《創られた賢治から愛すべき賢治に》 過日、東京在住の大先輩 I 氏から、
昭和6年頃菊池武雄が住んでいたという「東京府下吉祥寺1875」とは、現在の武蔵市立第一小学校の東側付近のことであろう。ということをご教示いただいた。ということは、昭和6年に賢治が“包みを二つ差し出して、一杯の水を飲んで帰っていった”という深沢紅子の家はこの辺りにあったということになろう。その頃菊池はその深沢の隣に住んでいた . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 過日、秋田の潟上市に行ってみた。賢治は「石川理紀之助に続く系譜を正しく継ぐ人」だと言う人がいるから、この目で実際に農聖石川の実践の一端を垣間見てみたかったためだ。そして直ぐわかった、羅須地人協会で行った賢治の実践は石川のそれと比べれば到底叶わないものだったということが。
ここまで私なりに「人間賢治像」を自分の手と足で検証してきたところ、やはり『春と修羅 第一 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》原稿と実際の出版時の違い
したがって、元原稿と実際の出版されたものとの主な違いは次のような項目が挙げられる。
(ア) 賢治氏をしたふ女の人も何人かはあつたはづです。
→賢治を慕ふ女の人がありました。
(イ) 例えば或女の人が賢治氏をしたふの余り、毎日何かを持つて訪ねたとします。当時根子村は櫻の羅須地人協会にたつた一人の生活をして居られたのですから、女の人も . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》関登久也の原稿「女人」より
次も同じく、『現代詩歌文学』が所蔵する関登久也の『賢治素描』用の『原稿ノート』の中に書かれているタイトル「女人」の原稿よりである。
賢治氏をしたふ女の人も何人かはあつたは(ず→)づです。勿論賢治氏はそのどの人にも好意を見せ(なかつた→)たりしなかったことは事実ですが、例えば或女の人が賢治氏をしたふの余り、毎日何かを持つて訪ねたとしま . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》筑摩書房に問う
先に“「吉田調書」をめぐる朝日報道と筑摩書房”で私が問題提起した、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)における「新発見」とかたった〝高瀬露宛書簡下書〟の件といい、前回の牽強付会な“賢治年譜「一二月二日(木)」”といい、天下の大手出版社筑摩書房がこのままこれらの件について知らぬ顔の半兵衛を決め込むことは果たして如何なものだろうか。改めて私は筑摩 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「澤里武治氏聞書」の元原稿「三月八日」の持つ重み
さて先の考察によって、『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の元原稿
三月八日
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》元原稿の校正結果
さてこれで、元原稿「三月八日」はどうやら澤里武治が書いたものであろうと判断できたので、それが『續 宮澤賢治素描』に所収されて「澤里武治氏聞書」として実際にはどのように校正されて出版されたのか見直してみると、
澤里武治氏聞書
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、(猫→)根子村に於て農民の指導は . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 さて今回からは、前回
すると、幾つかの事が見えてくる。
とつぶやいた事に関して考察してゆきたい。そのためにまずはそのための資料を以下に再掲したい。
****************************************** (以下は再掲) *************************************************** . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 日本現代詩歌文学館には関登久也の資料が所蔵されていて、その中には昭和19年3月8日付『原稿ノート』もあり、その一番最初に書かれているのが次のような原稿であった。
三月八日
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 昨日の11月13日付『岩手日報』の26面には次のような見出しの記事があった。
朝日報道「重大な誤り」 吉田調書で第三者機関 裏付け取材なしそして、「朝日新聞報道と人権委の見解骨子」が4項目載っていて、そのうちの最初の2つは次のようなものだった。
○吉田調書をめぐる報道には重大な誤りがあり、記事取消は妥当
○記事の根幹部分となる事実は存在せず、裏付け取材もなしそ . . . 本文を読む
久し振りに庚申塔の写真を投稿する。
旧花巻農学校跡地(ぎんどろ公園)近くにあった庚申塔群であり、今まで私はその存在を知らずにいたものである。
左端のそれは明和9年(1762年)建立のものだが、他の二つもかなり古そうだから、賢治もこれらの庚申塔は見ていたはずだ。ただし、「鍋倉の庚申塚」や「春日神社の庚申塔群」などとは違って賢治はここの庚申塔については詩には詠んでいないようだ。
《1 》(平 . . . 本文を読む
11月11日に訪れた旧花巻農学校跡地、ぎんどろ公園の報告である。
《1 》(平成26年11月11日撮影)
《2 》(平成26年11月11日撮影)
《3 ぎんどろ》(平成26年11月11日撮影)
《4 「早春」の詩碑》(平成26年11月11日撮影)
《5 》(平成26年11月11日撮影)
《6 『「風の又三郎」群像』》(》(平成26年11月11日撮影)
《7 》(平成26年11月11 . . . 本文を読む
11月11日に訪れた羅須地人協会跡地である。
あれから3日後の様子である。
《1 》(平成26年11月11日撮影)
《2 》(平成26年11月11日撮影)
《3 》(平成26年11月11日撮影)
《4 》(平成26年11月11日撮影)
《5 》(平成26年11月11日撮影)
《6 》(平成26年11月11日撮影)
《7 》(平成26年11月11日撮影)
《8 》(平成26年11 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 小倉豊文が次のようなことを述べていた。
こうした行動と生活が當時の彼の身體に無謀な冒險であつたのはいうまでもない。過勞による衰弱は日を經ると共に痛々しく近親の眼にたつて來た。数ヶ月を經た夏の一日、父は溫泉に行つて保養するようにと賢治に旅費と與え、自らは樺太へ旅に出かけた。ところが歸宅してみると賢治は何所にもでかけず、その金を砕石工場のためにつかつ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『雨ニモマケズ手帳』の二頁
さて、同じく小倉豊文によれば
第一(ママ)頁は、先ず大きく中央に「昭和六年九月廿日、再ビ東京ニテ發熱」と書き、その後で左上の空間に「大都郊外ノ煙ニマギレントネガヒ、マタ北上峡野ノ松林ニ朽チ埋レンコトヲオモヒシモ」と記し、更に右下の空間に「父母(ママ)共ニ許サズ、癈軀ニ藥ヲ仰ギテ、熱惱ニアヘギテ、唯是父母ノ意僅カニ充タン . . . 本文を読む