みちのくの山野草

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「一本足」論争(経過報告3)

2024-07-09 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

*****************<(9)↓投稿者H氏/2013年10月 7日 01:09>**********************
鈴木さん、お返事をありがとうございます。
長文の私の書き込みをその都度お読みいただき、またそれに対してまた詳しく真摯なお言葉を返していただけることを、ありがたく思っています。

さて、私と鈴木さんが、「お互い何を得ようとしてこの議論をしている」のか・・・。
それは私の理解では、私も鈴木さんもどちらも宮沢賢治という人やその作品を愛しており、そして彼を少しでも深く理解したいと思い、彼の伝記的事項の詳細(ここでは、彼が上京した回数や時期)について、少しでも多く確かなことを知りたいと、双方とも望んでいるからだと思います。

私と鈴木さんが、お互いにこの目的をしっかりと共有しながら、それぞれの意見を真面目に交換しているかぎり、それは「ためにする議論」に陥ることはないと、私としては思っております。
現にこれまでの議論も、私自身にとっては、鈴木さんのお考えをあらためて確認することができて、とても有意義なものと感じています。

ということで、以上が「この議論」について私が考えるところですが、以下これまでの話の続きに戻ります。

まずは、ここでいったん、私たちのおかれている状況を整理し直してみましょう。

私も鈴木さんも、沢里武治の証言を重要な論拠としていることには、変わりはありません。
ここで一度、沢里の証言内容がすべて真実であると見なして、賢治に関する他の確実な伝記的事項と突き合わせてみて、互いに全く矛盾が起こらなければ、やはりその証言をすべて真実と考えながら、話を次に進めることも、可能になります。

ところが残念ながら、今回の沢里武治の証言に関しては、すべて真実であると想定すると矛盾が起こってしまうために、少なくともどこか一部に関しては、留保を付けざるをえない状況にあります。
これは、沢里が信頼できる人物であるとかいうこととは別の問題であり、私も鈴木さんも認めざるをえない、厳しい現実です。

具体的には、鈴木さんは、沢里の証言のうちで「昭和2年を取り消して大正15年と修正した」という部分を不採用として、「2年続けて上京した」と考えられました。それは、上京したのが昭和2年11月でないと、沢里の言葉の「3ヵ月」という期間が確保できないからです。
私は、「3ヵ月は滞京する」という部分に留保を付けて、賢治が上京前にそう言ったのは事実かもしれないが実際にはもっと短かったと考え、「上京は大正15年だけで昭和2年にはしなかった」と考えました。

鈴木さんのおっしゃるように、「客観的な資料や証言」だけで自ずと事実が浮き彫りになってくれる状況ならば、誰しもそうしたいし、それが指し示す内容に反対する人もいないでしょうが、現実がそれを許してくれていないのです。
そのために、私の主張も鈴木さんの主張も、上記のように「沢里の証言のすべてが真実である」という論理にはなっていません。
鈴木さんのお説においても、上記のように「沢里の証言訂正を取り上げない」という鈴木さんご自身による主観的な判断が入っているわけで、「客観的な資料」だけに基づいているわけではありません。それは何も私だけではないのです。

さて、それでは「客観的な資料や証言」だけを根拠に論理が構築できないとなると、あとは、不完全な部分を推測や仮定などで補って、いかにして他の伝記的事項との矛盾がなく、全体として無理なく説得力がある仮説を考えるか、ということが課題となってきます。
しかし、この場合にはもちろんながら、客観的な証拠だけでなく私どもの主観的な推測や判断が入ってくるわけですから、それは自然科学的真理のように「確実」と言えるものではなく、せいぜい「その可能性は高そうだが、絶対的とは言えない」というような、蓋然的な議論になります。
これは物足りない感じが伴うことではありますが、今回問題になっている上京時期のことにかぎらず、賢治の年譜に記述されている事柄のほとんどは、ごく一部を除いて「100%確実」と言えるものは少ないわけで、大半は「それなりに確実性が高いと考えられる推論」の上に築き上げられています。
まあこれは、賢治年譜だけにかぎらず、歴史で習う年表の多くの部分についても言えることでしょうが・・・。

というわけで、結局は、鈴木さんのおっしゃるように「沢里が昭和2年を取り消したのは実は二重の誤りであり、賢治は2年続けて上京した」のか、現在の通説のように「賢治は3ヵ月という自分の言葉に反して1ヵ月弱しか滞京せず、その上京は大正15年だけだった」のか、どちらの説が説得力があるか、という話になってきます。
お互いにそれを明らかにしようとして、これまでここで議論をしてきたわけですね。

ここで、議論の過程で、どちらか一方が他方の意見の方が確かにもっともだと思って相手の意見に同意すれば、そこで2人の議論は一段落しますが、場合によってはお互いが譲らず、平行線のままで議論が続くということもありえます。
これは、鈴木さんのご専門である数学の証明にように、論理的に結論が出る事柄ではありませんので、「平行線になる」という事態そのものを避けることはできませんし、もちろん無理に終わらせればよいというのでもないでしょう。
平行線のように議論が続いていると、人によってはそれを「ためにする議論」をしているように感じてしまうこともあるかもしれませんが、きちんとかみ合った議論であれば、そんなことはないはずです。いろんな人がいろんな意見を出し合って議論をすることで、問題はさらに詳しく明らかになり、それを見たさらに多くの人々が、問題について考え始めます。

歴史学などというものにおいても、おそらくこういう「平行線」の部分は各所にあって、いろんな「異説」がたくさん存在しますが、彼らも別に「ためにする議論」をしているわけではなくて、どうしても客観的な証拠では明らかにできない部分を、仮定や推論などによって必死に補い、より妥当性のある仮説を立てようとしているわけです。
確定的な証拠の出ていない事柄についても、研究者同士で議論を戦わせるうちに、十分に説得力のある説が出てきて、大半の学者がそれに賛同すれば、それは一種の「定説」として学問的にも一定の位置を占めるようになるでしょう。大きく意見が割れている場合には、未確定のままで扱われるでしょう。

ですから今回の場合も(私と鈴木さんの間では、「平行線」から脱却するのは難しそうですが)、ここをご覧になっている他の方々から見て、どちらが述べていることに説得力があるかということも、とても大事なのだと思います。
ですから鈴木さんにおかれましては、せっかくお忙しい中で時間を割いて、わざわざ私のサイトにコメントをいただいているのですから、ここにおいても引き続き説得力のある主張を展開していただければ、まだご著書を読んでおられない方々にとっても有益なものになるだろうと、僭越ながら考える次第です。

ということで、その鈴木さんのお説を、私自身としてもさらにしっかり理解させていただきたいために、ここで一つ私の方から質問をさせていただいてもよろしいでしょうか。
ここにわざわざお書き込みいただいているだけでも、私としては深く感謝すべきところ、こちらからお願いするのははなはだ恐縮ですが、私もすでに何度か鈴木さんのご質問にお答えしましたので、もしよろしければ、次のことについてお教えいただければ幸いです。

沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった」としたわけですが、それにもかかわらず鈴木さんは、あたかもその訂正などなかったかのように扱って、「大正15年と昭和2年の両方とも上京を見送った」と主張しておられます。沢里が証言を訂正したという事実は、非常に重要なことだと思いますが、それをまるで無視するかのように扱っておられる理由は、いったい何なのでしょうか? またそのような扱いをする妥当性について、いかがお考えでしょうか?
ここは、この問題を考える場合にはどうしても避けて通れない重要な箇所だと考えますので、厚かましいこととは思いながらも、ここにご教示を乞う次第です。

今回も長文となってしまいましたが、お時間をとりまして申しわけありません。

*****************<(10)↓投稿者鈴木守/2013年10月 7日 14:07>*********************
MSS 様
 仰るとおり、
『沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった」』
と述べており、これは横田庄一郎の『チェロと宮沢賢治』に載っています。ところがこれは平成10年発行のものです。
 一方、「旧校本年譜」の大正15年12月2日に関する記述は、

 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもうひとりでいいのだ」と言ったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。

となっていて、これらのこと以外は記載されておりません。
 したがって、この澤里の訂正を基にしてこの「旧校本年譜」の記載内容から、「三ヶ月」のことを除外していいという論理は成り立ちません。なぜならば、「旧校本年譜」が発行されたのは昭和52年だからです。
 それとも、この「訂正」が昭和52年以前に既に公になっていたのでしょうか。もしご存知であればその出典が何かを教えてください。

 なおお願いですが、今後あまり長いコメントはやめませんか。争点がぼけてしまいますので。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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