《創られた賢治から愛すべき賢治に》
中舘武左衛門宛書簡下書〔422a〕鈴木 その昭和7年6月22日付中舘宛書簡下書〔422a〕とはこのような中身で、
というものだ。
吉田 最初は『御親切なる御手紙を賜り』と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと吃驚『呵々。妄言多謝』ということで、さぞかし賢治は中舘をこっぴどく嘲ってみたかったのだろう。おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いない。
荒木 それはちょっと吉田の言い過ぎじゃないべが。もしかすると下書だからそこまで書いたのであって、実際に出した書簡ではそこまでは書いていなかったかもしれないし…。
鈴木 とはいえ、既に昭和3年の夏の時点で盛岡中学5年先輩の中舘に対して賢治は書簡〔241a〕そのもの、書簡下書ではなくて書簡において「ご昇天は何時でもおできでせうから」と皮肉っていたくらいだからな…。
ちなみに、『宮沢賢治の手紙』の著者米田利昭氏のこの「書簡下書」についての見方は、
まじめに対応し、真実を吐露した手紙である。
とか、
こんな相手にではあってもわるびれずに真実を告げている。
というもので…
荒木 「まじめに云々、真実云々…」か。いや、それはそれでまたちょっと良心的過ぎる見方じゃないべが。
吉田 他人の見方などより鈴木、お前はどうなんだ。
鈴木 ……さすがに賢治もそこまでは激昂してはいなかったと思うが。とはいえ、盛岡中学の大先輩に対して『この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝』と言うのもな…。たしかにこの時の賢治はただならぬ状態にあったと思う。
賢治を振り子に例えれば、〔聖女のさましてちかづけるもの〕で極端に振れ、そして〔雨ニモマケズ〕でその対極に振れ、またこの書簡下書〔422a〕ではまた元の対極に戻ったような振れ方をしている。賢治って感情の起伏がかなり激しかったのかな。
吉田 そのことに関して菊池忠二氏は次の述べている。
というわけで、賢治を尊敬している荒木にはいずれも言いにくい証言ばかりだったのだが。
荒木 いやいや、俺もこの頃は認識が大分変わってきた。賢治だって人の子、たまには自分を見失って激昂したりすることだって、はたまた気持ちの変化のはげしいことだってあったであろうと思えるようになってきた。それこそまさに、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だべ。
ところで、その「賢治の世相を見る目」の「世相」とはどんな世相だと米田さんは見てるんだ?
鈴木 それについては、米田氏は
とも言っている。
422a
六月二十二日 中舘武左衛門あて 下書
六月廿二日
中舘武左衛門様 宮沢賢治拝
風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亙りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。 敬具
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)525p~より>六月二十二日 中舘武左衛門あて 下書
六月廿二日
中舘武左衛門様 宮沢賢治拝
風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亙りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。 敬具
というものだ。
吉田 最初は『御親切なる御手紙を賜り』と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと吃驚『呵々。妄言多謝』ということで、さぞかし賢治は中舘をこっぴどく嘲ってみたかったのだろう。おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いない。
荒木 それはちょっと吉田の言い過ぎじゃないべが。もしかすると下書だからそこまで書いたのであって、実際に出した書簡ではそこまでは書いていなかったかもしれないし…。
鈴木 とはいえ、既に昭和3年の夏の時点で盛岡中学5年先輩の中舘に対して賢治は書簡〔241a〕そのもの、書簡下書ではなくて書簡において「ご昇天は何時でもおできでせうから」と皮肉っていたくらいだからな…。
ちなみに、『宮沢賢治の手紙』の著者米田利昭氏のこの「書簡下書」についての見方は、
まじめに対応し、真実を吐露した手紙である。
とか、
こんな相手にではあってもわるびれずに真実を告げている。
というもので…
荒木 「まじめに云々、真実云々…」か。いや、それはそれでまたちょっと良心的過ぎる見方じゃないべが。
吉田 他人の見方などより鈴木、お前はどうなんだ。
鈴木 ……さすがに賢治もそこまでは激昂してはいなかったと思うが。とはいえ、盛岡中学の大先輩に対して『この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝』と言うのもな…。たしかにこの時の賢治はただならぬ状態にあったと思う。
賢治を振り子に例えれば、〔聖女のさましてちかづけるもの〕で極端に振れ、そして〔雨ニモマケズ〕でその対極に振れ、またこの書簡下書〔422a〕ではまた元の対極に戻ったような振れ方をしている。賢治って感情の起伏がかなり激しかったのかな。
吉田 そのことに関して菊池忠二氏は次の述べている。
これらの回想の中で、私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしていあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36pより>「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしていあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
というわけで、賢治を尊敬している荒木にはいずれも言いにくい証言ばかりだったのだが。
荒木 いやいや、俺もこの頃は認識が大分変わってきた。賢治だって人の子、たまには自分を見失って激昂したりすることだって、はたまた気持ちの変化のはげしいことだってあったであろうと思えるようになってきた。それこそまさに、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だべ。
ところで、その「賢治の世相を見る目」の「世相」とはどんな世相だと米田さんは見てるんだ?
鈴木 それについては、米田氏は
戦争が始まると、戦死者が何を考えているか知りたいという民衆の願望から、戦死者の霊を呼び寄せるいたこの類が各地にどっと現われ、流行した
という世相と見てる。併せて、 (賢治は、中舘武左衛門のものも)そのような口よせ、狐つきの類にまぎれては不本意だろうと賢治は風刺した。
<以上いずれも『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)271p~より>とも言っている。
中舘武左衛門と賢治の人間関係
荒木 なるほどな。俺は戦争体験はないからあまりよくわからないが、「いたこ」という女性がいたという話や「口よせ」という言葉だけは聞いたことがある。「いたこ」や「口よせ」にはそんな役割もあったんだ。
それはさておき、この「書簡下書」中の『次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て』という文言からは、昭和3年の夏8月に実家にて病臥する前の年、すなわち昭和2年に『御目にかゝりし』ということになるから、この時二人は相見えているということとなり、これが例の昭和2年1月7日の年賀の挨拶のことを言っていることになるのか。
とすれば、さっき鈴木も言っていたように、昭和2年の正月松の内に下根子桜の賢治の許に訪ねて来るような中舘だったのだから、昭和2年当時二人の関係はやはり良好だったのだということか。
吉田 ところが、先に書簡〔241a〕の日付は昭和3年7月30日である蓋然性が極めて高いと判断できたから、この皮肉たっぷりの手紙を賢治は同年7月末に実際中舘に出していることにほぼなり、もはや昭和3年の夏には既に二人の関係はかなり悪化していたということになりそうだ。
荒木 もしそうだとすれば、それこそ、『気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ』た昭和3年8月10日の約10日前の賢治は、『ご昇天は何時でもおできでせうから』と盛岡中学の5年先輩を当て擦っていたことになる。ちょっと信じられない。となればこれは昭和3年のものではなくて昭和8年のものだったのかな。
鈴木 いやいやそれもまたどうかな。もしそれが昭和8年のもとなれば、今度は
昭和2年1月7日 中舘武左衛門下根子桜へ年賀挨拶
昭和7年6月22日 中舘宛書簡下書〔422a〕
昭和8年7月30日 中舘宛書簡〔241a〕
昭和8年9月21日 宮澤賢治逝去
という流れになり、昭和7年6月22日付書簡下書からは二人の人間関係がかなり悪い状態にあることが判るのに、そのような状態にありながら二人はその後も手紙のやりとりをしていたであろうことになる。そうすると、賢治には中舘に関しての好ましくない精神衛生状態が長期間、それも賢治の死の間際までも続いていたと考えられることになるのだから。
荒木 そうだなそれもまた賢治らしいことではないから困る。それならばやっぱり昭和3年の方がまだましか…。いずれ、どちらにしても俺にとってはしんどいな。
今まで、賢治は紳士そのものとばかり俺は思ってきたが、『呵々。妄言多謝』だもんな…。
吉田 何も困ることはないだろう。さっきいみじくも荒木は言ったじゃないか、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だ、って。
荒木 そうそうそうだった。実は、なんだかんだ言ってもかつての賢治のイメージから俺はいまだに抜け出せないでいるということか。
鈴木 それは無理もない。なんだかんだ言っても、私にも「聖人君子」の宮澤賢治がいつもついて回っている。
だからやっぱり、U氏には例の中舘宛書簡〔241a〕を見せてもらいたかったな。そうすればこのもやもや感は拭えたかもしれないのだから。
荒木 諦めろ、なにしろわざわざ鈴木が2回も遠路はるばる静岡くんだりまで出かけていったというのに、一旦は見せてくれるといったあの関徳弥の『短歌日記』も結局U氏は見せてくれなかったんだべ。人生諦めが肝心!
それはさておき、この「書簡下書」中の『次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て』という文言からは、昭和3年の夏8月に実家にて病臥する前の年、すなわち昭和2年に『御目にかゝりし』ということになるから、この時二人は相見えているということとなり、これが例の昭和2年1月7日の年賀の挨拶のことを言っていることになるのか。
とすれば、さっき鈴木も言っていたように、昭和2年の正月松の内に下根子桜の賢治の許に訪ねて来るような中舘だったのだから、昭和2年当時二人の関係はやはり良好だったのだということか。
吉田 ところが、先に書簡〔241a〕の日付は昭和3年7月30日である蓋然性が極めて高いと判断できたから、この皮肉たっぷりの手紙を賢治は同年7月末に実際中舘に出していることにほぼなり、もはや昭和3年の夏には既に二人の関係はかなり悪化していたということになりそうだ。
荒木 もしそうだとすれば、それこそ、『気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ』た昭和3年8月10日の約10日前の賢治は、『ご昇天は何時でもおできでせうから』と盛岡中学の5年先輩を当て擦っていたことになる。ちょっと信じられない。となればこれは昭和3年のものではなくて昭和8年のものだったのかな。
鈴木 いやいやそれもまたどうかな。もしそれが昭和8年のもとなれば、今度は
昭和2年1月7日 中舘武左衛門下根子桜へ年賀挨拶
昭和7年6月22日 中舘宛書簡下書〔422a〕
昭和8年7月30日 中舘宛書簡〔241a〕
昭和8年9月21日 宮澤賢治逝去
という流れになり、昭和7年6月22日付書簡下書からは二人の人間関係がかなり悪い状態にあることが判るのに、そのような状態にありながら二人はその後も手紙のやりとりをしていたであろうことになる。そうすると、賢治には中舘に関しての好ましくない精神衛生状態が長期間、それも賢治の死の間際までも続いていたと考えられることになるのだから。
荒木 そうだなそれもまた賢治らしいことではないから困る。それならばやっぱり昭和3年の方がまだましか…。いずれ、どちらにしても俺にとってはしんどいな。
今まで、賢治は紳士そのものとばかり俺は思ってきたが、『呵々。妄言多謝』だもんな…。
吉田 何も困ることはないだろう。さっきいみじくも荒木は言ったじゃないか、《創られた賢治から愛すべき賢治に》だ、って。
荒木 そうそうそうだった。実は、なんだかんだ言ってもかつての賢治のイメージから俺はいまだに抜け出せないでいるということか。
鈴木 それは無理もない。なんだかんだ言っても、私にも「聖人君子」の宮澤賢治がいつもついて回っている。
だからやっぱり、U氏には例の中舘宛書簡〔241a〕を見せてもらいたかったな。そうすればこのもやもや感は拭えたかもしれないのだから。
荒木 諦めろ、なにしろわざわざ鈴木が2回も遠路はるばる静岡くんだりまで出かけていったというのに、一旦は見せてくれるといったあの関徳弥の『短歌日記』も結局U氏は見せてくれなかったんだべ。人生諦めが肝心!
続きへ。
前へ 。
“『聖女の如き高瀬露』の目次”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます