッチは補色配色法のタイトロープの上の慎重な綱渡り画法であることを指摘した美術書を知りません。
  因みに、「賢治はベートーヴェンは好んだがモーツァルトは嫌った」という俗説がありますが、それが事実だとすると、〈アポロ的ディオニソス的一如〉なる身心境位には、と。
  想うに、「M氏の功利功名心は年功によって和らげられることはなかったのでは。」、などと。辛辣すぎますでしょうか。件の頃は二十歳前後の若僧ですよね。その軽挙を自己修正できなかったというのなら、……。
  「フィクションとしての真実性」と「ノンフィクションルポルタージュとして事実性」との分別がつかなかったとは考えようがないので、矢張り功利功名心の咎ということに。尤も、この難問は、必ずしも他人事ではないと反省させられる今日この頃です。
  敢えて、「ディベートとは功利功名慾の発露なり」という見解を。「その真偽当否は他者の審判に委ねるべし」という、世上的常識からすると、〈公共公平〉と見做されているようですが、価値支店の視座をモデファイすると必ずしもそうとは言えなくなるように思われたりもするものですから。その因縁に言及すると、あまりにクドクなりすぎますから、…。
  漱石の『私の個人主義』に、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んで貰って、後から其品評をい聴いて、それを理が非でもそうだとして仕舞う所謂人真似を指すのです。
            …… 中略 ……
  私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるとい ふより新しく建設する為に、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を漸く考えて、其自己本位を立証する為に、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。」という回想が書かれています。この表明を、世近代ヨーロッパ的、功利功名主義的な個人主義や自由主義、つまり、ネオリベラリズムやリヴァタリアニズム(自由至上主義)に行き着いてしまう弱肉強食的市場競争原理的な視座に照らすと、〈利己主義(エゴイズム)〉や〈自己中心主義(エゴティスム)〉と雷同化されてしまう訳ですが、その土台に、老荘的、禅仏教的な反功利功名的な自由本位や個人本位を置くと、その立処や落処(かんどころ)は違ってしまうように感じられます。小生は、大正14年2月に賢治がMに書いた手紙は、漱石からの感化の表明だったが、Mには全く通じず、同年12月に、漱石全集を出し終えた岩波茂雄にも、『春と修羅』第二集の岩波書店からの出版可否伺いをかねてその意を書いたと妄想しています。
   因みに、賢治は、大正7年の「嘉内への手紙」 と大正15年j頃の『農民芸術概論綱要』とんで〈古の聖者〉という呼び名を使っていますね。小生は、その語が念頭に置いている敬愛する先覚と、更には〈師父〉 という尊称とねられていると重なって感じているのですが、守先生や如何。小生は、それを、田中智学はもとより日蓮とも重ねたくはありません。というより、そう見ると小生の賢治観は総崩れと相成ります。
  で、賢治読者たちが作り出した、「賢治は野の聖者なり」という賢治聖人観の範型や如何、と。たとえば、世俗に流布している〈農聖像〉と比較して云々するのはどんなものなのでしょう。おそらくは、谷川徹三の賢治評がその原型なのでしょうが、伝記物に表現された「生活者としての天才藝術家たちの実像」を散見すると、…。
  因みに、小生が最も共感している〈天才観〉は、夏目漱石がその『文学論』に認めたイマージュです。それは、「天才は熱し易く冷め易い」ではな「天才は熱し難く冷め難い」です。「熱し易く冷め易い」は寧ろ、〈百姓衆生(一般民衆)〉の〈コムフォルミズム(大勢順応主義)〉の特性ではないかと。その肥大暴走化が〈群衆心理〉ということに。昭和十六年九月の満洲事変暴落や昭和八年の国際連盟脱退に対けて歓呼の熱狂の声を上げたのは他ならないを〈無名の大衆〉。
  「ナチズムを産み出したのは理想てきなデモクラくうティック憲法なるワイマール憲法なり」とは近現代史の常識ですし、〈多数決原理をとるデモクラシー〉がその裏に蔵している両価両義性は言ワズモガナな訳ですが、そんな歴史現象が、オートクラシ―やトータリタリアニズムやミリタリアニズムやウルトラナショナリズムなどのオーソリタリアニズムの正当化の方便になるなどとは。
  漱石研究者として最も著名な保守派文芸評論家の江藤淳が自殺する直前に、『漱石とその時代』第五巻に、「『私の個人主義『』での言述は、死病の産物で、思想などという代物ではない」という趣旨のことを書いていますが、言論人のカナシサとして、……。〈千夜千冊〉の超インテリ、松本正剛がその『フラジャイルな闘い』に書いている賢治像にも酷くガッカリさせられました。固より、「ガッカリ!「」の対象は、賢治ではなく松丸本舗殿なのですが。
  実は、小生の〈賢治テクスト宙宇〈〉への感心は昭和二年で終わっておりました。『雨ニモマケズ』への感心は、「ヒドリかヒデリかはどちらでもいい」に近いのでした。というのも、賢治がなりたくてなれなかった〈そういう者〉は、先ず以て、「自分ヲ勘定ニ入レズニ,能ク視聴見聞シ理解シ勿忘草紫苑」という立処でありそれこそが落処だと観じて来たからです。
   で、『高瀬露は聖女の如し』の方は〈勇気ある道得〉として称揚したいのですが、「ヒドリノトキニオロオロアルカナカッタ賢治サン」の方には、……。他人様が勝手に祀り上げた自己犠牲者なる賢治像は虚像なのだとしても、……。因みに、漱石流個人所主義者を以て任じている小生としては、〈自己犠牲〉という考え方は〈忠君愛国的滅私奉公〉と相俟って美しい立処ではありません。また、「功名功利をボランティア行為」とも似而非と考えています。
   またまたナガクなりましたが、「奥歯にモノの挟まった様な言い方」は極力避けて本音を吐露したつもりです。守先生の意には適わなかったと推測しますが、今更にして、「自論を曲げた迎合」を作為するぐらいなら不動不言沈黙を護るという歩みを続けて来た矜恃を守らん、とぞ。
    できることなら、今後共佳き対話相手であり続けたいと願っております。
     文遊理道樂遊民道取す  2014,8,23 17:50

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毎度ありがとうございます (辛様(鈴木より))
2014-08-24 00:05:41
辛 文則 様
 早速の再コメント有り難うございました。
 ただし、私にとっては格調が高すぎるだけではなく、難しすぎて相変わらず四苦八苦しておりますが。

 さてまず「アポロ的とディオニソス的」に関してですが、私は単純ですからあえてどちらかと問われれば前者だと思います。ただしもちろんその場合でも極めて希薄な「アポロ的」だと思いますが。
 次に賢治が用いているところの〈古の聖者〉や〈師父〉についてです。私はよくわかってはおりませんが賢治のそれらは観念的なものだと思います。しかし私が持っている〈農聖像〉は隣県秋田の石川 理紀之助のような実践家です(おそらく賢治もこの石川のことはよく知っていたと思います)。そして残念なことですが、巷間言われている「野の聖者賢治」はこの石川の実践には遠く遠く及びません。
 それから「涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ」につきましては、賢治はどうしてこの時の大干魃の際に地元を離れて暢気に滞京していたのだろうかという疑問を抱いてしまったので試みた検証でした。この時のふるさと不在につきましては私はとても不満がありましたので、その苛立ちがあったことは重々承知しておりますので荒削りであり、辛さんのご指摘どおりだと思います。
 なお、その他につきましては今後心しながら考えてみたいと思っております。
 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 明日は朝早く出かけねばなりませんので、今回はこの時間帯にこのコメントを綴ってみました。

                             鈴木 守
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