《チーゼル》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
さて前回までは、賢治が花巻農学校を辞めた際の証言等を、かつての投稿〝賢治の農学校退任式について〟等を通じて見直して来た。そこで、それらを基にして概観してみると以下のようなことになろう。
まず同僚であった堀籠文之進の証言についてだが、
森荘已池の『(賢治の)こんなにたのしい時代が、どういうことで終わりになったのでしょうか』という問いに対して、 . . . 本文を読む
ここは雪に覆われていた。
《1 》(2023年1月27日撮影)
そこで、雪を除けてみると
《2 》(2023年1月27日撮影)
《3 》(2023年1月27日撮影)
《4 》(2023年1月27日撮影)
《5 》(2023年1月27日撮影)
というように花咲く準備をしていた。
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《オオタカネバラ》(2022年7月14日撮影、岩手)
では、あの「ライスカレー事件」についてはどうであったのだろうか。このことに関しては、高橋慶吾の次のような二通りの証言が残っているから、それらを先に見てみる。まず「賢治先生」という追想では、
或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依賴に數人の百姓たち . . . 本文を読む
《チーゼル》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
では今回も、あの証言、
賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。
いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
賢治さんがいなくなった農学校はまるで暗くなっていた。…………☆を気にしながら、続きをご覧頂きたい。
さらに続けて、私はこんな標題〝 結局なかった賢治の退任式〟の投稿もしていた。
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前回(1/22)ここP2のフクジュソウは間もなく咲くと思っていたので、今日(1/27)は天気もいいしと思って、まずP2を訪れたのだが……
《1 》(2023年1月27日撮影)
《2 》(2023年1月27日撮影)
《3 》(2023年1月27日撮影)
《4 》(2023年1月27日撮影)
《5 》(2023年1月27日撮影)
ここしばらく寒かったせいか、まだだった。
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《オオタカネバラ》(2022年7月14日撮影、岩手)
次に私は、関連する論考等をさらに探し廻ったのだが、〈悪女・高瀬露〉に関して真正面から学究的に取り組んでいる賢治研究家の論考等はほぼ皆無なようで、やっと見つかったのが当時七尾短大教授だった上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)である。
【『七尾論叢 第11号』】
同論文で上田は、
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今日は賢治に訊きたいことがあったので、下根子桜を訪れた。
《1 》(2023年1月29日撮影)
《2 》(2023年1月29日撮影)
《3 》(2023年1月29日撮影)
《4 》(2023年1月29日撮影)
《5 》(2023年1月29日撮影)
《6 》(2023年1月29日撮影)
《7 》(2023年1月29日撮影)
《8 》(2023年1月29日撮影)
《9 》(2023年 . . . 本文を読む
《1 》(2023年1月27日撮影)
《2 》(2023年1月27日撮影)
《3 》(2023年1月27日撮影)
《4 》(2023年1月27日撮影)
《5 》(2023年1月27日撮影)
《6 》(2023年1月27日撮影)
《7 ツルウメモドキだ》(2023年1月27日撮影)
《8 》(2023年1月27日撮影)
《9 》(2023年1月27日撮影)
《10 ここにもあった》 . . . 本文を読む
《オオタカネバラ》(2022年7月14日撮影、岩手)
巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。そして、この伝説はどうもあやかしの可能性が大であることは、後で述べるが、少し調べただけでもすぐわかる。それから、賢治研究者として私が最も尊敬しているお一人が、「あっ、あれは賢治が悪いのさ」とすぐさま断定したことを鮮明に覚えている。ところがその一方で、少なからぬ賢治研究家はこの伝説を鵜呑みにし、の . . . 本文を読む
《チーゼル》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
では今回も、あの証言、
賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。
いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
賢治さんがいなくなった農学校はまるで暗くなっていた。を気にしながら、続きをご覧頂きたい。
それは、こんな標題〝 花巻農学校生の動揺〟の、やはり以前の投稿です。
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《1 あれっ》(2023年1月27日撮影)
《2 倒れた氷筍の傍にあるのは》(2023年1月27日撮影)
《3 今年初めてのばっけだ》(2023年1月27日撮影)
《4 そしてここ土沢にはその花がもう咲いていた》(2023年1月27日撮影)
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《青いケシ》(2010年7月10日撮影、雪宝頂)
さてここまでの検証等により、賢治に関しては非専門家の私なのに、賢治が昭和3年8月に実家に戻ったのは病気が重くなったためだったというよりは、10月に行われる「陸軍大演習」を前にして吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」に対処して「自宅謹慎」したためだったということを実証できた。そして、このような主張を公にした賢治研究者としては大内秀明氏や三浦幸司氏以外に . . . 本文を読む
前回(1/22)は、氷筍の赤ちゃん程度のものしか見られなかったのだが、その五日後の今日(1/27)の様子は如何?
《1 おっ》(2023年1月27日撮影)
《2 もしかすると》(2023年1月27日撮影)
《3 でっかくなっているものもあるじゃないか》(2023年1月27日撮影)
《4 》(2023年1月27日撮影)
《5 この赤ちゃんたちもすぐに》(2023年1月27日撮影)
《6 . . . 本文を読む
《チーゼル<*3>》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
さて、この度ある著書に、
賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。
いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
賢治さんがいなくなった農学校はまるで暗くなっていた。…………☆という証言が載っていることを知った。つきましては、この証言を気にしながら、前々回の続きを以下順々にご覧頂きたい。
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《青いケシ》(2010年7月10日撮影、雪宝頂)
さて、私は仮説
昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……★を定立した。そして、今のところその反例は見つかっていない。したがって、この仮説は今後反 . . . 本文を読む