《1↑『水五則』》
以前”南城振興共働村塾”や”写真で見る南城振興共働村塾”で投稿した短期の南城振興共働村塾であるが、その中味についてもう少し詳しく知りたいと思って『「宮澤賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)の頁を捲っていたならば、その紹介をしている南城組合長の照井又左ヱ衛門の一文がそこにあった。
その中で照井は次のように説明してい . . . 本文を読む
《1 『大正期の花巻地図』(抜粋)》
以前”「下ノ畑」と「渡舟場」探し”において
《2 五万分の一地形図『花巻(抜粋)』(大正2年測図同14年鉄道補入)》
を基にして、「下ノ畑」や「渡舟場」を探してみたが、結局その場所を特定できなかった。
ところがたまたまこの度『大正期の花巻地図』というものを見ることが出来た。それがこのブログの先頭 . . . 本文を読む
《1↑ 『土に叫ぶ』の碑》(平成21年11月10日撮影)
前回の”写真で見る南城振興共働村塾”でしばしば登場した『最上共働村塾』について今回は少し報告したい。
宮澤賢治の”訓へ”を受けて古里鳥越に戻った松田甚次郎は
昭和2年:実際小作人となり、鳥越倶楽部を結成し、農村劇を上演して「賢治精神」を実践し始め
昭和3年:日本国民高等学校に1年間入学し、校長の加藤完治の農本主義に共 . . . 本文を読む
《1↑『南城振興共働村塾』》
以前、南城振興共働村塾については一度報告したことがあるが、この村塾関連の写真があったので今回はその報告をしたい。
先ずこのブログの先頭の写真は、昭和14年3月下旬に南城(かつての根子村)に開塾された『南城振興共働村塾』の写真であり、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っているものである。そして、次のような付記がそこにあった。
昭和14年3月から30日間、県内各地から百 . . . 本文を読む
《1↑千葉恭の写真》
1.千葉恭の写真
千葉恭の2枚目の写真を見ることが出来た。学生帽を被っているから農学校の頃のものだろうか。以前初めて見た千葉恭の写真と同様のポーズをしているが、こちらはまだ初々しい恭である。
千葉恭は学生帽の人物であると私が勝手に決め付けてしまっていたが、それは間違いであり、千葉恭は右端の鳥打ち帽?に白いシャツ姿の人だった。
2.穀物検査所の場所
また、大 . . . 本文を読む
このブログ゛の先頭に掲げた著書の「はじめに」には次のようなことが述べられていた。
その恋が意図的に隠されたことは、『春と修羅』が書かれ始めた大正十一(一九二二)年から、印刷出版された大正十三年まで、まる三年もの賢治の書簡が、大正十一年の賀状一枚を除いては、ただの一通も残されていないことからも、容易に想像できます。
とあった。
書簡に関しては私も以前、”「下ノ畑ニ居リマス」 . . . 本文を読む
前回、5万分の1の地形図で見た場合「下ノ畑」の場所が違うのではないかと思ったことと、「渡舟場」のあった場所も探してみたかったので当地を訪ねてみた。
賢治詩碑の隣の家(伊藤忠一宅)の脇の道を通って「下ノ畑」に向かう。
伊藤さん宅の西側の道を南方向に進む。直ぐにその道は東に直角に曲がり下り坂となる。坂を下り切ったところで振り返ってみた
《1 東側から見た羅須地人協会跡地の台地》(平成22年12 . . . 本文を読む
暫くぶりに胡四王山に行って来た。その後、オヤマボクチの果実がどうなっているか見てみたかったからである。
《1 オヤマボクチ》(平成22年12月21日撮影)
一ヶ月前の状態とほとんど変わりなかった。
今、胡四王山に見るべきものは殆どないようだが、種子のほとんど飛び去ってしまった果実の殻などが残っていた。
《2 ヤマユリ》(平成22年12月21日撮影)
《3 アキノキリンソウ》(平成22年 . . . 本文を読む
《1↑「雪の羅須地人協会」
より 》
以前から気になっていたものの一つに、「下ノ畑」の近くにあったという渡舟場がある。
森荘已池の「すすき野を開墾し畑」の中に次のようなことが書かれている。
北上川の岸の砂質壌土の畑は、渡船場の河原近く、みちばたにあった。教え子たちに助けてもらい、すすき野を開墾したようだった。
そこは、杉林のと比べたら天地 . . . 本文を読む
《1↑「昭和6年頃の堂ヶ沢山」
(『花巻温泉案内』(花巻温泉発行))より》
さて、下図は昭和6年に発行されたと思われる『花巻温泉案内』パンフレットの
《2 絵図(一部)》
であるが、この絵図から「堂ヶ沢山」周辺を抜き出したものがこのブログの先頭の絵図である。その頂上には小屋があることも判るし、外灯も建ててある。
このパンフレットの裏の「花 . . . 本文を読む
《1↑堂ヶ沢山の登山道》(『花巻温泉遊園図絵』より抜粋)
かつて、「経埋ムベキ山」のうちの一つ堂ヶ沢山に登りたくて、荒れ放題の林道を藪こぎしながらなんとか登ったものだった。
ところがその後、昔、堂ヶ沢山に立派な登山道があったということを聞き知った。一体どこにどんな道路がついていたのだろうかと想像していたが、今回このブログの先頭にあるような図絵を手に入れることが出来たので、 . . . 本文を読む
以前投稿した”「椀コ」はやはり「赤林山」でなかろうか”のブログの先頭の写真(赤林山)があまり「椀コ」らしくなかったので、少なくともそれよりはマシな写真を撮ろうと思って12月17日(金)撮影に出かけた。
矢巾から北上し、終盤は赤林山の裾を反時計方向に周り、盛岡工業高校付近まで辿りながら赤林山を撮影をしてみた。
《1 矢巾岩手医大付近から》(平成22年12月17日撮影)
《2 盛岡南高付近か . . . 本文を読む
《1↑ 千葉恭の写っている写真》
さて、千葉恭は一体どんな容姿をしていたのであろうか。そのお顔などを拝見したいものだと以前から思っていたが、この度ご子息のお一人からこのブログの先頭にあるような写真を見せてもらった。縄綯い機械で荒縄を綯っている一場面のようである。
では、この写真の中のどなたが千葉恭か。この写真から本人を抜き出してみる。
《2 千葉恭》
右側の帽子を被り、ベスト . . . 本文を読む
《1↑ 道路から見える千葉恭の家》(平成22年12月15日撮影)
今まで探しあぐねていた千葉恭の家がやっと判った。
《2 千葉恭の家の玄関》(平成22年12月15日撮影)
ただし、現在はどなたも住んでおられない。
なお、以前”下根子桜の自炊独居?生活”で触れた”『ふるさとケセン』67号(ふるさとケセン社、‘02年3月)”には『彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治 . . . 本文を読む
《1↑「リヤカーを引く賢治」より》
いままでいろいろな著書には、賢治は下根子桜
《2 羅須地人協会》
で農耕自炊生活をしていた頃、その当時としては珍しいリヤカーに花や野菜を積んで、
《3 向小路(同心町)》
などを忙しく行き来したということが書いてあったが、実際どんな感じだったのだろうか。
そうと思っていたところへ、それを如実に教えてくれたのがこのブログの . . . 本文を読む