みちのくの山野草

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露に関するMの証言等は全て検証を要す

2014-08-13 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
露に関するMの記述内容の危うさ
 さて先の検証結果から、「昭和六年七月七日の日記」中の
 彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)73pより>
という記述内容や
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。彼女はそれほど眞劍だつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)89pより>
というそれは共にその信憑性がかなり危ういものだということを知った。
 もちろんこれらについては上田哲も同様の不安を抱いており、たとえば前者の「彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのつて」については、
 これは彼女の心の奥底の状態であってM(投稿者イニシャル化)は知ることができないものである。Mは、高瀬露からその心情を聞いたのだろうか。
              <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)77pより>
と訝っている。

露に関するMの決定的な嘘
 そして同氏は引き続いて次のように
 Mは、高瀬露に逢ったのは、〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。
              <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)77pより>
述べているから、この記述に従えば、Mは直接上田に対して「その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった」と語っていたことになる。
 ところがMは実は一方で、『ふれあいの人々 宮澤賢治』の中で、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。この人の娘さんが、亡き母の知人に「古い日記に母が『宮沢賢治は、私の愛人』と書いております」と話したという。
              <『宮澤賢治 ふれあいの人々』(M著、熊谷印刷出版部)17pより>
とも述べていることを私は知った。しかも「この女の人」とは前後の文章から露のことを指しているということがすぐ読み取れる。
 したがって、上田に対してMは「その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった」と語っているのに、露が結婚してからもMは露に会って取材していると別のところでは記述していることになる。明らかにこれらの間には矛盾があり、Mはその場しのぎのしかし決定的な嘘ついているということが明らかになった。これで、Mの言っていることや記述にはその信憑性がかなり危ぶまれるものがあるということが確定的となった。
 よって、
 露に関するMの証言等はそのままでは賢治伝記の資料としては使えないことが明らかになった。
と言わざるを得ない。Mの「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関する記述内容の真偽はすべからく検証を要する。

 どうやら、露に関するMの証言を賢治伝記の資料として用いようとするならば、それらは全て一度徹底的に検証せよというミッションが天国の賢治から下ったようだ。一度しか会っていないと言っていながら、別の場所では、その他の機会にも会っていると述べているくらいだから、もしかすると実は一回も会っていないことさえもあり得るということまでも、である。

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