みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ

2014-08-30 14:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
賢治とちゑの結婚話
吉田 それはさ、ここでもまたあのMの「昭和六年七月七日の日記」が絡んでいるのだが、その中でMは次のようなことを述べている。
…その日の日記を書きうつそう。 
昭和六年七月七日。
 …(略)…歩きながら、
実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
病氣になるまえ、大島にいつたことがありましたが、その大島で肺を病む兄を看病して居る二十七歳になる女の人です。」<*1>
という。
「どういふ生活をして來た人ですか。」
と私がきく。
女学校を出て、幼稚園の保母か何かやつて居たということです。(ママ)
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいふ。
遺産が一万円とか何千円とか持つているといふことなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあつては――。」
と宮沢さんはいつた。
ずっと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。」
 私はそれは貞女というものですという。
自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね
 そういうので、どうしてですかときくと、
いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないでしょう
と答えた。
               <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)105p~より>
 あの昭和3年6月の伊豆大島行から約3年を経て再び持ち上がった賢治と伊藤ちゑの結婚について、賢治自身の口からMが聞いたということをこう証言しているということになる。先に前触れした「ある伏線」とは再び起こったこの結婚問題のことだったのだ
荒木 でもさ、Mの「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述は殆ど創作だということがほぼ明らかになったベ。これだってどこまで事実を語っているのか極めて危ういもんだ。
吉田 たしかにその危惧はあるけど、Mは賢治の詩友というだけでなく、直木賞を貰っているだけの実力があったのにもかかわらず、賢治のために自分を犠牲にしたとも言える程の人物でもある。そのMが賢治のことをこう述べているのだから…
荒木 なるほど、そういうことならば吉田の言うとおりこの場合に限っては少なくともそこに創作はないと思って間違いなかろう。ここに述べられていることは賢治にとってはどちらかというと不利なことだから、なおさらにだ。
鈴木 たしかに。
 実際、長編詩「三原三部」からは賢治がちゑに好意を抱いていたことは窺えるし、賢治が伊豆大島行を終えて帰花して後に藤原嘉藤治を前にして、
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。<*2>
                 <『新女苑』八月号 実業之日本社 昭和16・8>
と述懐していたということのようだから、賢治自身はちゑとなら結婚してもいいと思い続けていたかもしれんな。
荒木 この賢治とMとのやりとりからは、賢治はちゑとの結婚についてはまんざらでもなさそうだしな。でもさ、賢治って「独身主義者」じゃなかったのか?


「変節」してしまった賢治
吉田 そこなんだよ荒木、「独身主義」のみならず、昭和6年当時の賢治はかつての賢治ではなくなっていたということが同書に引き続いて綴られていて、僕もそれを初めて読んだ時は驚天動地だった。ちなみにそれは次のように
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
あなたは清濁をあわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(略)…そして次のようにいつた。
ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね
 こんな風にいつてから、またつづけた。
禁欲は、けつきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
何か大きないいことがあるという、功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういってから、しばらくして又いった。
昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう
              <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)107p~より>
と述べられているんだ。
荒木 じゃじゃじゃ、こりゃたまげだな。
鈴木 でも実は一番驚いていたのは賢治自身だったかもしれない。この後で賢治はMに対して
 石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商賣のこと、この性の話などをさして、
私も随分かわつたでしょう、変節したでしょう――。」
という。
              <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)109p~より>
ことだからだ。
吉田 なお、「春本」についてはこの時のみならず、この後の昭和6年9月の上京時にも携えて行っていて、菊池武雄にはそれをプレゼントしている。
荒木 そうだったんだ、その当時の賢治は。まあ…まさしく《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということだとすれば歓迎すべきことなのかもしれんけどな。
鈴木 それにしてもな、「功利的な考へからやつたのですが」はな……たしかに賢治は様変わりしてしまった。
吉田 僕に言わせれば、「何とそういう打算的な考え方でそれまでやっていたというのか!」ということでがっくりだけどな。まあでもそれが賢治の生き方だったのだから、僕がとやかく言える筋合いのものではないけど。また持ち上がったちゑとの結婚話に対しても、同様に。

ちゑ自身はどう思っていたか
鈴木 とは言いながら、ちゑの方は一体どう思っていたかと実は吉田は気になってるんだろ。
吉田 まあな。「「三原三部」の人」を通読してみれば、ちゑ自身は全くそうは思っていなかったことがそれこそ判然としている。
 たとえば次の、ちゑがMに宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)157pより>
から判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 さらにだ、Mがちゑのことを書いて載せた短歌雑誌『六甲』をちゑに送ったことに関連して同書簡では、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻<*3>の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口では申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)158pより>
と、「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑはMに迫っている。
鈴木 ちょっと待てちょっと待て、ちなみに今調べてみたのだが、『宮澤賢治と三人の女性』の114pにはM自身が 
   全集六巻の解説中に簡単に触れておきました。
と言及しているものの、私が所有している十字屋書店版『宮澤賢治全集 六巻』には、それは昭和27年発行第3版だが、そこにはMの「解説」が所収されておらず、あるのは『同 別巻』の中にある。
 それからえ~とえ~と、『修羅はよみがえった』を見てみると
 第六回配本の「雜篇、別巻」の年表・書翰等は新たに編集することを要したし
              <『修羅はよみがえった』(宮沢賢治記念会、ブッキング)158pより>
と述べられていることから、ここでMが言っている「全集六巻の解説」とはおそらく間違いなくこの『同 別巻』所収の
    「全集第六巻並に別巻解説」
のことであろうと判断できる。
吉田 それは多分こういうことだ。同『六巻』の最初にある「覺え書」の出だしに
 本巻で全集完結の見積りであつたが、新たに發見された童話作品一篇と書簡の全部と附録と年譜と解説とは、盛切れないので、別巻を刊して輯錄することにした。
              <『宮澤賢治全集 六巻』(十字屋書店、昭和18年)>
と述べられているから、当初はこの十字屋書店版『全集』は全六巻の6冊で構成される予定だったのだが、それらの6冊に加えて新たに『別巻』を1冊増刊して全7冊構成にすることに変更したということがわかる。
 一方、ちゑが「早速六巻の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます」と懇願した時期は書簡の日付から昭和16年1月末であることがわかる。つまりこの時期はまだ6冊構成で予定していた時期であった。
 ところがその後7冊構成となったので、「早速六巻の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます」と懇願した原稿は『別巻』に所収されて書和18年に発行された。
荒木 だからもちろんちゑの懇願は結局無視された、というわけか。

ちゑはきっぱりと拒絶していた
吉田 どこどこ、済まんが鈴木ちょっとそれを見せてくれないか。
 あっ、やっぱり。ほらこの「解説」の中にはちゑに関する次ような記述がある。
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文で良く書きつくせるところではありませんから後日に譲ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
とある。
荒木 つまり、いま吉田が読み上げた部分に相当する原稿を
   抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とちゑは懇願し、
   さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。
とMに具体的な行動をとるように強く迫ったということか。
吉田 そしておそらく、それが為されないであろうと見通してちゑは、再度Mに同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)164pより>
とMの行為をはっきりと断罪しているわけだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑはやってたのか…完全なる拒絶だな。余っ程結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることを伊藤ちゑきっぱりと断っていたのさ。

関係者の証言も裏付けている
鈴木 考えてみれば、ちゑの実家は大金持ちだからおそらくお嬢さん育ちだし、ちゑは当時の言葉で言えば「モダンガール」、「翔んでる女性」の一人であったとも仄聞している。一方の賢治はその頃は定職も持たない当時の言葉で言えばそれこそ「高等遊民」だった。
吉田 しかも、同書に載っているのだが、ちゑがMに宛てた手紙の中で
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、「伊豆大島行」に関わる見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてやむを得ず、しぶしぶした見合いであるということがわかる。ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 それゆえにこれだけ頑なにちゑは拒絶したのかもしれんし、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。にもかかわらず、Mはそれを無理矢理に結びつけようとした。
鈴木 さっき吉田も指摘したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私×××コ詩人とお見合いしたのよ』<*4>という発言をちゑ自身が知り合いに対してしていたということを、私は複数の人から聞いている。そして複数の人がこのことを私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間ではよく知られていることでもあろう。また私自身も、「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」を裏付ける証言を直接関係者から聞いてる。
 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時のM宛の書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡でもちゑは同様なことを次のように
 又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と書き記している。
吉田 ちなみに、ちゑが言うところのその「御本の後に御附けになりました年表」を見てみると
 昭和三年 三十三歳(二五八八)
  六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄の病を療養看護中の伊藤チヱを訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
              <『宮澤賢治全集 別巻』(宮澤賢治著、十字屋書店、昭和27年第3版)より>
となっていて、ちゑの言うとおりの内容になっている。

ちゑも露と同じく被害者
荒木 なるほどな。さすれば、Mに対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだから伊藤ちゑの本心はもはや明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の年表であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも
 今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と哀願しているわけだから、伊藤ちゑが賢治と結びつけられることをどのように思っていたかは言わずもがなだ。
吉田 まさしく、ブログ“「猫の事務所」調査書”の管理人 tsumekusa 氏が
Mは結局そんな伊藤チヱの願いを無視してしまいました。
そして他の賢治研究家たちもMの著書から
伊藤チヱの願いを見ているであろうにもかかわらず同じくそれを無視してしまいました。
伊藤チヱの気持ちを踏みにじってしまったのです。
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。

願いは聞き入れられず気持ちは届かず、
自分のことを大々的にそして過剰に美化されて伝えられてしまった
伊藤チヱの心の傷は如何ばかりだったでしょうか。
良く書かれたか悪く書かれたかの違いはあれど、
伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者なのではないかと考えています。
と主張するとおりだと僕も思う。
鈴木 なお伊藤ちゑは、先ほどの嘉藤治宛書簡の最後に次のような歌
 彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
 大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ
を詠んでいるし、ちゑは同書簡中に
 幾年か前六郎兄と歩いた大和地方の秋の事を思ひ出して居ります
としたためているから、この歌についてはその時の事を詠った歌であろう。行ったのは六郎ということだから、おそらく七雄が亡くなってからの旅だったのだろう。
荒木 あれだけMに哀願し、懇願したのにそれが叶わなかったちゑの心情を察すれば、この歌はかえって切なくなるな…。おそらく「彼岸花」に兄七雄のことを託して詠ったに違いない。
 ところで、前に吉田が言っていた「伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
***********************************************************************************
<*1:投稿者註> どういうわけか、「病氣になるまえ、大島にいつたことがありましたが、その大島で肺を病む兄を看病して居る二十七歳になる女の人です。」の部分は、『宮沢賢治の肖像』に所収されている「宮沢賢治と三人の女性」の場合には削除されている。単なる校正ミスだろうか。
<*2:投稿者註> 藤原嘉藤治は『新女苑』において、昭和3年6月の伊豆大島行から戻ってきた賢治に関して、
 大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と述べている。
<*3:投稿者註> この「六巻」の部分は、『宮沢賢治の肖像』では
   今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六甲の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
となっていて、「六巻」→「六甲」と書き変えられている。
 これはどういうことを意味するかというということを考えてみた場合に、単純な誤植ということもあり得るが、『宮澤賢治と三人の女性』と『宮澤賢治の肖像』における「昭和六年七月七日の日記」の変更は殆どと言っていいほど書き換えのないことが実際に確認できるからこの個所だけが誤植ということは考えにくい。
 すると次のようなことが一つの可能性として浮かび上がる。『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房)の場合の「六巻」だと、ちゑが懇願したことをMが無視したということが世に知られるから、それを攪乱させるために
  「六巻」→「六甲」
と置き換えた。これがもしことの真相であったとすれば、この変更の巧みさにMの頭の良さを私は痛感する。それはちょうど、関登久也著の
 『宮沢賢治物語 (49) 』  :昭和二年には先生は上京しておりません。
 『宮沢賢治物語』(単行本):昭和二年には上京して花巻にはおりません。
における著者関登久也以外の誰かによるあまりにも巧みな改竄における頭の良さを彷彿とさせる。この改竄によって全く意味が反対になるからである。
<*4:投稿者註> 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。

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