【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
では今回も引き続き、『あるサラリーマンの生と死』の中の項「悲惨な農村の実態」についてである。
佐藤氏は同項の中で、
岩手の農業は、冷害との闘いだった。賢治が生きた時代、豊作は殆どなく、凶作となる方がむしろ多かった。冷害に加え、台風による暴風雨や洪水が農村を襲うこともしばしばだった。
〈『あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書126p〉とも述べていた。基本的にはたしかにそうかも知れないが、賢治が生きた時代は「気温的稲作安定期」が続き、岩手県では冷害が殆どなかった。
というのは、農学博士ト蔵建治の『ヤマセと冷害』(成山堂書店)には、
《図2・2『宮沢賢治の生涯とイーハトーブの冷害』》
及び
《図2・3『物語の背景と考えられる冷害および干ばつ年の気温の推移』》
〈『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)>14p、16p〉
が載っているからである。そして、これらの図表に関連してト蔵氏は次のように論じているからである。
ところがその後、この物語<*1>が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」=晴天続きで雨が少なく田圃に水がなくなり枯れてゆく水稲を見て、無念さから思わず涙する農民の姿=旱魃が多く発生している(図2・3)。この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
〈『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p〉たしかにこれらの図表からは、賢治が生きていた時代の冷害の年としては明治35年(賢治6歳)、同39年(10歳)、大正2年(17歳)、そして昭和6年(35歳)の計4回があるにはあったのだが、賢治18歳~没年までの間の冷害はただ一度、昭和6年のものしかなかったことが解る。つまり、大正2年の大冷害以降はしばらく「気温的稲作安定期」が続き、昭和6年の冷害までの期間に冷害らしいものはなく、いわば「冷害空白時代」であったと言える。しかも、前回も述べたように昭和6年の稗貫郡は冷害ではなかったのである。
ただしその一方で、干害は何度も起こっている。とりわけ、大正15年の稗貫郡もそうだったが特に隣の紫波郡は大干魃であった(ところが不思議なことに、この大干魃に関して賢治研究家は誰一人として言及していないようだ)。
念を押すために、『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)を見てみれば、以下の通り。
《大正2年~昭和9年の間の冷害と干害発生年》
大正 2(1913)年冷害(66)
大正 5(1916)年干害
大正13(1924)年干害
大正15(1926)年干害
昭和 3(1928)年干害
昭和 4(1929)年干害
昭和 6(1931)年冷害
昭和 7(1932)年干害
昭和 8(1933)年干害
昭和 9(1934)年冷害(44)
<注:( )内は作況指数で、80未満の場合の数値>
また、当時の岩手県の水稲反収の推移は次の通り。大正 5(1916)年干害
大正13(1924)年干害
大正15(1926)年干害
昭和 3(1928)年干害
昭和 4(1929)年干害
昭和 6(1931)年冷害
昭和 7(1932)年干害
昭和 8(1933)年干害
昭和 9(1934)年冷害(44)
<注:( )内は作況指数で、80未満の場合の数値>
<素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
それにしても、大正2年と昭和9年の冷害による被害が如何に甚大だったかがよく解る。
よって、
・賢治が盛岡中学入学するまでにあった冷害の年は明治35年(賢治6歳)と同39年(10歳)のみ。
・大冷害の大正2年といえば賢治は盛岡中学の五年生。大正3年3月に盛岡中学卒業。
・賢治が直接農業に関わっていたと言える「花巻農学校教師時代」~「羅須地人協会時代」の間に起こったものとしては、もちろん冷害はなくて、干害だけである。
・昭和6年の岩手県はたしかに冷害だったが、実はこの時の稗貫郡は平年作以上の作柄だった。
ということに注意すれば、農家の子どもでもなかった6歳や10歳の賢治が冷害を経験したという意識はもちろんそれほどはなかったであろうから、・大冷害の大正2年といえば賢治は盛岡中学の五年生。大正3年3月に盛岡中学卒業。
・賢治が直接農業に関わっていたと言える「花巻農学校教師時代」~「羅須地人協会時代」の間に起こったものとしては、もちろん冷害はなくて、干害だけである。
・昭和6年の岩手県はたしかに冷害だったが、実はこの時の稗貫郡は平年作以上の作柄だった。
大正2年の大冷害後~賢治没年までの間に稗貫郡が冷害だったことは一度もなかったことが判ったから、賢治は冷害の経験が実質的にはなかった。
と言える。<*1:投稿者註>「グスコーブドリの伝記」のこと。
続きへ。
前へ 。
〝賢治の「稲作と石灰」〟の目次へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
***************************『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)の販売案内*************************
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます