みちのくの山野草

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そのまま還元しているのでは?

2021-04-26 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 小田邦雄は『宮澤賢治覚覺え書き』(弘學社)の中で、こんなことも述べていた。
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ

 指導者としての彼は先づ自虐することによつて己を農民それ自身としてゆく道をとつた。宗教とか科學といふものも農民と共にあつたのである。それは單に抽象されたものではなく、それらも生活として鬪はれた。私たちの詩人は武者小路實篤氏の如く夢想家として生活を理想化し、それを探求するだけで終らないのである。武者小路氏の新しき村運動は、氏に共鳴する者が實践者として武者小路氏の思想そのものを裏付けてゆくのが、仕事の全部なのである。
             〈『宮澤賢治覚覺え書き』(小田邦雄著、弘學社)61p~〉
 ということは、小田は「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」を「自虐すること」とだと解釈していたようだ(私個人は、これはあくまでもそうありたいという賢治の希いにすぎないと思っているのだが)。それではそれに続く「宗教とか科學といふものも農民と共にあつたのである」という断定はどのような事実に基づいているのだろうか、私にはそこまで言い切れる根拠がよくわからない。それから、「實践者として武者小路氏の思想そのものを裏付けてゆくのが、仕事の全部なのである」とまた断定していて、賢治は「新しき村運動」を実践したと小田は認識していたようだ。しかし、私が検証してきた限りにおいては、羅須地人協会時代の賢治の実践はそれほどのものではなかったから、前掲の引用文の内容について小田は裏付けを取ったりしたのであろうか、という不安を私は抱いてしまう。

 あるいはこんなことも、小田は論じていた。
 童話「グスコー・ブドリの伝記」の主人公ブドリは凶ふためにペンネン技師と相談してカルボード島に行き単身島に残つたのであるが、宮澤賢治が信念を具体的に表現するものはブドリであるに外ならない。ブドリは宮澤賢治の化身なのである。

   雨はいよいよ降りつのり
   遂にはこゝも水でいつぱい
   晴れさうなけはひもなかつたので
   わたくしはたうたう氣狂ひのやうに
   あの雨のなかへ飛び出し
   測候所へも電話をかけ
   (続けて雨のたよりをきゝ)
   村から村をたづねてあるき
   聲さへ涸れて
   凄まじい稻光りのなかを
   夜更けて家に歸つてきた
   けれどもさうして遂に睡らなかった
     (「和風は河谷いっぱいに吹く」)
 雨風のために凶作を心配してびしよびしよ濡れになつて働く作者自身の姿がはつきりと書かれてゐる。
             〈同67p~〉
 そこでここに至って私は、小田はこの『宮澤賢治覚覺え書き』を裏付けを取った上で書いていたとは言い切れないということを確信した。それは、この「雨風のために凶作を心配してびしよびしよ濡れになつて働く作者自身の姿がはつきりと書かれてゐる」という断章がいみじくも教えていると私には思えたからである。どうやら、この論考は何に基づいているのかというと賢治の作品そのものに基づいている、つまり、賢治の詩をそのまま還元していたのではなかろうか?、ということを。しかし賢治の作品と雖も、そこに詠まれていることは事実であるという保証はもちろんない。だから、この「和風は河谷いっぱいに吹く」はあくまでも詩であり、詩であれば虚構があり得るということは当然のことだ。しかも、この詩には実際に虚構があるということは以前〝8月に詠んだ詩〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟で実証したところでもある。
 さりながら、私如き非専門家<*1>が実証したといっても、誰もその実証結果を信じないだろう。ところが、このことに関連しては天沢退二郎氏が、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
             〈『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414p〉
と言っているのです、と紹介すれば、皆さんはもう信じてくれるでしょう。

 どうやら、『宮澤賢治覚覺え書き』は賢治の詩をそのまま還元しているのでは?。つまり、事実に基づいて論じているものであるとは言い切れないようだ。

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<*1:投稿者註> 私は非専門家。
 本書出版の主な狙いは次の二つ。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
 2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。
 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。

 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813



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Unknown (宮澤の子孫)
2024-02-29 22:39:23
初めまして。
ここにある感じの愛弟子宮澤貫一とあり、目が止まりました。もしかしたら、私は祖父かもしれません。同姓同名かもしれませんが、亡き父が祖父の話をした時に、よく感じに釣れられて山へ行っていたそうだと聞いてました。この度、父が亡くなり、戸籍謄本等調べてるうちにはなまきの祖父を辿ることがあり、興味が湧いてネットで調べていたらこちらに辿り着きました。祖父は明治40年生まれです。
もし、祖父のことだとしたら、嬉しく思います。
ご訪問ありがとうございます (宮澤の子孫様)
2024-03-01 17:25:29
宮澤の子孫様
 この度はご訪問いただきありがとうございます。
 たとえば、以下のような追想が残っております。


 花巻農学校での賢治の教え子小原忠が「山と雪と柏林と」という追想を残しており、

 「岩手山につれてってやろう。」と宮澤賢治先生に云われたのは花巻農学校一年生のときである。それから暫くたった大正十三年の春、ある晴れた日の朝、これから飯豊森(この地方では「いでもり」と呼ぶ)に行こうと私の家に誘いに見えた。飯豊森は花巻南西約四キロ、平野部に佇立する一三一.六米の小さい山で、古い岩鐘である。
 途中先生はその当時売出されたばかりのゼリービーンズと干葡萄を箱ごと私にくれた。そして化学の先生らしく、ゼリーのなかにはゼラチンが入っていると云った。当時私は、ある先生から、骨は石灰と膠からできている。従ってこれらを摂取すれば骨が丈夫になり背も高くなると聞いて、薬店から買求めて摂っていた。それで先生に「ゼラチンを食えばほんとに大きくなるんですか。」と訊いたら、「誰がそんなことを教えたか。」と苦い顔をした。
 そんなことを話しているうちにやがて山に着いて、いよいよ登り始めると、意外に高く路も険しかった。中腹まで登ったら、先生はどんどん頂上目がけて駆出した。私は懸命にその後を追い掛けたが先生はなかなか早くて追いつけなかい。やっとのこと息を切らして頂上に辿りついた。先生は「小原君は案外丈夫なんだな。これなら岩手山に連れてゆける。」と云った。先生は私のことを身体も小さいし、極端に弱いと思っていたらしい。
 今迄山登りといえば遠足で花巻東郊の胡四王山(一七六.六米)に登ったぐらいのもので、この飯豊森は平野部にあるだけに意外に遠望がきいて周囲の山々は美しく見えた。

ということなどがそこでは述べられております。さらに、

 ところがその夏、ほんとうに岩手山に私を連れて行ってくれた。二年生、一年生をまぜて全部で六・七人位だった。花巻駅を午后出発して滝沢駅に着き、ここから裾野の道を歩き麓の岩手山神社に一休みした。それから夜みちをかけて一人の落伍者もなく頂上に着いた。頂上の神社にざこ寝をするのだがとても寒くてブルブル震えて眠るどころのさわぎではない。先生はかねて用意の新聞紙を配り身体に巻付けるように云った。やがてほかほかとあたたまり眠りにつくことができた。
 あけがたは御来迎を拝むということで早く起きてお鉢まわりを始めた。この日は風が強く眼下は白雲がいっぱい怒濤のように行き来して恐ろしく見えた。ときどき雲の切れ目から、早池峯山、鳥海山、岩木山がぽかりぽかりと顔を出し、先生はいちいちそれを指して教えた。先生はお鉢まわり中、音吐朗朗とお経を唱えた。その声は高く力のこもったもので、頂上の風も持って行けないくらい透った声であった。
 いよいよ下山になり、九合目あたりの傾斜面に大きな残雪が横たわっていた。先生はここでも、そこへ行って雪を一杯とって来て私にくれた。日頃残雪など珍しくもない私も、その雪ばかりは山頂の霊気がこもっているようでありがたく思われた。
 帰り、一行のリーダー格の宮沢貫一君が先頭を切って兎のようにピョンピョンと岩から岩へ飛び下りてゆく。みんな一斉にその後を追う。貫一君は前にも先生に連れられて来たとのことで岩手山の路には委しい。麓まで下りて道はそれから柏林に入る。この林には冷たい水がこんこんと湧いていた。先生に云われるとおり柏の葉を取ってきて水を掬って飲んだ。ここで暫く休息ということになった。私は横になったらいつの間にかとろとろと睡ってしまった。目を覚ましたらみんな出発したあとで、あたりはガランとして静まり返っている。何時かも判らない。日は西にまわっているように思われた。びっくりして道を東に走りに走った。すそ野の道はあきれるほどに遠い。ようやく滝沢駅に着いて一行と落合い、汽車に乗り私はすぐに睡ってしまったが誰か起こす者がある。貫一君が私の席を探して汽車辨当くれた。先生が盛岡駅で求めたもので私には初めてお目にかかる珍しいものだった。辨当はたしか五十銭、当時としては高価なものだった。家に帰ってから二日二晩眠りこけたから、二千米の初めての登山はそれだけ私の身体に応えた。
  ラクムス青の風だといふ 
  シャツの手帳も染まるといふ
 青い風のリズムをつたえる「林学生」はこの時のものかも知れない。往復の汽車賃のことは全然記憶がない。おそらく全員分を先生が自辨されたものと思われる。(以下略)
  <『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』の月報より>

というように、「リーダー格の宮沢貫一君」 が登場しており、とても素敵な方だと思います。
                 鈴木 守
承前です (宮澤の子孫様)
2024-03-01 17:41:01
 また、『宮澤賢治覚覺え書き』(小田邦雄著、弘學社、昭和18年11月30日)の中に、

 まず通読してみると、東北砕石工場技師時代の賢治や石灰に関しての記述として次のようなものが見つかった。それは、賢治の愛弟子であったという宮澤貫一提供による「賢治に關する覺え書」の中の、以下のようなものであった。
 石灰岩調査に行く――
 これは大正十四、五年頃だつたと思ふのですが、先生が常に云はれて居られた、石灰肥料を自營で、安價に販布しようの計畫を實現すべく、夏期休暇中一ノ關より大船渡の方へ向かつて旅行された。〈『宮澤賢治覚覺え書き』(小田邦雄著、弘學社)179p~〉

とか、

 盛岡駅――
 夏季農場実習を午前で終つた或る日、先生も自分も実習服のまゝ盛岡に行く。石灰砕石用の機械見積を大澤河原小路の福田鉄工所に依頼……②し、それから市の東(ママ)方にある岩手山に登る。…投稿者略…


一 宮澤賢治は大正六年高等農林学校在学中に、岩手県江刺郡の地質を調査し、翌年は稗貫郡の土性を調査されてゐるが、その当時、東北の地が永い酸化に晒されてゐることを知り、土地改良を念願され、炭酸石灰を安価に、しかも豊潤に販布するための努力が、ここにはっきりと書かれている。一個の宮澤賢治が酸えたる土に慈雨をそゝいだことは全く涙ぐましい。東北砕石工場に技師として招かれたこともこの間の消息を物語るものである。製法販売の斡旋まで奔走されたことは、宮澤賢治の生涯を最も美しくしてゐるところである。この方面の仕事には宮澤賢治の科学と技術の力が動員され、行政官庁などがやらなければならぬことを、己自身の課題として取上げ、人間の美しい理解の眼が温暖にしみ透つてゐるのである。
二 この宮澤貫一氏提供の資料は実に尊いものと思ふ。酸性土壌中和を念願する宮澤賢治の精進の一面がはつきりわかるものである。最近、健民は健土からと叫ばれ――酸性の土で生活する人間でも牛馬でも、結核にかゝり易い傾向が指摘されてゐるが、これを是正し、農村を厚生させるためには、日本の最高の技術文化が動員されなければならない。〈同183p~〉

というように、宮澤貫一氏に関する言及がございます。
                    鈴木 守

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