賢治は昭和3年の1月頃羅須地人協会の建物の中で一体何をやっていたのだろうか。
阿部晁の日記によればその年の1月20日は
[往来・来]宮沢賢治君
[要件・可]日蓮教会建立敷地トシテ南万丁目二十二番原野ヨリ一歩(六十銭)二十六番畑ヨリ九歩(九円)分割売却ノ交渉ヲ宮沢花銀常務代理宮沢賢治ヨリ受ケ承諾ヲ与ヘタリ
となっているそうだから、賢治は阿部の許を訪ねている。それもこの際の賢治の肩 . . . 本文を読む
前回の〝山田野理夫著『宮沢賢治』より〟の続きである。
それは、昭和25年に山田野理夫があの畠山校長から聞き取った次のような証言である。
<わたしは明治二十年宮城県登米郡狼河原村に繁太郎の長男として生まれたのです。明治四十二年に盛岡高等農林学校農科を卒え、山梨県立農蚕学校の新潟県立中学校の教諭を経て、岩手県稗貫養蚕講習所の所長に就いたのは大正八年のことです。これを改めて二年制の農学校(乙種)に昇 . . . 本文を読む
この度、〝阿部 晁「家政日誌」〟なるものが存在するということを知った。
それは阿部晁が大正7年~昭和11年にわたって書き記した「家政日誌」であり、そのうち宮澤賢治に関連する記事が『宮澤賢治研究Annual Vo.15』に載っていた。
ちょっとびくびくしながら見ていった。特に昭和2年11月頃~昭和3年1月頃の記事の中に阿部晁が宮澤賢治と直接会っていたなどの記載がもしかするとあるのではなかろう . . . 本文を読む
一昨日、西秋書店に立ち寄ってならば標記のような本があった。私にとっては初見の著書であった。
ぱっと頁を捲ってみたならば興味深いことが書いてあったので購入した。
その中身の一例は以下のとおり。
このとき賢治に稗貫郡立稗貫農学校の教師になってほしいとの話があった。同校の校長畠山栄一郎からである。郡長の葛博も一緒であったというが畠山はたまたま賢治と路上で会って欠員のことを話すと賢治は自分も教師に . . . 本文を読む
以前、〝飛田三郎とは〟において、飛田三郎の「思ひ出1」の一部
あれは清六さん御自身がたゝれたのだつただらうか。その頃の上町、明治屋に電話が掛かつて來た。賢治さんの御臨終を傳へて來た。(私がその電話を受取つた)顔色が變つた關さんが、飛びつく様にして電話口にとり付かれた事も、氣配で奥から立つて來られた、直子夫人のたたずまひやらも、今更の様に思ひ出される。を引用させてもらったが、その後には次のように . . . 本文を読む
まずは、
【明日平成25年1月27日(日)北海道農民管弦楽団が花巻公演】
明日平成25年1月27日(日)北海道農民管弦楽団がわざわざ北海道からやって来て花巻市文化会館で花巻公演(第19回定期演奏会)を行います。宮沢賢治没後80周年記念の一環のようです。
演奏曲目 ベートーヴェン/交響曲第6番 「田園」 作品68等
演奏 北海道農民管弦楽団 、金星少年少女オーケストラ 、東北農民管弦楽 . . . 本文を読む
先日、私の大先輩I氏から飛田三郎についての情報を教えていただいた。それは、
佐藤隆房著『宮沢賢治 素顔のわが友 最新版』(冨山房)にも飛田三郎のことが出ていますよ。
というものであった。私は残念ながらこの『最新版』そのものは持っていなかったので、まずは花巻のある本屋さんへ行ってみたならばありました。たしかにI氏の仰るとおりでした。
なお、それは『私家版 宮沢賢治 素顔のわが友』(佐藤隆房著 . . . 本文を読む
例えば、『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)の中に名須川溢男の論文「宮沢賢治とその時代」が載っているが、そのことに触れる前に、同書の栗原氏の「解説」の中の次の見方が目を引いたのでそのことに関して少しだけ触れておきたい。
名須川溢男「宮沢賢治とその時代」…(略)…は、賢治もその作品も歴史的な産物に他ならないことを思いおこさせてくれる良いきっかけとなるだろう。名須川の論には聞き書きのあり方 . . . 本文を読む
澤里への聞き取り時期
さて、この「澤里武治氏聞書」(『續 宮澤賢治素描』所収)についてだが、澤里武治がこの聞き取りを関登久也から受けたのはいつ頃だったのだろうか。残念ながらその時期について関登久也は明らかにしていないが、少なくとも昭和21年10月30日以前であることは判った。
というのは、『續 宮澤賢治素描』の「巻末記」に
續素描は多くの門弟達の聞書を採録した。…(略)…澤里武治、安藤新太郎 . . . 本文を読む
改稿の隠された事情は?
さて、以上「改稿」の実態を調べてみた上での私の見解は
わざわざ「改稿」するまでのものではないのではなかろうか。である。それは、『賢治随聞』の「あとがき」でM氏が語っているところの改稿理由としている挙げている事柄と、その『賢治随聞』の「改稿」の実態が沿っていない感じがするからである。
ということは、隠された事情が実はあったのではなかろうかということも探らねばなるまい、と . . . 本文を読む
さて、乗りかかった舟だからもう少し調べてみたい。
何を「削った」のか
そこで、まずは『宮沢賢治素描』(関登久也著、眞日本社)の目次を見てみよう。
一方の『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)の目次を見てみよう。
そして、これらと『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)の中身とを比べてみた。
ざっと通読してみた限りにおいては、「削った」ものは
『宮澤賢治素描』においては
・饗 . . . 本文を読む
寒晴だったので、胡四王山に行って「経埋ムベキ山」を眺めてみようと思って出掛けてみた。
まずは、槻ノ木からの
《1 胡四王山》(平成25年1月21日撮影)
同じくそこからの
《2 観音山》(平成25年1月21日撮影)
《3 旧天山》(平成25年1月21日撮影)
《4 江釣子森山》(平成25年1月21日撮影)
以上の「経埋ムベキ山」は胡四王山の山中からは見ることができない。
では次は . . . 本文を読む
以前ならば、賢治が労農派のシンパだと言われても私はついつい疑ってしまて、そのようなことに対しては眉に唾を付けていた。今にして思えば、青江舜二郎対しては申し訳ないことをしたと謝りたいが、彼の著書『宮沢賢治 修羅に生きる』に対しても同様な見方をしていた。
ところが先に述べたように、賢治には「労農党支部へのシンパ的行動」をしていたという父政次郎の証言があるということをこの度知り、心を改めている。
. . . 本文を読む
我が家のセツブンソウの現在です。
《1 》(平成25年1月20日撮影)
《2 》(平成25年1月20日撮影)
《3 》(平成25年1月20日撮影)
《4 》(平成25年1月20日撮影)
《5 》(平成25年1月20日撮影)
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やはりそうだった。『賢治随聞』の発行は昭和45年2月20日であった。
『やはりおかしい』、私はそう感じた。
「あとがき」の内容
そこで、まずは同書の「はじめ」はどうなっているかを見てみよう、と思って頁を捲ってみたがない。さりとて、「序」とかもない。珍しいこともあるものだ、単行本の場合には必ず「はじめ」やそれに相当するものがあるものとばかり思っていたが、ないこともあるのだと訝しく思いながら、そ . . . 本文を読む