《1 》(平成31年8月29日撮影)
《2 》(平成31年8月29日撮影)
《3 》(平成31年8月29日撮影)
《4 》(平成31年8月29日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6 . . . 本文を読む
《1 》(平成31年8月29日撮影)
《2 》(平成31年8月29日撮影)
《3 》(平成31年8月29日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版 . . . 本文を読む
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
一方で、一読して変な文章がある〝(1)『宮沢賢治物語』〟とは、同書出版以前に『岩手日報』紙上に連載された関登久也の「宮澤賢治物語」を単行本化したものであり、件の武治の証言は新聞連載の場合には次のようになっていたことも知った。
(4) 「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)
どう考えても昭和二 . . . 本文を読む
《1 》(平成31年8月29日撮影)
《2 》(平成31年8月29日撮影)
《3 》(平成31年8月29日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版 . . . 本文を読む
新庄駅の東口に茂吉の歌碑があった。
《1 》(平成31年8月27日撮影)
新庄にかへり来りてむらさきの木通の実をし持てばかなしも
茂吉の歌碑って初めて見た気がするのだが、全国に何基ぐらいあるのだろうか。
あれっ、茂吉は山形の上山の出身だったはずだが、なぜ「新庄にかへり来りて」なのだろうか。
それから、ネットで調べたならば、同駅には茂吉の、
新庄に汽車とまるまもなつかしき此 . . . 本文を読む
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
そこで次に、この「あとがき」で挙げている関の「三冊」を、出版年を遡って澤里武治の証言に注目しながら少し調べてみた。
(1)『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)
まず、『宮沢賢治物語』には次のようなことが書かれているが、
沢里武治氏からきいた話
どう考えても昭和二年十一月ころの . . . 本文を読む
最後に行ったのがここ。
《1 雪の里情報館》(平成31年8月27日撮影)
《2 な~んだ松田甚次郎のやっていたことと同じじゃないか!》(平成31年8月27日撮影)
《3 松野俊三の胸像》(平成31年8月27日撮影)
《4 多くは松野俊三関連の展示ばかり》(平成31年8月27日撮影)
《5 》(平成31年8月27日撮影)
《6 》(平成31年8月27日撮影)
《7 》(平成31年8月2 . . . 本文を読む
二番目は『原蚕の杜(エコロジーガーデン)』であった。かつての『蚕糸試験場新庄庁舎』を活用した施設だという。
《1 『蚕糸試験場新庄庁舎』》(平成31年8月27日撮影)
《2 ここには有形文化財があり》(平成31年8月27日撮影)
《3 10件もあるという》(平成31年8月27日撮影)
《4 》(平成31年8月27日撮影)
《5 》(平成31年8月27日撮影)
《6 》(平成31年8月2 . . . 本文を読む
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
さらに、『賢治随聞』には次のような問題点があることも知った。それは、昭和45年出版の同書の著者名が「関登久也」となってはいるものの、実は関自身が出版したものではなかったという問題点がである。関は疾うの昔の昭和32年に亡くなっていたからだ。
ではなぜこのような不自然なことが為されたのか。そのことについては、森荘 . . . 本文を読む
二日目も、小山氏と八鍬氏のご案内で新庄の名所等を巡った。
まず最初が、国指定史跡である「新庄藩主戸沢家の墓所」であった。
《1 》(平成31年8月27日撮影)
《2 》(平成31年8月27日撮影)
《3 》(平成31年8月27日撮影)
《4 かやぶき屋根の鞘堂》(平成31年8月27日撮影)
《5 その中に初代の墓石があった》(平成31年8月27日撮影)
《6 他にもあり》(平成31年 . . . 本文を読む
もちろん、「新庄まつり」も見て廻った。
《1 》(平成31年8月26日撮影)
《2 直前小雨が降ったので山車はビニールで覆ってあったが》(平成31年8月26日撮影)
《3 その後外されて豪華絢爛な姿が現れる》(平成31年8月26日撮影)
《4 》(平成31年8月26日撮影)
《5 》(平成31年8月26日撮影)
《6 》(平成31年8月26日撮影)
《7 》(平成31年8月26日撮影 . . . 本文を読む
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
先に私は、
ここまでのことを少し振り返ってみれば、次のような6つの、いわば「賢治神話」を私は結果的に検証してきたと言えるようだ。
㈠ 「羅須地人協会時代」は「独居自炊」とは言い切れない
㈡ 大正15年12月の上京の際に賢治はチェロを携えていたとは言えないが、翌昭和2年11月頃の上京の際にはチェロを持って上 . . . 本文を読む
最後に、これは近江氏や同行して頂いた新庄市の職員(小山氏)や八鍬幸紀氏(「新庄の種プロジェクト」代表)のご尽力によってだと私は推測しているのだが、「最上の会」の松田周治氏が、
本家に連れて行くから。
と仰って、私たち一行を
《1 松田甚次郎の生家》(平成31年8月26日撮影)
にご案内して下さり(写真の人物が松田周治氏)、
《2 居間に入れてもらい》(平成31年8月26日撮影)
当主 . . . 本文を読む
次に巡ったのが松田甚次郎の墓(〝1246 松田甚次郎の墓など〟もご覧あれ)である。
《1 》(平成31年8月26日撮影)
《2 中央が松田甚次郎の父と母の墓》(平成31年8月26日撮影)
《3 「共働」の文字が見えるのが松田甚次郎と妻睦子の墓》(平成31年8月26日撮影)
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私た . . . 本文を読む
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
ところが数年程前にある式辞を知ってからは、このままではいけないと私は考え方を少しずつ改め始めた。その式辞とは先に〝「健全な批判精神」が失われて起こった悲劇〟でも引例したものだが、平成27年3月の東京大学教養学部学位記伝達式における学部長石井洋二郎氏の式辞のことであり、その中で同氏は、あの有名な「大河内総長は『肥 . . . 本文を読む