みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

こうして全てが皆繋がった

2014-09-09 09:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
準備完了
吉田 実は、この中舘と賢治との間のやりとりに関して山内修氏は、 
 一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、…
              <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)197pより>
と疑問を呈している。
荒木 たしかに。もし自分に非がなかったのならば賢治はそこまでムキになる必要もなかろうに。
鈴木 まして中舘は盛岡中学の5年も先輩だ。その中舘に対して賢治が「呵々。妄言多謝」と述べていたということは、常識的に考えればそんなことはあり得ない。あまりにも失礼な言動だからだ。
吉田 しかし現実にはそのようなことが起こっていたわけだから、それは、賢治は相当厳しいことことをズバリ中舘から指摘されたということの裏返しだとならざるを得ない。
荒木 そうだよな、大人の分別をもって「黙殺」すればいいのに。賢治は余程腹に据えかねたということか。
吉田 では一体その時どんなことを賢治は中舘から言われたのかというと、残念ながらその内容については従前知られていなかった。ところが、この度KC氏から
    露の娘さんが、「昭和7年に、母のところに宮澤賢治が会いに来たということです」と言っていた。
ということを教わって僕はピンときた。まさしくこの賢治の行為ならばその「内容」にピッタリと当て嵌まると。
荒木 たしかにな、小笠原家に嫁いだばかりの露の許にわざわざ賢治が訪ねて行ったのだから、露は立場がなくなるし、もしこれが夫の小笠原牧夫や小笠原家の中に知れてしまったならば、当時のことだからただ事では済いし、このことが噂となってたちどころに広まったであろう。なにしろ、小笠原家はかつて遠野南部の家老格の家柄だったはずだから。
鈴木 それではこれで大体実験道具は揃ったようだから、あとは一つだけ
    この噂話「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」が花巻にも伝わってきた。
ということを仮定して、以下このことに関する思考実験をしてみよう。

思考実験開始
吉田 それでは、僕が以前主張したこと<*1>を言い換えながら実験を開始してみると、
 賢治と親しいΣがこの「噂話」を聞きつけたので、彼は病床の賢治にこの「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 その時はそんなにむきになつて弁解したという賢治を一寸おかしいと佐藤勝治は思ったが、実はそうではなかったということがわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に使用するようないい加減な男Σのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をした。ところがDの証言から判るように、人の告げ口を信じやすい賢治のことだからそれを真に受けてしまった。それが元で、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
ということになる。
鈴木 そうか、前の場合にはこの「噂話」の中身がわからなかったから今一つ釈然としなかったが、これですっきりとした。
荒木 でもさ、どうして「関登久也の家に」だったのだべ?
吉田 それはいまのところはっきりわかってはいないが、素直に考えれば
 訪ねてこられた露としてはその賢治の行為は迷惑この上ないことだったから、そのことを関登久也の妻でもあり花巻高等女学校の級友でもあったナヲに相談した。
というあたりだろう。
鈴木 たしかにそれ以前に、賢治から露が貰った本を返却した際にも露はナヲにそれを頼んでいるから、その可能性は充分にあり得る。しかも、その本返却の件を夫の登久也が日記に書いているくらいだから、この「噂話」の場合もナヲは登久也に話したであろう。
荒木 そして、登久也等から友人のΣにもこの「噂話」が伝わった、という流れか。
吉田 そうすると、やはり以前“曾て賢治氏にはなかつた事”で話題にした関登久也の「面影」の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯を語り、了解を得ると云ふ様な事は曾て賢治氏にはなかつた事ですから、私は違つた場合を見た様な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
              <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>
についても、
    賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ
      →「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」という噂話があるという
と置き換えればすんなりと当て嵌まる。
鈴木 この表現「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」からは、いかにもその「女の人」の側の行為にこそ問題がありそうな印象を受けるが、もしこの「女の人」が事実「賢治氏を中傷的に言ふ」たのであれば、それが露であるということの蓋然性は極めて低い。そのようなことをする時間的余裕がない、遠距離であるという地理的困難さがある、そもそも結婚したばかりの露が賢治を中傷する必要性がないetc.少なからずその理由は挙げられるからだ。
荒木 それと比べれば、「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」という行為の方が遙かに蓋然性が高かろう。こちらならばその中身が具体的にわかったわけだが、一方の「賢治氏を中傷的に言ふ」たについてはその中身が何かもわかっていないのが実態だから、なおさらにだべ。
吉田 だから、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」は実は真実ではなく、真相は「賢治が結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」であったということさ。
鈴木 ではそろそろ思考実験はこのあたりで終えることとして、この思考実験の結果も踏まえ、なおかつ先の
    この噂話「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」が花巻にも伝わってきた。
という仮定以外の推測部分は極力排除してまとめてみよう。

全てが繋がる
荒木 大体こういうことになるだろう。
 昭和7年、
(1) 賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねて行っていた。
(2) そのことはスキャンダルとしてすぐに広まってしまった。
(3) これを聞きつけたΣがそれを賢治に伝えたところ、賢治は関登久也の家に行って弁解した。
 なお、関登久也の「面影」の
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯を語り、了解を得ると云ふ様な事は曾て賢治氏にはなかつた事ですから、私は違つた場合を見た様な感じを受けましたが、
と佐藤勝治の「賢治二題」の
 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。
のエピソードは同一のものである。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が
 身辺聞き込みのことは高瀬女史の風聞かもしれぬが、神明に誓って終始普通の訪客として遇したのみであること、聞き込みなどと岡っ引きの使うような言葉を新宗教の開祖が使うべきでなかろう。
と書いている「高瀬女史の風聞」とは「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」のことであり、中舘がこのゴシップを賢治に伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」とかなり辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
鈴木 なるほどな、いままでこれらがそれぞれ別個のものだとばかり思っていたが、こうして皆すんなりと全てが繋がった。何のことはないいずれも皆、ある一つのことについて述べいたということだったのか。
荒木 つまり、事の起こりは「昭和7年、賢治は遠野の小笠原家に嫁いで行った露にわざわざ会いに行った」ことにあったのだったということになるのだべ。
吉田 したがって、これだけ合理的に説明ができたわけだから、先の仮定
    この噂話「昭和7年賢治は遠野の露に会いに行った」が花巻にも伝わってきた。
もほぼ現実にも起こっていたであろうことがいえるだろうし、露の娘さんの
    昭和7年に、母のところに宮澤賢治が会いに来たということです。
という証言もその信憑性がかなり高いものとなったともまた言えるだろう。
****************************************************************************************
<*1:投稿者註> “曾て賢治氏にはなかつた事”において吉田は次のように語っていた。
 もうちょっときつい言い方になるが、僕からすれば 
 賢治と親しいΣが病床の賢治にその後の露の「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて、翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 その時はそんなにむきになつて弁解したという賢治を一寸おかしいと佐藤勝治は思つたが、実はそうではなかったということがわかった。
 他人の原稿を無断でラジオ放送に使用するようないい加減な男Σのことだから、病床の賢治に「噂話」程度の露の行為を告げ口、それも告げ口の常套な誇張と悪意によるそれだったことと、Dの証言から判るように、人の告げ口を信じやすい賢治のことだからそれを真に受けてしまった。それが元で、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行つた。
 また、後にΣは「賢治○○」に露に関わる手記を発表したが、その手記のいい加減さは、このΣのいい加減さによるものだと捉えれば説明がついたので、私(佐藤)とすればこの手記成立の理由が明確に解けたのである、と腑に落ちた。
どうやら、佐藤はこう言いたいかったようだな。

 続きへ
前へ 

『聖女の如き高瀬露』の目次”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4141 南本内岳山行(9/3、上... | トップ | 4142 南本内岳山行(9/3、頂... »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
〈好い加減〉ではなく〈イイ加減〉なるは (辛文則)
2014-09-09 18:45:23
  鈴木守様
   相も変わらず時候挨拶抜きで言上つかまつります。
  矢張り、〈Σ某〉とはあの、「その言詮が佳く好い加減塩梅ではなくイイ加減で無責任なるが故に不可信用なる漢T」ということで宜しかったようですね。
   まあ、〈口言の四悪毒〉と申せば、〈妄語(虚言)〉・〈綺語(おべんちゃら)〉・〈悪口(誹謗中傷罵詈雑言)〉・〈両舌(二枚舌策略言)〉の4つとなり、賢治が白堊校大先輩に対けて「妄言多謝」などという、揶揄のレベルをはるかに超えた悪口を弄したというのは、「不貪慾戒・不瞋恚戒・不愚癡無明戒を自らに対けて諭した漢」としては、なんともはや「弱き者汝の名は人間(じんかん)人人(にんにん)なり」、ということに。
   白堊校百四十年に向いつつある学舎訓が、先ず始めに〈不羈奔放〉、その創立三十周年を目前にして〈忠実自彊・質実剛健〉に改められ、賢治が入学したのは、その新校訓提示の翌年であったというエピソードは何度も書いて来ました。つまり、白堊精神のヴェクトルが、賢治入学の直前で大きな転換をしている、と。  で、かの〈あらヱビス胡堂野村長一〉は、そのエッセイで、「その機を境にして人材が出なくなってシマッタ」とまで匂わせています。直截的には、自身が裏で糸をひき啄木たちを操った〈教員排斥ストライキ事件〉への後悔と懺悔としてのエッセーになっているのですが、時節的に妄想すると、……。
   固より、リベラリスト前波仲尾からナショナリスト江崎誠への転換は、日露戦争の負債を受けた〈忠君愛国・滅私奉公〉を踏襲していた訳ですね。で、賢治入学直後に、あの幸徳秋水秋水への公権力テロルが起こる訳です。十四歳の少年の思索力はそんな時代情勢に対処できたのか否か、と。
   模擬的意識の持ち主たるマジョリティはなる十四歳は兎も角として、漱石が道う「時代先取り能力としての天才的意識の働かせ人人」、の場合は。因みに、小生は、三十歳の頃、「凡人ガ九十年カケテ浪費スルエネルギーヲ天才ハ三・四十年程度デ消耗シテシマウノカモシレナイ.何にでも例外はあろうが…」なんて妄想して遊んだりしたものです。
   で、その十年後の大正八年に、大正デモクラシーの波を背に、その二年後に暗殺される原敬の密命を受けた、全国校長会会長だったリベラリスト春日重泰が着任し、太田達人や平井直衛そして鈴木卓苗の甥瀬川吾朗(後、釜石応寺住職・釜石夜間中学継承)などのリベラルを白堊校教師として招いたのですが、十四年を経た昭和二年、新渡戸稲造を講演に迎えた直後、薩摩川内に左遷され、橘川眞一郎の死と相まって、盛岡中学校校友会雑誌第三十八号に寄稿を目指して書かれた『1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』、は宙に浮いてシマッタといったという妄想的思考実験も。
   で、復亦(またまた)、話は逸れますが、小生、「白堊校同窓会世界デハ,名目形式デハアレ,卒業年次ノ上下ハ世俗地位ノ上下ニ優先スル.」という、不羈奔放よりは忠実自彊に準じた習いを、それなりの美風として尊重しています。実際、白堊校同窓職員の最も下っ端職員として、創立百周年事業成就までの同窓会総会関係業務の会場設営や席次確認作業だったのです。世俗的席席次設営は世俗的地位の上下を厳格に守らなければなりませんよね。しかしながら、白堊同窓会関係の会議では、名目的とはいっても……。例えば、岩手県知事達増卓也は盛岡市長羽四市ハシイチ次男や紫波町長のはるか後輩です。固より、達増卓也の白堊校先輩は、県庁内や岩手日報内にはゴロゴロ居る訳です。
   で、盛岡市長工藤巌氏が同窓会長をしていた当時、自民党政治家、社会党政治家、共産党政治家の有力者は白堊同窓生。で、厄介なのは、一番気を遣わなければならないのは、政党間などではなく、大臣から立候補予定者が綱引き合っている自民党内派閥関係性にどう対処するか、などと。
   しかし、「日戦争中米十五年戦争に向かう時代」の前舞台なる「大正十二年から昭和二年頃」のヤヤコシサというのは。で、鈴木先生の確認作業によって、「天皇行幸観武台演習」のあった〈昭和三年〉以後の霧はかなり晴れて来たという次第で。
   おっと、話は、「賢治と中舘氏の間」の、世俗的権威上下儀礼と白堊校先輩後輩間儀礼の問題でした。ここで、「白堊同窓会内宙宇に於いて世俗的権威地位の上下性に準拠してしまったなら如何?」、と考えると。政治軍事権力的利害得失、経済的利害得失、世俗名声的利害得失、そして藝術・哲学などの文化的宙宇での意義付けや価値付けの問題など、……。ごく簡単に言うと、「如何なる人と人との間の関係性の意義価値指標を一大事と見做す乎」、と。で、この問題は、同窓関係性とか師弟関係性などにも敷衍する訳です。白堊校レベル以上の学校では、「世俗ステイタス的に師を超える行く人人」など腐るほどに居る訳で。
  「世情のクーキなど読みたくもない!」という情緒は、必ずしも「読ム能ガナイ」ということの反映ではありませんよね。「読ム事ニ疲レ果テタ」、と。
  で、漱石が「四十而愈々煩悩ス」を実感していた漱石が、『吾輩は猫である』での〈太平の逸民〉、『草枕』での〈非人情〉そして『彼岸過迄』での〈高等遊民〉という名で言語表現した見得(けんて)あるいは身心境位に託した心地というのは、世俗で流行った〈高等遊民〉とは大分趣を異にしています。
   で、何度も戻る訳ですが、賢治がその『不貪慾戒』に於いて、「ターナーのサラドの上等な色」というか引用文則と「慈雲尊者の十善戒」を用いた文脈での〈高等遊民〉というシニィフィアン(名)に対応させるべきシニフィアン(意味・意義・価値)や如何、と。
   「愛すべき」、「親しみ易い」、「ポピュレイトな」、「コムフォルミスティックな」、「ユニフォーミスティックな」などなどの道取を念頭におき、、「ワカリヤスイ」とは「能く調べ深く考えなくとも容易にワカッタ気ニナレル」と同義なのだと考えると、「ヤンキーで反知性的」という、斉藤環君や内田樹氏などによるクリティカル言論活動で、如何なる時代風潮への順応的画一性への警戒心を吐露しているのか、と。道く、「アブナイ、アブナイ、気をつけてさえアブナイのに、……」、などと。あまりに悲観主義的なので不識。
    文遊理道樂遊民駄弁る  2014,9,9 18:25
返信する
Unknown (辛様(鈴木))
2014-09-10 10:24:28
 お早うございます。
 たびたびのコメントありがとうございます。
 秋田では「川反」で美味しい料理や酒を堪能してきましたので、ちょっといまは腑抜けております。

 さて、少し補足を致します。
 実は、〈T〉は地元での評判があまり芳しくありません。したがって、地元の勝治が、それも互いに家も近いそのような〈T〉のこと知らないわけはないので、彼のことを『もう少し上等な人間であり』とか、『後日「賢治○○」の著者の性格を知り』とは言わないと判断できます。
 したがって、やはり
Σ≠〈T〉
であり
Σ=〈M〉……①
でいいのではなかろうかと判断しております。
 なお、勝治のことを直接よく知っておられるある方からも『勝治という人は極めて信頼に足る人だ』ということを私は直接聞いております。

 次です。
 小倉豊文は、Mが会社を辞めた際のことに関して、

 …数え年三十五才であった。その機会を決意して自費出版したのが「○○(伏せ字化は鈴木)」だったのである。しかし出版費一千円は、花巻の佐藤勝治さんが分家する為に両親から貰った金の全部を、無理矢理使ってくれと出してくれたものであった。…(略)…その後日談が面白い。佐藤さんはこの出版費寄付のことが新聞に載ってしまったので、佐藤家では大問題となった。そこで佐藤さんは呉れたのではない貸したのだということにして一おうおさまったが、M(イニシャル化は鈴木)さんも困ってしまい、元来、社長が無理に退職したので退職金を一文も出さなかったのが問題の起りだから、「○○」を三百部五百円で買い取ってもらい、それを佐藤さんに返却した。しかし後の五百円はとうとう貰いぱなしになってしまったとのことである。

と語っております。となれば、昭和15年頃のMと勝治との関係は良好だったと考えられます。もちろんまた、当時の1,000円はすこぶる高額ですからMは勝治にかなりの恩義があるはずのです。
 そこでもう一度前掲の小倉の伝えるエピソードを見直してみますと、これは小倉が勝治から聞いたのではなくて、Mから直接聞いたものだということが「文章の表現の仕方」からほぼわかります。
 ところが、勝治は『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)所収の「賢治二題」で『「賢治○○」の著者は、彼の手許に置いていた私の原稿を、無断でそのままラジオ放送に利用したこと一つでその性格が知られよう。』とも述べていますから、先の“①”に従えば、昭和29年頃の勝治はMのことをもはや信頼していなかったということになります。
 なお〈T〉の「賢治先生」(『イーハトーヴォ創刊号』所収)は昭和14年10月21日の「盛岡賢治の会例会」における〈T〉の談話を活字にしたものだそうです。したがってこの〈T〉のことを勝治は“…の著者”とは言わないのではなかろうかとも私は判断しております。

 最後になりましたが、辛さんのコメントの最後の『彼女は小生にとっての聖女なんですかね。』についてですが、もちろんそうでしょう。大変ごちそうさまでした。
                                                               鈴木 守
返信する
或る想い出の記所感 (辛文則)
2014-09-10 21:11:20
    鈴木守様
  「無謀にしてたいそう勇猛(ゆうみょう)果敢なる道破」、懼れ入りやの鬼子母神、で御猿。何しろ、「文切り形の言語動作」の意味での貴侯貴殿の〈道(ことば)の理(ことわり)〉にほとほとトホホでござります。
  で、此処で用いました〈無謀〉というシニフィアンの裏(うち)に蔵(かく)しましたシニフィエの深みは「多義にして両義」なる〈アムビギュイテ〉は次の如しでゴザリマス。
  先ず、世俗的に謂う、「通説順応的な世間知の恐ろしさを知らぬ愚癡無明」という意味。固より、それは百母承知之介でゴザル可し。それ不識にして〈勇猛(ゆうみょう)〉などとは申すまじ。
  因みに、「〈勇猛精進〉と書いて〈ゆうみょうしょうじん〉と読む」は禅語で、小生の枕流漱石我田引水読みでは、「修証一如一等なる随処に作主なれば、立処皆真なるべし可し。」、などと。〈修證一如一等〉なるボキャは道元希玄禅のキーワードで、「修行と証明(サトリ・覚悟)とは不離不可分なるべし」の意。この場合の〈一等〉は〈大等〉と同義で、〈一〉は〈ファースト〉の意ではなく〈同〉あるいは〈全(トータルではなくホールとしての)〉の意。〈万法帰一〉〈万象同帰〉〈万物斉同斉一〉が同義語であるのはその意味に於いて。例えば、漱石が『草枕・一』で用いている「不同不二の乾坤」という道得は「不一不二の天地日月(ニチガツ)」と書いてもその含意は同じになります。因みに、賢治が「天帝釈(インドラ)に敗け続けても蓮華の茎根孔中に蔵れて生き延びて闘い続けた者の名はアフラ(生命)アスラ(非天)なり「」というリグヴェーダ神話を、漱石や稲造、黙雷や大等を識っていたことはほぼ確実ですが、賢治が知っていたかどうかは、…。〈修羅〉あるいは〈阿修羅〉という名を、「六道の阿修羅」の限りで読むか、「〈ツァラトゥストゥラ〈ゾロアスター・ザラストロ〉とは、前六世紀アケメネス朝ペルシアにて魔神アフラアスラを善大神アフラマズダーに挿げ替えて拝火教を作った漢なり。」という歴史をまで踏まえて遊読するか。「森の神ウンババを滅ぼしてメソタミア文明を開いた祖はギルガメッシュなり」というペルシャ古神話を、「ギルちゃん、なんてことを!」なんて読みかえて遊んだかも、なんてね。ナンノコッチャ? 『セイシン挽歌『』のオハナシで下司。
  おっと、〈道〉を逸らして大道草、道遊樂もイイ加減にせんといかんどすな。〈無謀〉という語の読みについてでした。で、この場合は、〈字面の通り〉に「謀り言無しに」つまり「妄語でも両舌でもなく、自分ヲ勘定ニモ感情ニモ入レズニ」といった塩梅の心意を籠めて。
  さて、話は変わります。実は、M氏は、『白堊校百年史』に〈想い出エピソード〉を寄稿しています。で、そのテーマは、「賢治さんのことなど」ではなく、「春日重泰校長への排斥ストライキについて」なのです。Mha大正十五年四月の卒業者ですから、竣介・保武とは1年間重なっていますね。で、啄木退学処分の経緯を識る知りうる時点から、内田秋皎が啄木に依頼した寄稿要請が『林中書』として帰って来た文章を盛岡中学校講習会校友会雑誌部長として、リベラル校長な前波仲尾の哀婉許可を得て掲載させ、『時代閉塞の現状』と共にアブナイ道取とされる『林中書』が歴史に遺ったわけですね。そのエピソードは、小生の妄念の中では、「東海の小島の磯の白砂に……」を幸徳秋水事件と結びつけて共感を表明している釈超空折口信夫などとも通じることに。その橘川眞一郎が白堊校在勤のまま死去したのは昭和二年九月。新渡戸稲造が白堊校と藤根吉春が校長を務めていた盛岡農学校で講演したのが十月。この講演には鈴木卓苗が校長となtってを務めて開学したばかりの私立岩手中学校生徒も聴講に訪れています。尚、この際、稲造は、『論語』からの「君子不器」という四文字はを揮毫していますが、盛農には伝えられていますが盛り一には影もかたちもありません。因みに、ゴミの山の中からそれを発見したのは、旧盛農校舎に建学された〈四高こと志高〉の初代校長、「鈴木卓苗と鈴木實の志を継がん」とした目時隆太郎なのでした。その扁額は建学の精神の標として四高に遺したかったようですが、敢えて盛農に返却したということでした。小生の連れ合いは盛農にも在職したのですが、その扁額のイワレは全く調べられてはいなかったようです。おそらくは、現在も不明のまま。
  で、やっと、Mによる「在校生の想い出話」の件。大正十四年、運動会の閉会式で、或る生徒が春日校長に〈白鞘の短刀〉を贈った」というエピソードを苦々しく書いて来たのでしたが、Mは別なエピソードについての、自身の行動について。「春日校長は自由主義者だったからそれをよく思わぬ教員も少なくなかったらしい。その扇動があったらしく、同期の生徒の大半は授業をボイコットして高松の池端に集まった。加わらなかったのは私tの他、ほんの数人だった。私は、入院中の詩人下山清を見舞った。」、といった趣旨の。そのエピソードはMから賢治に対けて語られたのは確実でしょうが、『1927時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』が構想される前であったこともまた。同級生同期せ同窓で大正九ね年似而氏自死した金田一他人の兄平井直衛が勤務している昭和二年の白堊校で如何なる状況が推移しているのかについて、耳を欹てていたことは、……。
   というような言語動作に走りたくなる小生の問題意識や問題設定が如何なるかは容易に洞見る戴けるものと。
   蛇足ながら、「君子不器」のメッセージは、「君子なるは狭い専門領域に止まるべからず」。今日風に訳せば、「君子とはスペシャリスト(学術専門職)に非ず、ユニヴァーサリスト(学際的広域思索者)たるべし。「」、といった塩梅でせうか。成立学舎に於いて、十六歳の塩原金之助や太田達人そして藤根吉春たちに英学を教えていた二十一歳の新渡戸稲造が、「吾、太平洋の橋とならん。」という言に籠めた大志はまさに「君子不器たるべし」つまり、「吾、東西古今博く観て、温故知新而温新知故たるを作さん」といった塩梅だったのではないでしょうか。祖父新渡戸傳が注釈を施した『老子』を生涯、座右から離さなかったというエピソードと二十五歳の時に送籍し『老子の哲学』を書いた漱石との間の因縁が切り離しが結びつき、」それが『不貪慾戒』の賢治へと流れ始めたのは。縁は多少薄くなりますが、金之助と寅彦と四高ならぬ五高で出逢った田丸卓郎(理論物理学者・ローマ字研究者)が、小生の曽祖父の妻の甥で、曽祖父辛文弥は、卓郎のドイツ留学費用として全財産千円也を支援し極貧に堕ちたのだと。昭和七年、卓郎は四その死に際して、音楽書や哲学・芸術関係書、SPレコード、蓄音機などを甥姪(吾が父・叔父・叔母)にプレゼントしたことが、小生の西洋音楽嗜癖症と親子三代に亘る画道の因縁となっていることと妄想しています。また、寺田寅彦のヴァイオリン狂いや漱石の長男純一(房之介の父)がオーケストラ所属ヴァイオリン奏者になったこととなどとも。ピアノ演奏をよくし帝大オーケストラを指導し、フルート演奏をよくした恩師田中館愛橘のローマ字研究を完成させたけれど、仁科芳夫や湯川秀樹の先覚には「ならなかったなかったため、「ごく僅かの人にしか知られないリベラル」という、……。野村長一を〈あらヱビス〉にしたのが〈卓郎の風〉だったりすると、……。いろいろなことが〈一・同・全・凡〉に結びつき〈縁(えにし・よすが)〉となって、〈新〉しく而も〈親〉しく働き始めてみたり。尚、〈辯〉や〈辧〉や〈辞〉に〈辛〉という字が蔵されていることはすぐわかりますが、〈言〉や〈新〉や〈親〉にも〈辛〉が隠れていることを教えていただいたのは白川静翁なのでした。深謝なるべし。
   而して、「君子は大器にあらず、不器なるべし。」、と。守先生、如何? でもこれは、世俗的君子や世俗的聖人についての話ではありませんね。
   因みに、田中館愛橘と太田達人は昭和十五まで生き延びていて、白堊校開学期に、太田達人や佐藤北江、藤根吉春や横川省三などに英語を教えた富田小一郎を囲む会で、時の海相米内光政、陸相板垣征四郎などと共に一枚の写真に収まっていますね。原敬や小生の高祖父辛文七と同世代で、当時最上級のコスモポリタンだった田中館は南部士族ではあっても白堊校同窓ではありませんから来賓ですね。一見、単なる「恩師を囲む会」に見えるこの会を仕立てたのは啄木と共にユニオン会をけいせいしていた、当時の早稲田教授伊東圭一郎と朝日新聞記者小沢恒一。金田一京助や野村胡堂の顔は見えますが、鈴木卓苗と藤根吉春の顔は、…。
   「よくしられた話を話題にするのが好きな人」と、「人に知られていない話を堀り起こして語りたがる人」あるいは「定説や通説を疑い問い直してヒックリ返したがる人」との何方が、〈百姓衆生(ひゃくせいしゅじょう)〉に好かれ易いかは殊更に言詮不及ですね。固より、守先生もそんなことは百も千も承知之介ですね、ハハハのハ。
   ということで、改めて、「慈雲尊者の十善戒」やら『老子』や『荘子』を読み直してみると。で、改めて、「如何なるか、賢治がかの如きミョーチキリンなる言語動作に及んだるのは?」と問い直すと。「賢治道得を誰にでもワカルように易しく解き解すは正道ならん乎」、などと。尚、小生のオノマトぺ遊びでは、〈ミョーチキリン〉の漢字音写は〈妙智奇凛〉。固より、音写だけではなく意写も絡めたつもりです。
  「ゴチソウサマ」については、口が滑って赤面の到りでゴワス。
   
  
返信する

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事