みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1 私見・大正15年12月2日の真実 

2024-08-25 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 第六章 大正十五年の上京の真実  ここまでの検証によって、「仮説♣」の反例は一つも見つからないので、  賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。 ………………♣は、この反例が見つからない限りはという限定付きの . . . 本文を読む
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4 チェロの入手について

2024-08-24 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)4 チェロの入手について  エスペラントとチェロ  さて、賢治はいつ頃からエスペラントを習い始め、いつごろから本格的に学んだのだろうか。  このことに関しては、『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)によれば、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうことが推測される。  同書には『ア . . . 本文を読む
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3 尾崎喜八と賢治

2024-08-23 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 3 尾崎喜八と賢治  さて、山と自然とクラシック音楽を愛し、「高層雲の下」等を著すなど雲の研究家としても知られている詩人に、尾崎喜八という詩人がいるという。  賢治の尾崎宅訪問  この詩人尾崎喜八に関しては、重本恵津子氏が『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』で次のようなことを述べている。  さて、この時代でもう一つ書き落とせない . . . 本文を読む
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2 楽器演奏技能の真実

2024-08-22 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 2 楽器演奏技能の真実  少し前から私は、宮澤賢治のオルガンやチェロの演奏技能の本当の実力を知りたいものだと切実に思うようになっていた。かつての私は賢治のチェロの腕前はあのヨーヨー・マに及ばないとしても相当の実力があったのであろうとばかり思っていたのだが、どうやらそういう訳ではなさそうだということに気づき始めていたからだ。  チェロ . . . 本文を読む
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1 「文語詩篇ノート」

2024-08-21 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)第五章 仮説の検証(Ⅱ)  少し話がそれてしまった。再び元の道に戻ってまだ残っている証言等によって、次の仮説、  賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……………♣の検証等をしていきたい。ただしここからは「仮説♣」 . . . 本文を読む
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4 「宮澤賢治年譜」の書き変え

2024-08-20 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 4 「宮澤賢治年譜」の書き変え  さて、前回、「もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」とつぶやいたことに関して次に少しく説明したい。  「宮澤賢治年譜」リスト  まずは、再び主だった「宮澤賢治年譜」の中から特にある二つの事項に着目して抜き出しながら、年代順に並べてみたのが次表である。           【表6 . . . 本文を読む
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3 澤里のもう一つの証言

2024-08-19 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)3 澤里のもう一つの証言  ところで、澤里武治の同じような証言が別にもう一つある。  それは『宮澤賢治物語(49)』であり、これについては以前に既に触れたものだが、再掲すると以下のようなものだ。   宮澤賢治物語(49)   セロ(一)  どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると . . . 本文を読む
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2 当時の賢治の心境上から

2024-08-18 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 2 当時の賢治の心境上から  さて、当て嵌めることができないという点で言えば何も時間軸上のみならず、賢治の心境上から考えても当て嵌めることができないのではなかろうか、と私は推測している。  当時の賢治の心境を忖度  先に、大正15年12月2日の「現定説❎」の典拠は澤里の証言、すなわちあの『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」 . . . 本文を読む
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1 大正15年12月2日の「現定説」

2024-08-17 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議  ここでは少し視点を変え、「宮澤賢治年譜」という視点から考察してみたい。 1 大正15年12月2日の「現定説」  先の〝1「新校本年譜」による検証〟において、既に『新校本年譜』による、  賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強 . . . 本文を読む
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3 直接的証拠探し

2024-08-16 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 3 直接的証拠探し  さて、幾つかの証言によって「仮説♣」をここまで検証してきた訳だが、現時点では反例となるようなものは今のところ見つからないから取り敢えず安堵はしている。とは言え、正直隔靴掻痒の感が否めない。いくら数多くの証言等がこの仮説を傍証していても、直接的証拠ではないからである。そこで私は逆に、澤里以外の人物の証言等を探し廻 . . . 本文を読む
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2 証言等による検証

2024-08-15 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 2 証言等による検証  ではここでは、先に私が定立した「仮説♣」、  賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣に関連しそうな証言が述べられているものの幾つかをまずリストアップしてみる(一部は既に触れた . . . 本文を読む
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1 『新校本年譜』による検証

2024-08-14 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 第三章 仮説の検証(Ⅰ)  さて、定説からすれば全く荒唐無稽なものだと嗤われることは十分承知の上で私は次のような「仮説♣」、  賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した………………♣を立ててみた訳だが、ここか . . . 本文を読む
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2 「仮説♣」の定立

2024-08-13 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 2 「仮説♣」の定立  これで、澤里も柳原もともに信頼に足る人物だということを私は確信した。したがって二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人間とは思えない。    二人の証言と「現定説❎」  さて、賢治の最愛の教え子の一人、澤里武治の次の証言、 ○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(略)…その十一月びしょびし . . . 本文を読む
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1 柳原昌悦の証言

2024-08-12 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 第二章 仮説を立てる 1 柳原昌悦の証言  大正15年12月2日の「現定説」  さて周知のとおり、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(以降この年譜のことを『新校本年譜』と略記する)において、大正15年12月2日については、 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち . . . 本文を読む
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2 『宮沢賢治物語』の改竄

2024-08-11 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜) 2 『宮沢賢治物語』の改竄  決定的違い  次に、新聞連載版と単行本版とを見比べてみよう。そのために、単行本の『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年8月発行)の当該部分を示すと下掲の通り。 【Fig.2 「セロ 沢里武治氏からきいた話」】 セロ  沢里武治氏からきいた話  どう考えても昭和二年十一月ころの . . . 本文を読む
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