みちのくの山野草

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父政次郎の叱責が全てを語っている

2014-08-22 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
その他の噂 
 さて、巷間流布している「ライスカレー事件」以外に高橋慶吾たちは露に関連して何を証言しているのかを両者からそれぞれ拾い上げてみると次のようになる。
 まず「賢治先生」に依れば、
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會)より>
 次に「宮澤賢治先生を語る會」に依れば、
K …それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた。…(略)…
C 何時だつたか先生のところへ行った時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐたのでらろう。
               <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版、昭和18年9月)255p~より>
ということになろう。
 それから、これらの中には記述されていないもう一つの証言が『宮澤賢治素描』の中の「返禮」にあり、
 賢治を慕ふ女の人がありました。もちろん賢治はその人をどうしやうとも考えませんでした。その女の人が賢治を慕ふあまり、毎日何かを持つて訪ねました。當時羅須地人協會にたつた一人の生活をして居られたのですから、女の人も訪ねるのには都合がよかつたでせう。他の人にものを與へることは好きでも、他から貰ふ事は極力嫌つた賢治ですから、その女の人から食物とか花とか色んなものを貰ふたびに、賢治はどんなに恐縮したことでせう。そしてそのたびに何かを返禮してゐた様です。
 そこで手元にあるものは何品かまず返禮したのですが、その中には本などは勿論、布團の様なものもあつたさうです。女の人が布團を貰つたから益々賢治思慕の念をつよめたといふ話もあります。後で賢治は其の事のために少々中傷されました。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)193p~より>
ということもあるからだろうか、結局次のような噂
   ・賢治が顔に灰(一説に墨)を塗った
   ・「本日不在」の表示を掲げた
   ・癩病と詐病した
   ・襖の奥(一説に押し入れ)に隠れたいた
   ・賢治が露に布団を贈った
がまことしやかに流されてきた。
 ただしこれらはあくまでも巷間流布している噂であり、検証したものでもなければ裏付けを取ったものでもない。さて、はたしてこれらがどこまで事実であったのかは今となってはなかなかわからないが、仮にこれらの行為が皆事実だったとしても、いずれも賢治の奇矯な行為であると指弾されこそすれ、露一人だけが一方的に<悪女>にされる理由や根拠には全くならないことは自明。
 なお、これらに関して「昭和六年七月七日の日記」の中に書かれていることはもはや当てにならないからここでは考察の対象からは除いた。それから、これらの一連の噂に関して佐藤隆房は
 そんな譯で、當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顔に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何等の期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞しました。(昭和二年頃)
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月発行)175p~より>
と述べているので、これらのことは昭和2年頃に起こったこととして噂が流されていたということになろう。したがって、賢治が露のことを拒否し始めたのはやはり昭和2年頃からと考えてよさそうだ。

父政次郎の賢治に対する叱責
 それではこのような一連の賢治の奇矯な行為をどう評価すべきなのだろうか。
 この行為に関連しては、「昭和六年七月七日の日記」の中では賢治のことは殆ど咎められることがない一方で、露一人が読むことさえも憚られるような表現を用いてゴシップ仕立てで書かれている。
 ところが、この行為に対して父政次郎がその時点で明快に答えている。例えば、高橋慶吾に依れば、
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
 お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)より>
ということであり、関登久也に依れば、
 協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、そのうちの一人が賢治をしたっておったようです。最初は賢治も「なかなかしっかりした人だ」とほめておりましたが、その女性が熱意をこめて来るので、少し困ったようです。そこで「本日不在」という貼り紙をはっておいたり、又は別の部屋にかくれて、なるべく会わないようにしていたのですが、そうすればするほど、いよいよ拍車をかけてくるのが人の情で、しまいにはさすがの賢治も怒ってしまい、その女性に、少し辛くあたったようです、
 父の政次郎さんは、そんな噂を聞いて、
「それは、おまえの不注意から起きたことだ。はじめて会った時に甘いことばをかけたのが、そもそもの間違いだ。女人に相対する時は、ゲラゲラ笑ったり、胸をひろげたりして会うべきものではない」と、きびしく反省をうながしたとのことです。
               <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月)89pより>
 さらには小倉豊文によれば、
 彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達から私は聞いた。それを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
               <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48pより>
ということである。
 したがって、三者とも賢治は父から叱責を受けたということをそれぞれ語っているし、その叱責内容も似ていることから、冷静で客観的な見方をしていた父政次郎から
    この件に関しては賢治に全ての責任がある。
という明快で厳しい叱責を受けたということは事実であったと判断してよかろう。そしてまた、父政次郎は何ら露のことを責めも誹りもしていなかったと判断できる。
 さてこうなると、露に関する記述内容に関しては検証も裏付けも共に心許ない「昭和六年七月七日の日記」で語られていることと、それとは全く逆といってもいい父政次郎からの厳しい叱責のどちらがことの真相を私たちに伝えてくれているのだろうかは明らか。もちろん、父が自分の息子賢治をかばうことなく厳しく叱責していたということであればそれは父の方がことの真相を伝えていると判断するのが常識的な判断であろう。
 どうやら、父からの賢治に対するこのような厳しい叱責があったということが一連の出来事の真相を全て語っていると言えそうだ。

現時点での結論「露は<悪女>ではない」
 というわけで、巷間言われている「ライスカレー事件」を含めたこれらの噂が仮に事実であったとしても、賢治がその責めを問われることはあっても露が<悪女>にされる理由や根拠は全くないということになる。
 よって、いわゆる「羅須地人協会時代」の露が<悪女>とされる理由も根拠も今までのところは全くないということになる。もちろん、「遠野時代」の露はそれどころか<聖女>と言ってもいいほどだから、ここまで調べてきた限りにおいては<悪女伝説>は全く根も葉もない捏造であるということがわかった。
 さてそうすると、残された今後の課題は、「羅須地人協会時代」を除いた露の「花巻時代」において露が<悪女>にされる理由や根拠があったかどうかを調べることである。もちろん「羅須地人協会時代」以前の露には何ら問題があったことは指摘されていないから、昭和4年~昭和7年の間について調べれば十分だろう。

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