《創られた賢治から愛すべき賢治に》 今回で〝不可解なこと〟シリーズの最終回としたい。
高瀬露に関する時系列
では、高瀬露と賢治に関する出来事などを時系列に沿って以下に並べてみよう。
◇昭和10年頃 「宮澤賢治先生を語る會」開催、高橋慶吾筆記記録
◇昭和14年 『イーハトーヴォ創刊号』に高橋慶吾「賢治先生」寄稿
◇昭和22年 『宮澤賢治素描』(関登久也著)
「宮澤賢治先生を語る會」掲載 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》偽作
さて、佐藤勝治は「賢治詩『生徒諸君に寄せる』と『サキノハカという黒い花』」という論考において、かつての『生徒諸君に寄せる』については
偽作と断言しても云い過ぎでない程変更されていた。殊に最も重要な左の詩句が削除されたために、まるで敗戦直後の時代便乗の福音の詩と化していたのだ。
その重要な詩句こそ、
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやが . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『解説 復元版 宮澤賢治手帳』の場合
ではこのことに関連しては、『解説 復元版 宮澤賢治手帳』の場合どうなっているのだろうか。
そこでは小倉は次のような流れの構成にしている。
(1) この詩の「〔聖女のさまして近づけるもの〕」は明らかに実在の女性であった。それは…(略)…羅須地人協会の近くの向小路に家のあった女教師であり、賢治の農学校教師時代からの顔見知りで、 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「サキノハカ」
さて、その「作品番号一〇五六」の詩といえばそれは例の次のようなものであった。
一〇五六
〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『「雨ニモマケズ手帳」新考』の場合
ところで、『「雨ニモマケズ手帳」新考』の場合の〝12 「聖女のさまして近づけるもの」〟については、小倉は次のような流れの構成にしている。
(1) この詩を読むと、すぐに私はある一人の女性のことが想い出される。
一九二六(大正十五)年の四月、自耕自炊の独居生活をはじめた賢治は…(略)…農業技術の講話をしたりはじめた。その頃、賢 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「労農党時代」より
『四次元』第三巻第九号(昭和26年11月)に浅野晃なる人物が「労農党時代」という論考を寄稿していて、そこには次のようなことなどが述べられていた。
賢治の詩をだんだんと誦みすすんでいつて、この作品に至つたとき、私は一種特別の衝動を受けた。
きみたちがみんな労農党になつてから
それからほんとうのおれの仕事がはじまるのだ。
ここの労農党と . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「マツ赤ナリンゴ」
それは、高瀬露が高橋慶吾に宛てたというある「端書」に関わってである。
小倉は『「雨ニモマケズ手帳」新考』において、次のような内容の「一九二七年六月九日」付の高橋慶吾宛「端書」が高瀬露から送られていたということを紹介していて、そこには
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデ . . . 本文を読む
身延山久遠寺に立ち寄った後は韮崎を訪ねた。保阪嘉内のことを少し知りたいと思ったからだ。
◇一日目
まずは韮崎駅の直ぐ隣『韮崎市民交流センター ニコリ』を訪れ、ガイドブック『賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩』を入手。観光案内所の職員の方にお訊きして、『東京エレクトロン韮崎文化ホール』にあるという詩碑
《1 「花園農村の碑」》(平成25年7月8日撮影)
《2 〃 》(平成25年7月8日撮影)
《 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》「宮澤賢治先生を語る會」より
それは、「宮澤賢治先生を語る會」からである。
昭和18年9月に発行された『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)所収の「座談会」の中に、高瀬露に関連して次のようなことが記されている。
宮澤賢治先生を語る會
日 時 昭和十年頃
出席者 町の青年K(高橋慶吾のこと) 村の青年C(伊藤忠一のこと) 同じくM(伊 . . . 本文を読む
暫くぶりに胡四王山の花を見に行った。スズサイコが今年も生き残って咲いているだろうか心配だったからである。
《1 スズサイコ》(平成25年7月26日撮影)
辛うじて一株だけ見つかった。これからも生き延びていって欲しいものだ。
カキランも咲いている頃だと思って見に行ったならば花はもう既に終わっていた。ただしその株は辛うじて2株ほど見つけることが出来た。
嬉しかったのが
《2 クサレダマ》(平 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》 『昭和3年賢治自宅謹慎』
3497 『病床の賢治』における証言
3495 佐藤隆房著『宮澤賢治』によれば
3493 三十日間の出張看護
3481 S3/8/8付書簡〔242〕本物拝見
3480 J.M.ギュイヨウと「黒い花」
3477 望月桂のスタンス
3475 『大正自由人物語』の概要
3473 望月桂と和田久太郎
3427 アナーキスト賢治(続き)
34 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》『イーハトーヴォ 創刊号』より
ところでそもそも、賢治周縁の人達の中で誰がいち早く賢治と露の関係を公にしたかというとそれは他ならぬ高橋慶吾である。
具体的には、『イーハトーヴォ 創刊号』(昭和14年11月)においてであり、その中に高橋は「賢治先生」というタイトルの回想を寄せていて、高瀬露に関して次のようなことを証言している。
某一女性が先生にすつかり惚れ込ん . . . 本文を読む
7月24日に訪れた万寿山の果実と蕾などの報告である。
まずは果実。
《1 ウスノキ?》(平成25年7月24日撮影)
《2 ナツハゼ》(平成25年7月24日撮影)
《3 ハナヒリノキ》(平成25年7月24日撮影)
《4 オオバクロモジ》(平成25年7月24日撮影)
《5 エゾユズリハ》(平成25年7月24日撮影)
《6 ツクバネ》(平成25年7月24日撮影)
《7 〃 》(平成25 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき賢治に》考察
さて、色分けした状態を概観してみても小倉が「行文が不備だった為に高橋氏から非難を受け」たという個所が直ぐには見えてこない。普通に考えれば、〝茶色い部分〟が小倉自身が「粗雑な推定を敢えてした」と言い切った部分となるはずだから、その〝茶色い部分〟の中にそれはあると思われるが、一体このどの部分を高橋は強く非難したのだろうか。
一方で、小倉自身が「粗雑な推定を敢 . . . 本文を読む
今、万寿山に咲いている花々の報告である。
《1 オオウバユリ》(平成25年7月24日撮影)
《2 キツリフネソウ》(平成25年7月24日撮影)
《3 ダイコンソウ》(平成25年7月24日撮影)
《4 キツネノボタン》(平成25年7月24日撮影)
《5 オオハンゴンソウ》(平成25年7月24日撮影)
さて問題は次のセリ科の不詳の花
《6 丈は約1m》(平成25年7月24日撮影)
《7 . . . 本文を読む