《創られた賢治から愛すべき賢治に》
寶閑小学校時代の露は自炊しながら下宿していたさて、露が寶閑小学校勤務時代に下宿していたという「西野中のTさん」宅だがそれは現「鍋倉ふれあい交流センター」のすぐ近くにあった。そしてその隣家のおばあちゃんTKさんからは、
寶閑小学校は街から遠いので先生方は皆その「西野中のTさん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
(平成24年11月4日聞き取り、TKさんは大正14年生、当時87歳頃)という証言を得ることができた。私はあやうく抃舞するところだった。
なぜならば、この証言は「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述の信憑性がかなり危ういということを教えてくれるからである。ひいては、巷間いわれている<悪女伝説>は捏造された可能性がかなり高いということを直観できたからだ。
例えば、「昭和六年七月七日の日記」には
彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。彼女はそれほど眞劍だつた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)89pより>という記述があるが、露の家は下根子桜の近くの向小路なので、湯口村鍋倉にあった寶閑小学校に勤めるにあたっては当時の交通事情からして下宿せざるを得なかった。しかもその下宿は賄いがつかなかったから、寝具等の他に自炊するための炊事用具一式も必要だったということになる。
一方、当時賢治が下根子桜に露を出入りさせていたことは知られていたからそのことは噂になっていたであろう。そこへ持ってきて、一部の口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を知って、『もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた』と面白おかしく話を作り上げ、吹聴したということなのであろう。それをしかも著者のMはそのまま活字にし、しかも『彼女はそれほど眞劍だつた』ついついと書き加えてしまった、という可能性が限りなく大きい。なぜならば、Mはその典拠を何ら書き添えていないからである。
もちろん、このMの記述は検証されたものでも裏付けをとったものでもないことももはや明らかだろう。なぜならばその頃から80年以上も経った今でも調べればこのように下宿の仕方等がわかるのだから、Mが当時調べようとすれば露が当時下宿していたこと、及びその下宿の仕方は容易にわかったはずだから、それをしていればこの記述に無理があるということをすぐ覚ったはずだ。したがって、この記述はどうやら真実とは言い難く、ゴシップ程度のものに過ぎなかったと言はざるを得ない。
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