岩手のセリ科について以前投稿したが、たまたま昨日(11/28)近所の畑にニンジンの花が咲いていたので参考までに投稿する。
《1 》(平成24年11月28日撮影)
《2 》(平成24年11月28日撮影)
《3 》(平成24年11月28日撮影)
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たまたま『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)の「受信人索引」を見てみたならば、当たり前のことだが人と人は思わぬところでつながっているのだなと思った。
明25・12・5~昭和21・2・5
画家を志して出京し、小川芋銭に師事したが、これは生計の資とはならないためい帰郷し…動植物を愛し、賢治との交際を持った。 この阿部がまさか小川芋銭につながっているとは思ってもみなかった。ついつい犬田卯と賢治のつ . . . 本文を読む
なぜ賢治はヒデリの時に涙を流さなかったのだろうか。
これが、賢治の周辺を彷徨ってみて抱く私の大きな疑問の一つである。そんな想いがいつもつきまとっていたある日、ある座談会で吉本隆明が次のような発言
いや、そういう知識人問題には賢治はあてはまらないと思います。たとえば実際的な知識人活動の面で言えば、日本の農本主義というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止め . . . 本文を読む
『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)を見ていたならば、その口絵の中に次のような新発見?の書簡があった。
【241a中舘武左衛門あて書簡(〔昭8〕・7・30)】
これを見てびっくりした。それは日付が〝〔昭8〕・7・30〟、つまり昭和8年7月30日となっていたからである。この前年、昭和7年の中館武左衛門あて書簡下書があることは知っていたがまさか昭和8年の書簡もあったとはそれまで知らな . . . 本文を読む
我々の言いたいこと
鈴木 そろそろ今回はエピローグということにしたいのだが…。
吉田 ではここまで三人でやって来て、いま言いたいことを各自一言ずつというのはどうだ。
鈴木 おおいいね。先ずは是非これは私に言わせてほしい。もちろんそれは、
・高瀬露は悪女である理由も、悪女扱いされる根拠も実は殆どない。
ということだ。それは、従前の証言や資料だけでもそう言えると思っていたのだが、この度新たに得た . . . 本文を読む
露の帰天を待っていた?
鈴木 ところで、先ほどのHの発言
今回は高瀬露さん宛の手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
だが荒木は気にならないか。
荒木 もしかすると、Hは露が亡くなったならばその時にはその名を明らかにしようと初めから企てていたのかもしれないということかな。
鈴木 そう、そこで . . . 本文を読む
つい見過ごしていたものがあった。それは『宮澤賢治と三人の女性』の最終頁に書かれていた次のようなことである。
飛田三郎氏が遺稿全部を筆記して原稿をつくり全集出版の手はずをととのえた。はじめ高村光太郎氏を通じて岩波書店に交渉したが全然無名ではとことわられた。つづいて「文体」を出していた書物展望社に交渉、内容見本も出來、細目まで計画されたが、これもついに放棄された。と著者のMが書いていた。もちろんこ . . . 本文を読む
大正15年の12月に上京した賢治は神田の上州屋に下宿したという。そして三日間ほどそこから荏原郡千鳥の大津三郎宅までチェロの特訓を受けに行ったというのが通説になっているようなので、確認のため先週末それぞれの場所を訪ねてみた。
さて、『賢治地理』(小沢俊郎編、學藝書林、132p)によれば
上 州 屋:神田錦町3丁目19番地
大津三郎宅:大田区千鳥町649番地
となっている。
そ . . . 本文を読む
『校本全集』「補遺」が露の名を明らかに
荒木 ところでさ、ここまではMや儀府成一のことばかり俺達は問題にしてきたが、この二人は少なくとも高瀬露の名は明らかにしていなかったはず。とすれば誰がそれを明らかにしてしまったのだろうか。
吉田 そうだよな、さっき僕は『もともとMには露に対する配慮などというものは全くなかったということになる』と言い切ってしまったが、その点ではこの二人は配慮していたということ . . . 本文を読む
花巻市内をちょっと散策。
まずはギンドロ公園。
《1 》(平成24年11月22日撮影)
《2 》(平成24年11月22日撮影)
《3 》(平成24年11月22日撮影)
《4 》(平成24年11月22日撮影)
《5 》(平成24年11月22日撮影)
《6 》(平成24年11月22日撮影)
《7 》(平成24年11月22日撮影)
《8 》(平成24年11月22日撮影)
花巻 . . . 本文を読む
証言等から導かれること
鈴木 それじゃ今までに幾つかの証言を新たに得たり、資料等が見つかったりしたのでそれらに基づいて導かれた結論等を以下にまとめてみる。
① 同僚佐藤誠輔氏の証言
この方の証言内容は『七尾論叢11号』における菊池映一氏や工藤正一氏らの証言内容とも符合していて、同僚から見た露に対する評価は高いことをさらに裏付けてくれるものであり、露が悪女にはほど遠い人物であったことを示唆するもの . . . 本文を読む
いわんや儀府の場合においてをや
荒木 一方の儀府成一の場合はどうなんだろう。
鈴木 そのためには、Mと儀府のそれぞれの著書における高瀬露に関する記述を見比べてみれば明らかになろう。
先ずはMの「昭和六年七月七日の日記」の中の
村のひとたちは、彼女のいることについてどう考えているかと彼は心を痛めた。彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家も借りてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、今す . . . 本文を読む
これは大変なことに
吉田 となれば次は原点に戻って、「昭和六年七月七日の日記」の記載内容がはたして如何ほどの真実を伝えているかということについてだ。
荒木 そこなんだな、以前吉田が『これは大変なことになった』と言っていた意味が。俺にも少しずつわかったきたぞ。
鈴木 たしかにな。皆んなで一緒に
一つ目として高瀬露の下宿の仕方
二つ目として当時の交通事情
に関わって考察してみた結果、「昭和六年 . . . 本文を読む
良心の呵責
鈴木 まあ、Mが人文書房から『宮沢賢治と三人の女性』を出版したのは1949年(昭和24年)だからその時おそらく42歳、その姿勢には問題があるとしても、あまり良い譬えではないかも知れないが「40歳にして惑わず」ということで遮二無二勢いで同書を著したということならばそれはそれ多少わからない訳でもない。
また、よくよくえてみればMは1943年(昭和18年)に直木賞をもらったのにも関わらず、 . . . 本文を読む
荒木 いまいち俺にはわからん。
鈴木 じゃ逆に、そのことに直接すぐにとっかかることはやめて少し回り道をしてみよう。
以前、高瀬露の下宿の仕方が自炊であった等の事実がわかったことから、「昭和六年七月七日の日記」の中にある次の内容
村のひとたちは、彼女のいることについてどう考えているかと彼は心を痛めた。彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家も借りてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、今 . . . 本文を読む