《1↑ 『宮澤賢治研究(宮澤賢治全集別巻)』(草野心平編、筑摩書房) 》
羅須地人協会の会員の一人に高橋光一という人がいたという。
その高橋光一から飛田三郎が聞き取ったという「聞書」の中に次のようなくだりがあった。
學校を止められてから「野菜づくりをはじめたいのだが一つ教えていただきたい。」と云って來られ、以來、すっかり心安すの間柄になり、その後はもはや、何事にせよ「居たっか」 . . . 本文を読む
上海にはリニアモーターカー(磁気浮揚列車)がもう現実に走っていた。日本にはまだなのに。このリニアモーターカーは上海浦東国際空港~龍陽路駅間約30キロを8分間で走り、最高速度は時速430㎞だという。
《1 上海浦東国際空港上空》(平成22年7月14日撮影)
《2 〃着陸準備》(平成22年7月14日撮影)
《3 〃着陸》(平成22年7月14日撮影)
《4 空港からリニアモーターカー乗車駅へ》 . . . 本文を読む
《↑澤里武治(『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館))より》
宮澤賢治はなぜ、大正15年11月22日付案内状をわざわざ印刷して近くの人に配布してくれるように伊藤忠一に依頼したのか。
もちろんそれは、そのことによって周知徹底を図り、なるべく多くの人がその会に参加してくれるように賢治は願ったからであろう。このことについては何ら不思議でない。
ではなぜ多くの人に参加して欲しかったのか . . . 本文を読む
平成22年7月13日、日中に成都市内観光を終えた後、夜は四川省の地方劇『川劇』を見にいった。
《1 錦江劇場》(平成22年7月13日撮影)
《2 《芙蓉国粋》川劇民族晩会》(平成22年7月13日撮影)
《3 オープニング》(平成22年7月13日撮影)
《4 バック幕が見事》(平成22年7月13日撮影)
《5 三英戦呂布》(平成22年7月13日撮影)
《6 〃 》(平成22年7月13日 . . . 本文を読む
《↑『羅須地人協会案内状』》
堀尾青史の『年譜宮沢賢治伝』(中公文庫)に依れば、大正15年11月22日の夕方、下根子桜で農耕自活の生活をしていた宮澤賢治は隣家の伊藤忠一にこの日付の(このブログの先頭に挙げたような)「案内状」を持参し、近所の人に配ってくれるように頼んだという。その中味は次のようなものである。
1.案内状の中味
この案内状はお気付きのように謄写版刷 . . . 本文を読む
四川省といえば、その名物の一つに陳ばあさんが売り出したという麻婆豆腐あり。ということで、7月13日日中の成都観光を終えて後、夕食は本場の麻婆豆腐を食べに行くこととなった。
《1 成都マップ》
さてそのおばあさん(麻婆)の考え出した”元祖麻婆豆腐”を引き継ぐ名店『陳麻婆豆腐店』(上図中央左端)に到着したのだが、
《2 『陳麻婆豆腐店』の前のブロックには漢詩?》(平成22年7月1 . . . 本文を読む
《↑『弥助橋』跡》(平成20年9月11日撮影)
例えば、1925年(大正14年)6月25日の保阪嘉内宛の書簡では
お手紙ありがたうございました
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます。…
としたため、その2日後の6月27日の齊藤禎一宛の書簡では
…わたしくも来春は教師をやめて本統の百姓になります。百合も咲き鳥も流れる夏の盛りとなりました。ご自愛を祈ります。
. . . 本文を読む
成都パンダ繁殖センターでは結局レッサーパンダのあのシッポは見られないものと諦めたはずだったが…
《1 前回報告したレッサーパンダのしっぽは哀れなものだった》(平成22年7月13日)
もしかしたら
《2 このレッサーパンダなら…》(平成22年7月13日)
と思って待っていたが逃げ去って行った。
ではこちらなら
《3 立派なシッポ?》(平成22年7月13日)
と思ったのでしばし待っている . . . 本文を読む
《1↑『賢治随聞』(関登久也著、角川選書) 》
では前回に引き続き、『賢治随聞』の中にある座談会「宮沢賢治先生を語る会」の記録を基にして、検証等を続けたい。
忠 それから子供の会も開いた。八月のお盆のころで、それは自作の童話を子供らに読んで聞かせ、子供らの批評を求めるおつもりでいたらしい。
克 あのころだ。さかんに横文字の本を出して読書されていたのは、しかしあのころは風邪をひいてお . . . 本文を読む
成都パンダ繁殖センターにはレッサーパンダ(小熊猫)もいるという。
《1 レッサーパンダ(Red Panda、小熊猫)活動場案内板》(平成22年7月13日)
《2 》(平成22年7月13日)
《3 》(平成22年7月13日)
《4 この木の陰に居るのがレッサーパンダ?》(平成22年7月13日)
しかしそれより
《5 気になるこの木》(平成22年7月13日)
《6 〃の花》(平成22年 . . . 本文を読む
《1↑安浄寺の門・本堂・鐘楼》(平成23年1月25日撮影)
最近気になっていたことの中に安浄寺や額縁屋等のことがあった。
1.安浄寺について
このお寺は宮澤賢治の葬儀が行われたお寺であるが、その際の会葬者が2000人だったと聞いている。一般にこれだけの人数が会葬する葬儀は滅多にないことだと思うし、あの当時の賢治に対する地元の評判や評価からするとかなり多すぎるのではないのかという疑 . . . 本文を読む
成都パンダ繁殖センターにはパンダの赤ちゃんも沢山いるらしい。
《1 》(平成22年7月13日)
《2 》(平成22年7月13日)
《3 》(平成22年7月13日)
《4 》(平成22年7月13日)
《5 》(平成22年7月13日)
《6 》(平成22年7月13日)
《7 》(平成22年7月13日)
《8 》(平成22年7月13日)
《9 》(平成22年7月13日)
《10 》 . . . 本文を読む
《↑高橋慶吾》
<『私の賢治散歩』(菊池忠二著)より>
今回は昭和10年頃のある座談会の記録を基にして、今までに述べてきた下根子桜での農耕自活に関する事柄の検証等を試みたい。
その記録とは『賢治随聞』の中にある座談会「宮沢賢治先生を語る会」の速記録から起こした次のようなものである。
先生を語る
賢治氏没後の昭和十年ごろ、根子村の青年 . . . 本文を読む
成都パンダ繁殖センターへパンダにはもっともっとパンダがいるという。
《1 たしかに居た》(平成22年7月13日)
しかし
《2 野草の方が気になる》(平成22年7月13日)
《3 》(平成22年7月13日)
《4 》(平成22年7月13日)
《5 》(平成22年7月13日)
一方
《6 パンダはぐうたら》(平成22年7月13日)
《7 》(平成22年7月13日)
《8 》(平 . . . 本文を読む
《↑伊藤克己の家族写真(克己は右端)》
時系列的に少し遡ることになるが、今回は大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。それは伊藤克己(巳?)の証言「先生と私達―羅須地人協会時代―」から引用する次のようなものである。
苗代は蛙の聲で一杯で、農家は忙しい夏の初めの頃だつたと思ふ、今晩東京の有名なヴァイオリンを彈く人が來るからと云うので私達は胸を躍らせながら . . . 本文を読む