《創られた賢治から愛すべき賢治に》
昭和2年の新聞報道によればさて、「Mは「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった」ということは、Mの当時の病状がかなり思わしくなかったことからもほぼ言えそうだということがわかったが、たぶん「病状がかなり思わしくなかったこと」はある程度広く知られていたに違いない。なぜならばMは既に生出仁とともに「岩手詩人協会」を設立し、機関誌『貌』を創刊するなどしてそれなりに知られていたはずだからである。
そこで、当時の『岩手日報』を少し調べてみよう。
◇昭和2年4月7日付『岩手日報』
・文藝消息
▲M氏、病氣稍々軽快近く啄木の結婚當時をテーマとして短篇小説に筆を染める由
・「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
◇昭和2年5月19日付『岩手日報』
・「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
◇昭和2年6月5日付『岩手日報』
・「『牧草』讀後感」 下山清
◇昭和2年6月16日付『岩手日報』
・「郷愁雑筆」 上田智紗都
・文藝消息
▲M氏、病氣稍々軽快近く啄木の結婚當時をテーマとして短篇小説に筆を染める由
・「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
その時の一人M君は今、宿痾の為、その京都の様な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以来詩作は日本詩にもちよいちよい発表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに帰郷されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
その時の一人M君は今、宿痾の為、その京都の様な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以来詩作は日本詩にもちよいちよい発表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに帰郷されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
◇昭和2年5月19日付『岩手日報』
・「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
仙臺の事、メーデーの事、同人雑誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸郷してるM君の事、幹次さんの事…(略)…
仙臺の事、メーデーの事、同人雑誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸郷してるM君の事、幹次さんの事…(略)…
◇昭和2年6月5日付『岩手日報』
・「『牧草』讀後感」 下山清
Mさんが病氣のため歸郷したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
◇昭和2年6月16日付『岩手日報』
・「郷愁雑筆」 上田智紗都
五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(略)…
いつも考へてゐながらMには一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。…(略)…
いつだつたか在京石川令児兄が自分が元氣ななくなつたとかかいてゐたが、全くこのごろは何處へも無音にすぎてしまつて禮を欠いてゐる人が何人あるか知れない、在京の生出仁、小野寺路茂どうしてゐるやら、生出君も割に筆不精になつたらしい、歸郷の前雑司ヶ谷に白鳥省吾氏を訪づれた時も、君の話が出て、やはり消息がないと云つてゐた。…(略)…(花巻川口町鍛冶町三田方にて)
いつも考へてゐながらMには一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。…(略)…
いつだつたか在京石川令児兄が自分が元氣ななくなつたとかかいてゐたが、全くこのごろは何處へも無音にすぎてしまつて禮を欠いてゐる人が何人あるか知れない、在京の生出仁、小野寺路茂どうしてゐるやら、生出君も割に筆不精になつたらしい、歸郷の前雑司ヶ谷に白鳥省吾氏を訪づれた時も、君の話が出て、やはり消息がないと云つてゐた。…(略)…(花巻川口町鍛冶町三田方にて)
したがってこれらの報道からは、当時Mは病気のために帰郷し、重病だったので病臥していたことがかなり世に知られたということになろうし、Mは詩人としての交遊関係が広かったから、「一九二七年」頃のMは長期療養中だったことは詩友の間では特によく知られていたことがこれで確実になった。しかも、Mからはさんざんお世話になったあの下山清が「Mさんが病氣のため歸郷したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院した」と言っているのだから、これは事実であったであろうと判断できる。なおかつ、広辞苑によれば
脚気衝心:脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を起こし、多くは苦悶して死に至る。
とあるから、
当時のMはかなり重篤であった。
と言えよう。
Mの当時の執筆活動
ところがこの◇昭和2年6月16日付『岩手日報』の記事以降、Mの消息の記事はぷっつりと途絶えてしまう(見落としたのだろうか)。一方で、浦田敬三の『M年譜』によれば昭和2年8月以降の記載事項は以下のとおりである。
◇8月10日 (劇)愛欲を見る(岩手日報)
◇9月1日 (詩)枯れる(銅鑼 №12)
◇9月6日 農民劇指導原理(岩手日報)
◇10月7日 第一回素顔社(岩手日報)
◇10月13日 友へ送る(上)(岩手日報)
◇10月14日 友へ送る(下)(岩手日報)
そこで、『岩手日報』の実際の記事をそれぞれについて見てみると、次ようなこと等がそこには載っていた。
◇8月10日付『岩手日報』
・愛欲を見る M
◇9月6日付『岩手日報』
・農民劇指導原理 M
◇10月7日付『岩手日報』
・第一回素顔社展の印象 M
◇10月13日付『岩手日報』
・友へ送る―彼の詩集に就いて―(上) M
◇10月14日付『岩手日報』
・友へ送る―彼の詩集に就いて―(下) M
以上が、6月中旬~12月末日までの『岩手日報』のM関連の記事の全てであると思われる。したがって、6月中旬~12月末までのMの病状や回復状況に関する情報は全く得られないが、少なくとも執筆活動等はできたようだということがわかる。
◇8月10日付『岩手日報』
・愛欲を見る M
確か、第一幕が終つた時と思ふ。小泉一郎氏と阿部康蔵氏から、何か、今夜の印象を、日報に書けと云はれた。自分は困つたと思つた。一分の隙もない氣合に壓倒されて感想も何も出來つこないと思つた。ぐんぐんと迫つて來る。息つくひまもない。うまい――うまい。とつぶやかさされてばかりゐる。で書けさうもないと辭退すると、そんならその如何に壓倒されたかを書けばいゝといはれた。…(略)…友人たちよ自分はうそはつかない。ほんとうにいゝものだ。ぜひ見に行つてくれ。細評はいづれ後にして、で(ママ)ひ行きたまへとだけぜ(ママ)筆をおかう。
◇9月6日付『岩手日報』
・農民劇指導原理 M
序
近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになった。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。…(略)…
近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになった。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。…(略)…
◇10月7日付『岩手日報』
・第一回素顔社展の印象 M
スケッチ板五六枚描き、皆割つて了つたといふ経歴より持ち合さない私が、素顔社展の印象記を書くのは随分をこがましい。が私は照井荘助君のあの眞面目さと熱に對して、どうしても黙つてをられない氣持を持つてゐる。…(略)…
◇10月13日付『岩手日報』
・友へ送る―彼の詩集に就いて―(上) M
『銅鑼』同人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。かれはまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自称しながら、文學青年をあつめて東京にゐて、雑誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
みつちやんと
やつちやんは
蓮花田のなかで
まるまるをした。
何といふ素朴さであらう。幼い童児等が二人でまるまるをしたのである。春が、にこにこと笑つてその可愛いゝしぐさをみて居たのである。
この詩の中に、私は『神』になつた坂本を感ずる。
…(略)…
かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮沢賢治詩集『春と修羅』の中の、無声慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に触れるのである。
彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。かれはまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自称しながら、文學青年をあつめて東京にゐて、雑誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
みつちやんと
やつちやんは
蓮花田のなかで
まるまるをした。
何といふ素朴さであらう。幼い童児等が二人でまるまるをしたのである。春が、にこにこと笑つてその可愛いゝしぐさをみて居たのである。
この詩の中に、私は『神』になつた坂本を感ずる。
…(略)…
かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮沢賢治詩集『春と修羅』の中の、無声慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に触れるのである。
◇10月14日付『岩手日報』
・友へ送る―彼の詩集に就いて―(下) M
以上が、6月中旬~12月末日までの『岩手日報』のM関連の記事の全てであると思われる。したがって、6月中旬~12月末までのMの病状や回復状況に関する情報は全く得られないが、少なくとも執筆活動等はできたようだということがわかる。
現段階での判断と結論
さてでは少し考察をしてみよう。
◇8月10日付及び10月7日付『岩手日報』に載っていた記事からはそれぞれ、
前者からは、少なくともMはこのとき実際に演劇「愛欲」を観に行っていたであろうことがわかる。
後者からは、実際Mがその展示会に直接行っていると判断できる。
したがって、Mは長期療養中の身とはいえ、多少は出回って歩けるほどの病状に当時はあったということになろう。
◇9月8日付『岩手日報』に寄稿しているMの「農民劇指導原理」の文中の『過日、本紙に出た高橋剛君の文云々』という記述からは、病臥中のMは『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうことが窺える。なぜならば、たしかに約一ヶ月前の同紙には高橋剛の「農民劇に就いて」という連載記事が載っているからである。
さて、この9月8日付『岩手日報』に載ったMの「農民劇指導原理」に関しては、その約一ヶ月前の8月8日には山形の新庄から松田甚次郎がわざわざ下根子桜を訪ねて来て、初めて上演する農民劇について、賢治からは『色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて』もらったということだから、もしMが『一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった』とすれば、そのような話がMと賢治との間に交わされていた可能性が頗る高いはずだが、そのことはこの寄稿では全く触れられていない。
◇10月13日、14日付『岩手日報』からは、Mは農民詩人・坂本遼の詩集『たんぽぽ』を激賞していることがわかる。そして、その批評の最後に宮澤賢治の名が出てきているが、もしMが『一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった』とすれば、少なくとも二人の間でそのことに関して何らかのことを話題にしていたはずだ。とりわけ、当時の賢治は「農民詩」といってもいいような詩を沢山詠んでいた頃だからである。ところが“友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)、(下)”ではそのことに関しては全く触れられていない。
しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の“「くぬぎ」第三號瞥見”にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうMはこのことを見逃すはずもなく、もしMが「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということであれば、Mは「宮澤賢治氏は健在なりや」に対して、『いや賢治は健在でしたよ』等というようなことを一連の寄稿において必ずや言及していたはずだ。ところが実際にはそのようなことをMは一言も何も述べていない。
以上、もしMが病身をおして「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」というのであれば、そのときのことをMが他の寄稿と同様に岩手日報に寄せない訳はないと思われるが、そんな投稿は一つも見つからなかったし、一連の寄稿の中でさえそのことに一言も言及していない。
したがって、当時の『岩手日報』の一連の記事からは、Mが「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということはほぼあり得ず、この頃のMは多少外出することはできてもそれはせいぜい盛岡周辺だけであり、そこからわざわざ花巻までやって来て下根子桜まで歩いて行き、しかもそこで一泊できるまでにはまだ回復していなかったであろうと判断した方が妥当なようだ。これが現段階での私の結論である。
続きへ。
前へ 。
“『聖女の如き高瀬露』の目次”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
さてでは少し考察をしてみよう。
◇8月10日付及び10月7日付『岩手日報』に載っていた記事からはそれぞれ、
前者からは、少なくともMはこのとき実際に演劇「愛欲」を観に行っていたであろうことがわかる。
後者からは、実際Mがその展示会に直接行っていると判断できる。
したがって、Mは長期療養中の身とはいえ、多少は出回って歩けるほどの病状に当時はあったということになろう。
◇9月8日付『岩手日報』に寄稿しているMの「農民劇指導原理」の文中の『過日、本紙に出た高橋剛君の文云々』という記述からは、病臥中のMは『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうことが窺える。なぜならば、たしかに約一ヶ月前の同紙には高橋剛の「農民劇に就いて」という連載記事が載っているからである。
さて、この9月8日付『岩手日報』に載ったMの「農民劇指導原理」に関しては、その約一ヶ月前の8月8日には山形の新庄から松田甚次郎がわざわざ下根子桜を訪ねて来て、初めて上演する農民劇について、賢治からは『色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて』もらったということだから、もしMが『一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった』とすれば、そのような話がMと賢治との間に交わされていた可能性が頗る高いはずだが、そのことはこの寄稿では全く触れられていない。
◇10月13日、14日付『岩手日報』からは、Mは農民詩人・坂本遼の詩集『たんぽぽ』を激賞していることがわかる。そして、その批評の最後に宮澤賢治の名が出てきているが、もしMが『一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった』とすれば、少なくとも二人の間でそのことに関して何らかのことを話題にしていたはずだ。とりわけ、当時の賢治は「農民詩」といってもいいような詩を沢山詠んでいた頃だからである。ところが“友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)、(下)”ではそのことに関しては全く触れられていない。
しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の“「くぬぎ」第三號瞥見”にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうMはこのことを見逃すはずもなく、もしMが「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということであれば、Mは「宮澤賢治氏は健在なりや」に対して、『いや賢治は健在でしたよ』等というようなことを一連の寄稿において必ずや言及していたはずだ。ところが実際にはそのようなことをMは一言も何も述べていない。
以上、もしMが病身をおして「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」というのであれば、そのときのことをMが他の寄稿と同様に岩手日報に寄せない訳はないと思われるが、そんな投稿は一つも見つからなかったし、一連の寄稿の中でさえそのことに一言も言及していない。
したがって、当時の『岩手日報』の一連の記事からは、Mが「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということはほぼあり得ず、この頃のMは多少外出することはできてもそれはせいぜい盛岡周辺だけであり、そこからわざわざ花巻までやって来て下根子桜まで歩いて行き、しかもそこで一泊できるまでにはまだ回復していなかったであろうと判断した方が妥当なようだ。これが現段階での私の結論である。
続きへ。
前へ 。
“『聖女の如き高瀬露』の目次”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます